決着
フォルテは彼を知らなかった。ミロの従者、チェルである。彼のもう片方の手には楽譜〈調和〉があった。
「ああ、動かないでください。さもないと二度と歌えない身体になりますよ?」
「それを返してくれ」
「できない相談です」
うっすら笑みさえ浮かべてチェルは答えた。
「ここで造形派の主席が無形派とやりあう前に自滅し、自ら奪った楽譜も失ったとなれば失脚は必至。彼に仕えている私の生活も危うい……。お分かりですね?」
「お……おぉ、我が忠実なるしもべよ! よくやった! さあ、その楽譜をこっちに寄越すのだ!」
やぐらの上から聞こえるミロの声に、チェルは目もくれずに答える。
「無能なマスターはちょっと黙っててください」
「無能っ!?」
ショックを受けたミロが再びばたりとやぐらの奥に消える。
チェルは撃鉄を起こし、引き金に指をかけた。
「この楽譜がこちらの手元にある以上、無形派への牽制にはなるでしょう。こちらの体勢を立て直す時間稼ぎにはなるはず。それまでは利用させていただきます。さあ、後ろのお仲間たちを退かせてください。貴方のおかげで、余計なことにかまけている暇などなくなったのですから」
チェルから目をそらさないまま、フォルテは自分の喉がひりつくのを感じていた。
かろうじて声は出ても、もう【力ある音】は生み出せないだろう。あともう一歩なのに!
「諦めなさい。貴方はよくやった」
チェルの指に力がこもる。
「……最後に聞かせてくれ」
時間稼ぎのつもりで、フォルテはジョコンダ家の従者に尋ねる。
「君たちに、〈調和〉の存在を教えたのは誰だい? あの楽譜の存在を知っているのはほんの一握りだけのはずだ」
「それを聞いてどうするのですか?」
フォルテの真剣なまなざしに、チェルは仕方ないと嘆息した。
「私たちはただ、スラーの遺作を燃やしてほしいと依頼されただけです。あれはこの世にあってはならないものだとね」
「そ……そうだ! 音楽に関わるものはいわずもがな存在してはならないっ! ワタシは即刻その依頼を受け、造形芸術の新たなる時代の足掛かりとしてだな……」
「口しか回らない役立たずはすっこんでてください」
「役立たずっ!?」
チェルは首を振って見せる。
「後先考えずにバカマスターは首を縦に振りましたからね。間者を通しての依頼だから名前も顔も知らない。これで満足ですか?」
絶句した。
造形派に依頼した人物とは、まさか……。
「五秒、時間を差し上げます。それまでにここから立ち去りなさい。ちょっとでも歌う素振りがあればすぐに撃ちます」
五秒後にはチェルの銃から火が噴くのだろう。彼は本気だ。
フォルテは歯噛みした。
「五……四……」
時間が迫る。
その時フォルテの後ろでは、ラッグが〈四神〉の残骸の中で金色に輝くものがうごめいているのに気が付いた。グリフォンの一部にまぎれて、何かが息をひそめている。
ラッグはベストのポケットから透明なガラス片を取り出した。
彼の手の中でしばしもがいた【躍動ある息吹】は、空に向かってはばたく。
「三……」
舞い上がった蝶の存在に、チェルは気が付かない。
◇
「お」
マスケット銃をかまえていたメニが、日の光にきらめく「合図」に笑みを広げた。
ぴったりと銃身に身を付け、狙いがぶれないよう調整する。
ずっと上から状況を把握していたメニには、狙うべき標的が何か分かっていた。
「んじゃ、いっきま~す」
ささやいた。
メニのすぐ下にある時計は、ちょうど午後三時を指していた。
◇
「二……」
突如、町中に鐘の音が響き渡る。
これには誰もが仰天した。こんな状況だというのに、市庁舎の人間が職務を全うしたのだ。記念すべき一回目の点鐘は住人のいない町にむなしく反響する。
音に驚いたチェルの意識が一瞬それた。
隙をうかがっていたフォルテが、その一瞬の間にチェルに飛びかかる。目的は楽譜だ。
だがフォルテが辿り着く前にチェルもそれに気が付く。銃をかまえ直し、フォルテに照準を合わせる。
轟音。
だめか、と思ったが、いつまでたっても衝撃は来なかった。
チェルの身体がぐらつく。その手に拳銃はもうなかった。
メニの時計台から放った銃弾がチェルの銃に直撃したのだ、とは考えが至らなかった。
あともう少しで楽譜に手が伸びるという時、フォルテの視界の端で何かが跳ねた。
〈四神〉の影に隠れて待機していた、純金のニシキヘビ〈悪意のささやき〉である。ミロはまだ諦めていなかったのだ。フォルテを捕らえようと、彼の作品が猛然と襲いかかる。
その追撃を止めたのは、さなぎから羽化したばかりの〈小さな略奪者〉だった。
拳銃にぶち当たった瞬間、その衝撃で殻が割れて中の蝶が飛び出したのだ。透明だったため誰にも気付かることなく接近を果たした〈小さな略奪者〉は、ニシキヘビのあぎとを避けて木の葉のごとく黄金に取り付いた。
一瞬の攻防であった。
突如腕に走った衝撃に面食らったチェルは、思わず楽譜を取り落とした。
楽譜はページをはためかせて、まだ残っている火の中へ。
一切迷わなかった。フォルテは躊躇なく炎へとダイブした。
◇
コシュカが駆けつけた時、地面にどんもり打って倒れこんだフォルテの服に、火が燃え移った所だった。
「フォルテっ!」
悲鳴。
すかさず駆け寄ったガレキ通りの男たちが、自身の上着を暴れるフォルテにかぶせて鎮火する。
「おい兄さん、生きてるか!」
「誰か、早く水持って来いっ!」
「フォルテ!」
コシュカが近付くと、うつ伏せにうずくまっていたフォルテが自力で起き上がった。
心配げに覗き込む人の輪の中心で、フォルテはボロボロの風体のまま笑った。
「ハ……ハハ……」
その腕にはしっかりと楽譜が抱きかかえられていた。
コシュカはそれを見て全身の力が抜ける。
「こ……んのっ、ドアホがぁっ!」
安心した瞬間、怒りが爆発した。
「んな紙っぺらにマジで命賭けることねぇだろうがっ! 何考えてやがる!」
「ご、ごめんよ。でも楽譜が落ちていくのを見て、つい」
「つい、じゃねぇっ!」
ひとしきり怒鳴り、コシュカはあぐらをかいて髪をかきむしった。
「ほんっと、カッコ悪」
服は焦げているし髪はぼさぼさ、あちこち煤だらけの泥だらけだ。王都稀代のテノール歌手が見る影もない。
それでもフォルテの表情は晴れ晴れとした笑顔だった。
◇
任務を見事完遂したメニは、よっこらしょ、と声を上げて身を起こした。
眼下に見える賑わいに、ちょっぴり良いことをしたと笑う。
硬直した身体をほぐし、自分もあのバカ騒ぎに加わろうと荷物をまとめ始めた。新作の出来は上々だ。さすがアージ=オル、いい仕事をする。
時計台を降りようとメニが階段にさしかかった時、ふと思いいたってフリルの中をまさぐった。
手に握られたのは、桃色のルージュ。
メニは機嫌よく、手近な壁に書き慣れたいつもの一言を走り書いた。
『参上つかまつりました』
怪盗ルージュは満足げにうなずき、ぽてぽてと階段をリズミカルに降りて行った。
この日、時計台から青い剣の像が忽然と消えたのは、また別の話である。
◇
彼は苛立たしげに舌打ちをした。
あのジョコンダの小童はしくじった。無形派を潰すどころか、楽譜一つ燃やすことさえできなかった。所詮は田舎の青い総大将といったところか。
今回の件で全国の二派の組合は警戒するだろう。自分のことを嗅ぎつけられる心配はないだろうが、大いなる目的のために動きづらくなるのは間違いない。
時間はそう残されていない。
彼がきびすを返そうとしたその時だった。
「どこへ行かれるのです?」
ふいに声をかけられた。
「面白いのはこれからですよ」
「貴様は……」
彼女を知っていた。マグナリアのカルミナ・ブラーナといえば変り種でよく知られている。確かハープを扱うはずだ。楽器を手にしていないのを見て、幾分ほっとした。
「何の用だね?」
「それはこちらのセリフです。スタッカート卿、貴方がマグナリアに何の用です」
貴族の階級の割に、その服装は町民のように質素だった。道ですれ違っても、誰も彼を音楽家だとは思わないだろう。皺の折りたたまれた目元や、白髪交じりの金髪はフォルテと瓜二つである。
「不肖の息子がここにいると聞いた。父として追いかけてくるのがそんなに不自然かね」
「ならば顔でも見てこればよろしいでしょう。何をこんなところで油を売っているのです」
スタッカート卿は沈黙した。
カルミナは淡々と追い詰める。
「今回の件、最初からおかしかった。誰か内通者がいるのは明白でした。どこかにマリアにスラーの遺作の存在をほのめかし、ミロに楽譜の焼却を依頼した者がいる。……貴方以外にありえないのです、スラーの新譜があることを知っている人物は」
「馬鹿な! 〈調和〉のことは無形派の上層部なら誰でも知っている」
「これのことですか?」
カルミナがローブの懐から取り出したのは青色の装丁。
スタッカート卿の目尻がつり上がった。
「それをどこで!」
「もちろん、王都の組合本部から。保管庫の扉をこじ開けるのには骨が折れましたよ、ええ全く」
ふんと息をつく。そして、ページをパラパラと指で流し、顔をしかめた。
「こんなものが楽譜なんて、無形派の死に損ないどもも思い切った決断をしたものです」
開いたページは白紙だった。
次のページも、そのまた次も。
「偉大な作曲家スラーは、自身の傑作を書くことなく短命を終えた……公式ではそうなっていますね。本部で保管されたのは、わずか数ページのみ走り書きされただけの書物。だから世の中の人々は、これこそがスラー最後の作品だと思い込んでいました。実際、これにはまだ何か秘密があるのではないかと夢見た馬鹿なロマンチストがわたしのもとへとやって来ましてね」
自称研究者がとらねこ亭まで押しかけてきたものだから、カルミナは断るのに本当に苦心した。ラッグやメニが〈調和〉を目にしたのも、おそらくその時だったのだろう。
「作曲家スラーは無形派たちに自分の傑作を残すつもりなどさらさらなかった。このダミーはそういう意味でしょう」
「残されてたまるか。あんな……駄作!」
スタッカート卿は吐き捨てる。
カルミナは首を傾げた。
「その口ぶりですと、貴方はどうやら本物の調和を聞いたことがあるようですね? そしてそれを聞いたがために、公になる前に燃やしてしまおうと考えた」
コンサートで演奏する前に、フォルテは父の前でその曲を演奏したのだ。彼は戦慄した。こんな曲を世に広めるわけにはいかない。
だから実の息子を、無形派から排除した。
「スタッカート家は先日、王都の造形派に襲撃されて失脚したそうですね? おまけに跡取りまでいなくなって、踏んだり蹴ったりでした。今回あなたがもくろんだのは、うっかり息子が持ち去ってしまった楽譜を燃やすことだけではなく、造形派への復讐も含まれていた。造形派と無形派どちらが勝とうがどっちでも良かったのでしょう。二派の均衡が崩れれば、必ず世界各地で聖戦が勃発する。貴方の目的は規模は違えどミロと同じ……造形派に報復するための名目がほしかっただけ」
スタッカート卿は何も言わなかった。
町一個破滅しても構わない、ただ自分からすべてを奪ったモノに復讐がしたかった。
カルミナは肩をすくめる。
「ですが、その野望は阻止されたわけです。皮肉にも、貴方自身の息子によって」
「愚かな行為だった」
「そうですね。しかし彼が守ったものは大きかった」
「無駄なことだ」
「そうでしょうか?」
カルミナはスタッカート卿にまっすぐ指を突き付ける。
「ご自身とフォルテを見比べてみなさい。全てを失った貴方と、全てを取り戻した彼。違いは一体なんですか?」
老人は目を見開いた。
愕然とするスタッカート卿の脇をカルミナは通り過ぎる。
「わしを捕らえんのか」
「ご老体を縛る趣味はありませんから」
「ふざけるな。ならなぜここへ来た」
声を震わせるスタッカート卿に、カルミナは肩越しに笑いかける。
「おや、ご存じありませんか。我がままと気まぐれはレディの武器ですよ? ジェントルマン」
カルミナは両手を広げ、丸い空を仰ぐ。
「音楽の本質は、自由であること。近頃の無形派は窮屈だと思いませんか? 功名心とか誇りとかね。わたしに言わせてみれば、あんなものわずらわしい枷ですよ」
少なくとも、とカルミナは歌うように続けた。
「貴方の息子は自由を満喫しているみたいですよ? 貴方も良い機会です。見習ってみてはどうです?」
まじない師は迷える老人に人生の指針を示した。
次回で最終回です。
9月28日23時に更新します。