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ガレキ通りの小娘  作者: 駄文職人
袖振り合わなくとも多少の縁
2/14

とらねこ亭

 不幸なことは重なって起こるものだ。


 フォルテ・スタッカートにとって今日はまさにそんな日だった。


 朝起きた瞬間に足がつり、そんな足を引きずっていると散歩中の階段から転げ落ち、愛用の革靴のひもがぶっちり切れ、通りを歩けば町のゴロツキに当たり、ほうほうの体で逃げた先で自分の命よりも大事な譜面を失くしたことに気が付き、慌てて戻って探すも見つかるはずもなく、やけになって酒場に飛び込みカードでカモられ、身包みをすっかり引っぺがされて夜道をとぼとぼ歩いていると、自分ほど不幸な人間はいないのではないかとさえ思えてくる。

 平等な北風も彼を哀れんではくれない。


「この辺り、崖ってあったかな……」


 誰もいない路地でぽつりとつぶやく。完全に目があちらの住人だった。


 頭にほどよく回ったアルコールのせいで希望もない考えばかりが頭をよぎる。

 崖がなかったら時計台に行こう。ああ、でも時計台だと警備の人がいるかもしれない。飛び降りはあきらめるか。いやしかし首吊りはいやなのだ。苦しそうだしなによりこの喉をつぶしてしまうのはどうにもいやだ……。


「何をぶつぶつおっしゃっているのです」

「あぁ、頼む! 止めないでくれ!」


 自分の世界に入り込んでいたフォルテは、声をかけられて反射的にそう叫んでいた。


「ひじょうに耳障りです。止めてほしくなければ他の道を通ってくださいな」


 え、と冷や水を浴びせられたように我に返る。

 家と家の間のわずかなすき間に隠れるようにして黒ローブがそこにいた。抑揚のないアルトでそれが女性だと分かるだけ。胡散くさいことこの上ない。

 彼女の手にした小さなハープがポロン…と鳴り、音が泡となってほのかに光りながら夜闇に浮かび上がっていく。


「愚痴なら余所でお願いいたします。音がにごってしまいますので」


 丁寧ながら彼女の言葉には冷たい響きがあった。

 目の前をふわふわと横切っていった泡につかの間見入り、フォルテは目をしばたかせた。


「失礼、レディ。貴女はマ…」

芸術家(マイスタ)なのかと尋ねるおつもりでしょうか。愚問もはなはだしいですね」


 芸術家とは、芸術において秀でたセンスを持つ者の総称である。自身の作品に奇跡を込めることができる、選ばれし者の称号。

 ハープから浮かび上がる泡は奇跡が込められた【力ある音】。つまり、芸術家である証だ。だから彼女が愚問だと断じたのも分かる。

 分かるのだが。


(どうしてぼくは初対面の人間にここまでぼろくそに言われなくちゃならないんだろう)


「ご用件はそれだけですか?」


 ならとっとといねとばかりに突き放す。

 とどめであった。

 傷心だったフォルテはひざから崩れ落ち、顔をおおってさめざめ泣き始めた。


「おお、神よ。私をお見捨てになったのか! ぼくはひたすらまじめに生きていただけなのに」


 ローブ越しでも彼女の視線が五度ほど下がったのが分かった。


「見苦しいのは格好だけにしてください。大の大人が情けないですね。上着など賭けるからそんなことになるのです」


 そう、今のフォルテには何もない……服さえなかった。


 かろうじて生まれたままの姿になるのは免れたが、それ以外はものの見事にはがされパンツ一丁の状態。彼の身に着けていたものはさっさと詐欺師たちに換金されてしまっているだろう。

 しかしフォルテが涙に暮れている理由はそれではない。


「服はいいんだ……いや、人としての尊厳とか、そういうものまで失った気がするけど、それだけじゃない。ぼくは今日、とんでもなく大切なものを失ってしまった……もう生きる気力もない」


 しばしフォルテの言葉に耳を傾けていた黒ローブ。

 わざとらしくため息を一つ。


「話してみなさいな」

「え?」

「わたし、これでもまじない師を生業としています。殿方の心をなぐさめる言葉の一つでも、かけて差し上げることができるかも知れませんよ。それに貴方、とても因果な音を鳴らしています」

「因果…?」

「とてもとても大きな、ね」


 よく分からなかったが、ようやくかけられた話してみろという言葉に胸を打たれ、フォルテは自分の失くした大事なものの名をあっさりと口にした。


「〈調和〉の楽譜です」

「楽譜…?」

「はい。ぼくの命よりも大事な宝物……ぼくの全てだったんです。大事に持っていたはずなのに、人にぶつかってもめている内にいつの間にか落としてしまっていて……今日、日が高いうちはずっと探していたんです! なのに見つからなくて」

「自警団には?」

「話しましたが、ガレキ通りで失くしたものはほとんど見つかることはない。あきらめろって」

「大事な楽譜を持ってガレキ通りをうろついていたのですか」


 黒ローブは呆れ返った。


「殿方、このマグナリアの者ではありませんね」

「三日前に引っ越してきました。でも、なぜそれを?」

「ここの者なら誰でも知っていることです。ガレキ通りに近づくな……まともな神経の持ち主ならまず訪れたりはしません」


 確かに町のメインストリートの一つのはずなのに人気が少なく、おまけに倒壊した家や施設をいくつも目撃した。まさしくガレキだらけの道だった。


「良いですか。マグナリアはガレキ通りをはさんで東西に分かれた町です。わたしたちのいる西地区は無形派の芸術家が、東地区は造形派の芸術家が牛耳っているのですよ。ガレキ通りはちょうど二派の闘争がはげしい地域、無法地帯なのです。人にぶつかったと言いましたね? ひょっとして、相手は青い剣の刺青をしていたのではないですか?」

「あっ」


 言われてみれば、していた気がする。


「青の剣は造形派の印です。おそらく貴方の持っている楽譜を最初から狙っていたのでしょう」

「と、いうことは?」

「盗まれましたね、貴方」


 がーんというショックが頭の中を走りぬけた。

 落としたとばかり思っていたので、盗まれたという考えにいたらなかったのである。


「なんてことだ。ぼ、ぼくは、なんてことを……」


 フォルテは半裸で頭を抱え、全身で苦悩を表現した。


 造形派、無形派とは芸術家を区別する思想だ。


 造形派は形あるモノ、つまり絵や彫刻を至上とし真の芸術だとする一派。

 無形派は逆に形ないモノ、音楽こそが芸術の中でもっとも優れていると考えている一派。


 造形派と無形派は犬猿の仲だ。造形物と音楽。真逆の性質をもった芸術がどちらも「自分が一番」と思っているのだから当然である。二派のいさかいは他の町でも珍しくない。フォルテも今まで散々見てきたものだ。

 まさかそんないがみ合いの渦中に、知らなかったとはいえほいほいと楽譜を持ち歩いていたなんて。

 ぼくは、なんてバカなんだ。


「ええ、残念ながらかつてないくらいバカです」


 がっくりと地面に手を付く。ああ、時が逆に回ればいいのに。そうすればあの譜面を大事に家の金庫にしまっておくだろう。


「バカですが、しかし救いようのないほどではないようですね」


 絶望に転落しかけるフォルテを、黒ローブの言葉が引き止めた。

 ぽろん、とハープの弦を指ではじき、黒ローブは夜空を仰ぐ。


「なるほど、退屈しのぎにはなりそうです」

「?」


 怪訝な顔をするフォルテに、黒ローブのすそから真っ白な指が伸びた。


「では約束通りアドバイスを教えて差し上げましょう。これからもう一度ガレキ通りへ向かいなさい」

「えぇっ!」

「怯えなくとももう失うものなどないでしょう。ガレキ通りへ行って、五〇四番地のとらねこ亭という居酒屋を訪ねなさい。この時間ならまだ開いているはずです。魔女の客だと言えば、そこの者がなんとかしてくれるでしょう」


 なんとかって、どういうこと?


「では、ごきげんよう。不幸な殿方。次はもっとましなお姿の時にいらっしゃい」


 ちょっと待ってくれ、と言う前に目の前を何かがさえぎる。

 先ほど彼女が鳴らした音の泡だった。

 焦点が合う前に、目の前で泡がぱちんとはじける。

 とたんにハープをかき鳴らす音が耳の奥まで一気に駆け巡った。


「うわあっ」


 耳をふさげど、【力ある音】はアルコールで弱った頭を容赦なく揺さぶる。たまらずフォルテは冷たい地面にうずくまった。

 音の乱舞に目の前が真っ暗になる。

 どれくらいの時が経っただろう。気が付いた時には黒ローブの影も形もなかった。



 とらねこ亭はすぐに見つかった。


 大きな酒場で、こんな夜更けだというのにこうこうと店内の明かりが通りへ漏れている。


 中に入りかけ、自分が一体どういう格好をしているかを思い出す。この貧しすぎる姿では無銭飲食を疑われる前に不審者として通報されてしまう。

 フォルテは店の入り口で幸せそうな顔で寝ている酔っ払いたちを尻目に店の裏手へと回ることにした。


 裏口からのぞいた厨房は、まさに戦場と化していた。


「八番、三十二番、ジョッキ追加ぁ!」

「おい、料理はまだが! とろとろしてんじゃねぇぞ!」


 声をかけようにもかけづらい。

 女の人が来たらどうしようとはらはらして様子を見ていたフォルテだったが、幸い彼に最初に気が付いたのは男の店員だった。


「何してんの、あんた。うちに何か用?」


 ボトルの詰まったケースをがちゃがちゃと運んできたのは、人懐っこそうな店員だ。まだ少年といえる年頃かもしれない。

 裏口に突っ立っている半裸の男に不審半分好奇心半分の目を向ける。

 いくぶん安堵してフォルテは先ほどの出来事をかいつまんで説明し、言われた通り魔女に紹介されてきたと告げた。


「魔女の客?」


 ビールをジョッキに注ぎながら聞いていた店員は、ふいに心当たりを思い出したらしく表情を明るくした。


「ああ、カルミナか! あの人最近見ないと思ったら!」


 屈託ない笑みをフォルテに向け、店員は親指で中へとうながす。


「入んなよ、兄さん。今日はこの時期一番のかき入れ時だからちょいとごたついてるけど、日が変わりゃ落ち着く。話はそれから聞いてやんよ。そこの倉庫にうちの制服の予備があったはずだから、適当に使ってくれ。その格好じゃ寒いでしょ」


 久々にかけてもらった温かみのある言葉に、フォルテは不覚にも目頭が熱くなった。


 とらねこ亭の制服は黒のパンツにネイビーのワイシャツ、刺繍のついた黒のベストという小洒落たものだった。身長百八十センチ強のフォルテは自分のサイズがなかったらどうしようとどきどきしていたが、運よく一着ずつ彼に合うものが残っていた。

 着替え終わって倉庫から出ると、先ほどの店員がその辺りの鍋からスープを注いでフォルテに差し出した。


「ぼく、お金持ってないんですけど……」


 受け取るのをためらったフォルテに、店員は吹き出した。


「さすがにパンツ一丁のヤツからふんだくらねーよ。店が落ち着くまでそこの椅子で座って待っててくれ。余りもんでよかったら夜食でも持ってこさせるからさ」

(神よ……っ)


 フォルテはもろ手を上げて拝んだ。


「おーい、ラッグ! こっち手伝ってくれ!」

「ああ、ついでにそこのトリ持ってきて!」

「シェリー一ジョッキ十二、あとグラーシュ二皿ぁ! ラッグ、こっちも頼む! 手が足りねぇよ!」

「ほいきた!」


 ラッグと呼ばれた店員が奥へと返事し、んじゃごゆっくり、とフォルテに声をかけて戦場に身を投じていった。


 包丁がテンポよくまな板を叩き、肉の焼き色が付く音が小気味よく響く。鍋蓋がことことと踊る音が合間に滑り込み、低音部を湯から沸騰した泡がぐつぐつと支える。シェフたちの怒号や店内から漏れ出る喧騒がその上に覆いかぶさっていた。にぎやかなオーケストラでも聴いているようだ。


 スープをちびちび飲みながら、どれほどそうしていたか。


「おーい、そこのウェイター!」

「ぶはっ!?」


 いきなり怒鳴られてフォルテは飛び上がった。

 フォルテが入ってきた裏口から、真っ赤なユデダコのような男がひょっこりと頭をのぞかせた。


「へへ、いっくら呼んでも注文にこねぇから裏から来ちまったよ。なにさぼってるんだい、バーテンさんよ。酒足んねーよぉ、お、さ、け! まだまだおれは飲むんだよぉ」


 と機嫌よく持っていたボトルごとぐいっとあおる。

 ぶへーっ。


「おれぁ一番奥のテーブルにいっからよぉ、追加二本! よろしくたのむよぉ」

「あ、あのぼくは」


 店員じゃないんですが。

 という前にふらふらとタコがよろしくね~と手を振って去っていってしまう。

 困って周りを見回したが、あまりの忙しさに誰も酔っ払いの存在に気が付いていないようだった。

 先ほどの店員が置いていった木箱を見やり、


「仕方ない、よな」


 服とスープのお礼だ。

 ボトルを二本両手につかみ、フォルテは意を決して混沌の渦と化しているとらねこ亭のホールへと足を踏み出した。




 見渡す限りの人、人、人。

 テーブルや椅子はあるがほとんどがあちこちへ押しやられ、客のほとんどは立ちっぱなしだ。完全に定員数を上回っている。

 耳をおおう笑い声、だみ声、怒鳴り声。酒気をおびた声があちこちに飛び交う。葉巻やパイプを吸う客がいるのだろう、店内はうっすら白く煙っぽかった。


「なにぼさっと突っ立ってやがる! どけ!」


 屈強な客に押しのけられたかと思えば


「あらん、ずいぶんきれいな顔の店員さんねぇ」


 明らかに化粧の濃い女性が色っぽく誘う。


「き、勤務中ですので!」


 しゃちほこばって叫び返し、飽和状態の人垣をかきわけて奥へと入る。

 グラスでなくてよかったと思った。きっと人に押されて派手にぶちまけていただろう。


「ねー店員さん」

「すいません、注文は後に!」


 と逃げようとして、フォルテは目をむいた。

 明らかに未成年と見えるフリルドレスの少女がフォルテの腕に手を絡ませる。


「君、新人さん~?」


 ふわふわの金髪に陶器人形を思わせる可愛らしい顔。

 ぽてんと首をかしげ、とろける笑顔を浮かべる。

 しかし一瞬見とれた次の瞬間、すこーん、と膝が抜けた。

 鮮やかな足払いだった。

 遅れてフォルテの頭があった所を飛来したナイフが素通りする。


「……っ!」

「ぼーっとしてたら危ないよ~? ここの人、みんな手癖悪いんだから」


 絶句するフォルテの前で、いつの間にか奪い取ったボトルをくるくると回す。

 ラベルを見て娘は落胆した。


「ありゃ、リンゴ酒じゃないや。ざんねーん」


 フォルテの固まった手にはいと戻し、ぱたぱたと去っていった。



 リンゴ酒じゃないと分かっていたら、自分はどうなっていたのだろう……。



 近くがどっと沸いた。どうやらナイフでダーツをしていたものらしい。フォルテの頭上を通過したナイフが壁に描かれた貧相な的の真ん中を打ち抜いている。


「危ないよ、あんた!」


 身の危険を感じその場から飛びのいたフォルテは、自分がしりもちをついていたところに椅子が叩きつけられ、粉々になるのを見た。

 散った破片が頬をかすめる。


「そらみろ、おれの勝ちだ!」


 ガッツポーズするのはまばゆいばかりの筋肉をみせるマッチョ。こちらは力自慢大会の真っ最中らしい。

 彼を喝采が囲う。

 フォルテはよろよろとその場を脱出した。


「おーい、兄さん! こっちこっち」


 タコ男のもとへかろうじて生きて辿り着く。


「い、いったいここは何なんですか!」


 自分が店員の格好をしていることも忘れてわめく。


「なにってあんた、天下のガレキ通りの中心、とらねこ亭だよ!」


 喧騒に負けじとこちらも叫ぶ。


「荒くれどもの温床地さぁ! 暴れ足りない力自慢の馬鹿たちが夜な夜な集まるのさ! 気のいい悪党どもと仲良くなれるぞ、どうだ君も!」


 とんでもない所に迷い込んでしまった、とフォルテはようやく悟った。


 突然、店内をギターレの音が切り裂く。


 幅広の帽子をかぶった男が、リズムという概念を嘲笑うかのように弦をかき鳴らす。

 やがて店内からどこからともなく指笛が響いた。


「やあ、待ってました!」


 タコ男が嬉しそうに手を叩いた。

 木箱を並べただけの質素なステージの上に、真紅のドレスがひるがえる。




 フォルテは一目見た瞬間、呼吸をするのも忘れた。




 鮮やかな緋色の髪が揺れていた。真っ白な肌に瞳と同じ翡翠のアイシャドウが乗り、やわらかい印象を生み出す。

 薄桃色の唇が微笑みを浮かべると、ステージの周りから歓声が飛んだ。


「こっち向いてくれ!」

「コシュカちゃーん!」

「あれ歌ってくれよ! この間のワルツ!」

「すいません、あとでサインを!」


 それらを包み込むように娘はもう一度笑い、ギターレをかき鳴らす男と目配せをする。

 華奢な体にめいいっぱいの空気を吸い込み。

歌い始めた。


《乾杯! 今この瞬間に

仲間と笑い合える この奇跡に

さあ、歌え!

我らを止めるものなどありはしない!》


 ソプラノが高らかに旋律を紡いだ。

 美しくも気高い声が、とらねこ亭の客たちの心を打つ。

 フォルテは、これほど力強い歌を聴いたことがないと思った。

 酔っ払いたちが音楽に合わせてテーブルを叩く。暴れまわっていた男たちがつま先で勝手な拍子を刻む。この時をずっと待っていたというように。


《乾杯! くだらないこの世界に

 馬鹿みたいに ゆかいな日常に

 さあ、踊れ!

 我らを止めるものなどありはしない!》


 この歌はきっと温かなお日様の色だ。黄色とも赤ともいえない、全てを優しく包み込む歌。檀上の歌姫は楽しくて仕方がないという様子で声を張り上げる。

 ほっそりとした首筋に、真っ白な額に、玉のような汗がにじむ。

 歌姫は歌い続けた。

陽気な音楽と熱気に包まれて、とらねこ亭の夜は更けていく。




「つ、疲れた…」


 フォルテは客のいなくなった店内で、ぐったりと椅子につぶれる。

 ボトル二本のはずがあっちこっちで引っ張りだこに合い、料理や酒を運ぶ羽目になった。もちろん人手が足りないからという理由も少なからずあるが、


「お、新人? ずいぶんきれいな顔の兄ちゃんだなー」


 店内でも頭一個分飛び出た背の高さと、道を歩けば女性に振り返られる程度に顔がいい容姿のせいで、あっという間に客に覚えられてしまったからだ。


「助かったよ、兄さん。意外と合ってんじゃないの、こういう職業。いっそうちで働いてみない?」


 冗談ではない、こんなこと毎晩続けていたら体がもたない。

 結局あれからコンサート会場と化したとらねこ亭は、アンコールを十回ほど繰り返した後にようやく閉幕した。

 すでに日は変わり、もうすぐ第五の明星がのぼろうかという頃である。


「ねえラグラグー、炭酸ミルクまだ~? コシュカちゃん待ってるよ~?」

「やべ。忘れてた」


 階段の上からぴょっこりと顔を出したフリル娘。さきほどリンゴ酒を所望していた少女である。ただの客ではなくどうやら歌姫のアシスタントをしているらしい。

 耳に飛び込んできた歌姫の名に、ぐったりしていたフォルテは顔を跳ね上げる。


「ぼく行きます! 行かせてください!」


 顔を引きつらせたラッグが止める間もなく、フォルテはカウンターに用意されていたグラスを引っつかんで階段を駆け上がった。


 あの歌の主と、一度でいいから話してみたい。


 自分の本来の目的を忘れ果て、フォルテは興奮を抑えきれない胸を押さえて歌姫の控室へ向かう。

 フリル娘が出てきたと思しき控室は半開きだった。普段は宿屋として利用しているらしいとらねこ亭の二階は、コンサートのせいかがらんと人気がない。

 フォルテはドアを待ち遠しいほどにノックした。


「すいません! 飲み物差し入れに来まし……」


 た、と言い切る前に内側から扉が弾かれるように開けられた。


「ぬおっ!?」



 遅れて、だんっと回転をつけて壁に突き立ったのは折りたたまれた譜面台だ。



 数時間前のどこから何が跳んでくるか分からない環境で鍛えられた、己の脳内の警報に従ってとっさに身をかがまなければ、おそらくフォルテの脳天に突き立っていただろう。


「なっ……なっ?」

「おせぇラグ! こっちは三時間ぶっ通しでくたくたなんだよ! 飲みもんの一つくらい、とっとと持ってこい……」


 部屋から出てきた怒声の持ち主は、廊下でしゃがみこんで震えている男に気が付き口をつぐむ。


「だれ、あんた」

「……っ」


 ヒールをかんと鳴らし、フォルテの前に仁王立ちになり見下ろす。

 片足が露出するデザインの真っ赤なドレス、髪飾りを外した背中に流れる緋色の髪。

 フォルテをにらみつける、深緑の鋭い眼光。





 ステージから降りた歌姫がそこにいた。


次回投稿は7月13日23時です。

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