音楽の本質
「おんや~?」
目の上に手をかざし、メニは小首を傾げた。
彼女は中央広場から少々東にそれた地点、できたてほやほやの時計台の上にしゃがみ込んでいた。時を刻む歯車の音が耳につく。三時の鐘を前に、時計が本来の役目を果たし始めたのだ。
ここからは市庁舎の屋根に阻まれて、中央広場をすべて見ることができない。しかし東区へと通じる大通りなら充分見える。
今、下方で火の手が上がるのをメニはしっかり確認した。
「んまぁ、派手だこと~。フォルテっち、ちゃんと足止めできてるじゃない~」
あれだけ広範囲の火だ。造形派は容易に中央広場まで辿り着けないだろう。
ばらばらに解体して整備していたマスケット銃を組み立てなおしながら、メニはふとそう遠くない所から楽器の音が聞こえてくるのに気が付いた。
床に置いた部品のいくつかが、かすかに重低音に震えている。
「向こうもやってるみたいだね~。なんかちょっと疎外感~」
聞こえてくる音の中にコシュカの歌声が混じっている気がして、メニは笑みをこぼした。
ふんふんと調子っぱずれな鼻歌を歌う。コシュカがよくとらねこ亭で歌っているメロディーだ。
メニはジャムの空瓶をひねり、中から透明な物体を一つまみ取り出す。
オーナーから買い叩いた〈小さな略奪者〉の新作、〈コクーン〉。ガラス製のさなぎである。
メニはその透明な作品をうっとりと眺めた。
ちゅっと愛を込めて口づけする。そして火薬を詰めたマスケット銃に、弾丸としてキスマークのついたさなぎを装填した。準備はこれで完了だ。
時計台のすれすれの所に寝そべり、メニはマスケット銃をかまえた。
銃口はまっすぐ東のメインストリートに向けられる。
「さ、お手並み拝見~」
メニは実に楽しげに、その時を待つ。
◇
「ハン」
おたまを力任せに振ると、コィンッっと小気味いい音が響いた。
コシュカに審美眼があれば地面に十六分音符が転がっていくのが見えただろう。見えなくとも、耳を澄ませていればどこから【力ある音】が飛んでくるかぐらい何となく分かる。
「やるわね。じゃあこれはどうかしら?」
唇にピッコロをあてたマリアが、穴の開いたキーに小指を乗せる。
指の動きに合わせて音が小刻みに震える。【力ある音】が渦を巻き、先端をとがらせてコシュカに迫る。
〈トリルドリル〉
コシュカはその場を飛び退いた。逃がさない、とばかりにドリルが追撃する。
前転したついでに誰かが落としたフライパンを拾い上げ、コシュカはそれを胸の前にかまえた。
ガギギギギギギッ! とすさまじい音が耳を引っ掻く。フライパンが弾き飛ばされかねない振動に、コシュカはおたまを捨てて両手で抑え込んだ。
やがて音が減衰し、振動が収まる。
「あっぶねぇな」
フライパンの底に穴は開かなかったのは幸いか。
コシュカは立ち上がった。
「どうした。おばさん、もう息切れしちゃったかよ。年じゃねぇの?」
「ホント小癪なガキだわ!」
金切声でマリアが叫ぶ。
コシュカの歌を聞いてからこっち、マリアに落ち着きがなくなってきている。苛立ちもそろそろ振り切れる頃合いか。
コシュカはこっそり肩をすくめる。
「そんなにカリカリしてっとシワが増えるぜ」
返事の代わりにローBのロングトーンがアクセント付きで放たれた。
コシュカはそれを難なくフライパンで打ち返す。そして舌打ち。
「誇りなんざ捨てっちまえよ。負け戦なんぞにわざとらしく小綺麗な理由つけちゃってよ。ここで造形派とマジでやり合ってみろ。あんたマグナリアにいられなくなるぜ」
「貴女には分からないでしょう。えぇ、分かってたまるもんですか!」
もはや悲鳴だった。
マリアはヒステリックにわめき散らす。
「音楽の名誉を守る戦いがどれほど重いことか! 聖戦のためにあたくしたちは多くの犠牲を払ってきた! 財産も、家族も、人生もね! お遊びでぴーちくぱーちく口ずさんでいるだけのお子ちゃまにバカにされる筋合いなどないわ!」
「お子ちゃまでけっこうだ。言い訳できたら大人になれんのかい? ずっと思ってたんだ。はっきり言ってよぉ。芸術家がどーとか、美の本質がどーとか、町の支配がどーとか……」
くわっとコシュカは目を見開く。
「んなもん、死ぬほどどーでもいいっ!」
「なっ」
「あたしらが考えるべきは、明日の飯がうまいかどうかだ! 名誉? ハッ、それって道端で転がってる身寄りのねぇガキ一匹腹を満たせてやれんのかよ! ああんっ!?」
がんっとヒールを打ち鳴らす。
コシュカは胸を張り、周囲で暴れ回っているファンクラブの面々に叫んだ。
「ヤロウども! 相手は人情のにの字も知らんバカどもだ! 丁重に西区まで送って差し上げろ! てめぇのガキに誇れねぇこぶし振るうんじゃねぇぞ!」
『うおおおっ!』
あまりの熱気に、マリアは知らずたじろいだ。
これがガレキ通りの人間たちだというのか。
「バカだバカだとよく口が回る……っ! お前たちだってそうじゃない! ガレキ通りなどに固執して、勝てもしないくせに芸術家に歯向かって……っ! あたくしたちとなんら変わらない!」
「無形派アヴェ=マリア。あんたちょっと勘違いしてねぇか」
「何ですって……?」
マリアを見るコシュカの目は冷めていた。
「一つ、あたしらは勝算もないのに喧嘩売ってるワケじゃねぇ。ぶっちゃけ勝つ気満々だ」
それからもう一つ、と血の気の引いたマリアに付け加える。
「あたしたちが武器もって戦うことに決めたのは、別にガレキ通りのためじゃない」
ガレキ通りはそもそも古ぼけているし、倒壊寸前の建物がごまんとある。多少荒らされたところでコシュカたちにとっては痛くもかゆくもない。
最初はとらねこ亭さえ守り切ればいいと思っていた。寝食できる場所さえ残っていれば何とかなる。芸術家の連中に関わってやる理由などない。
それでも、わざわざ聖戦を止めると決めた理由。それは。
「フォルテのバカが、あたしらのために本気で怒ってくれたからだ」
ガレキ通りの人間をかばってフォルテがマリアに土下座した瞬間、コシュカたちは彼のために戦うことを決めたのだ。
正気の沙汰じゃないと思ったが、残念なことにガレキ通りには正気の沙汰じゃないことを平気でやってのけるバカどもがたくさんいる。
結局フォルテの話に乗った自分も相当なバカの一員なんだろう、とコシュカは思った。
「諦めな、おばさん。もう勝負はついてる」
マリアが言い返そうとした時だった。
マリアの視界に、短く区切られたアルトサックスの音が無数に飛来するのが見えた。
ひっと恐怖を飲み込む。
とっさにピッコロをかまえようとするも、息が詰まって【力ある音】にならない。
タンギングによる三十二分音符連打のマシンガンがマリアの脇を素通りしてコシュカに襲いかかった。が、コシュカは着弾する前にその場から飛び退いていた。
「マスター、ご無事ですか!?」
行きがけにマリアの心配をしてくれた若い弟子だった。
彼女の顔を見て、マリアはその場から動けなくなった。
自分は今……何をしようとした?
背後からやられると思った。身を守ろうとしたのだ。
マリアを背に庇ってサックスのリードを噛む弟子を、マリアは呆然と見ていた。
彼女たちは同志ではなかったのか。自分は、彼女を信じていなかった?
では何だったというのだろう。立派な指導者のふりをして、己の意地に縛られて彼女たちを利用していたにすぎないのだろうか。
突然、コシュカの後ろで空が真っ赤に燃えた。東区の方だ。
コシュカは嬉しそうに口笛を吹いた。
「どうやら、足止めはもうよさそうだな」
がらん、とフライパンを地面に落とす。そしてマリアに向き直った。
「あんたさぁ。ホントは何がしたかったの?」
不思議そうにコシュカは尋ねた。
マリアは答えられなかった。これほどまでにコシュカごときに心を乱されていたのだと知って。
コシュカは答えも待たず、パフォーマンスは終わったとばかりにあっさりきびすを返した。ファンクラブたちを伴って迅速に撤収を開始する。
マリアは呆然自失の状態から立ち直るに時間がかかった。
「貴女。音楽の本質……覚えている?」
マリアはそばにかがみこむ弟子に問うた。
うろたえながらも、弟子はしっかりとうなずく。
「聞く者に感動を与えること。そして何より、自由であることです」
「ええ。そう。その通りよ」
マリアはくやしげに顔を覆った。
アヴェ=マリアは音楽家として、完膚なきまでにコシュカに敗北したのである。
◇
火の手が上がった瞬間、造形派とガレキ通り勢は二つに引き裂かれた。誰もがなす術もなく火の海を見つめていた。ちなみに腹に限界を迎えた造形派たちが戦線を離脱していくので、当初の人数よりかなり少なくなっている。
とばっちりを食らって炎に取り残された作品たちがむざんに爆ぜた。
天翔けるグリフォンが悪魔の使いのように人間たちを睥睨する。
やぐらの上でミロは哄笑した。
「ビューッティッフォォォォッ! 絶景絶景! このワタシの行く手を阻むからだ、愚民ども! これで多少は身の程を知っただろう……っ」
言いながら何気なしに下を確認して、ミロは自分の笑い声が一気に乾くのを感じた。
火の海の中に一人の人影。
フォルテはその場から一歩も動いていなかった。【力ある音】を使っている様子もない。
じわりと心臓が凍りつく気がした。
「バカな……焼け死ぬ気か!?」
熱気にあおられながら、フォルテはまっすぐグリフォンを見つめていた。
「金属の中でも純金は錆びない。炎の中にあってもその輝きは消えることがない……」
ぽつりとつぶやく。
肌をなめまわす熱さを無視し、フォルテは大きく息を吸い込んだ。とたんにアルコールの匂いと炎の煙が肺一杯に侵入する。
むせこみそうになるのをこらえ、声帯を震わせた。
《コキュートス!》
灼熱の大気に底冷えする風が流れ込む。
フォルテの【力ある音】は冷気と化し、彼の周りで燃えさかっていた炎を瞬時に氷へと変えた。
「なにぃぃぃっ!?」
ミロは驚愕を叫ぶ。
彼が落ち着く間も与えず、テノールはそのまま反撃に移った。
素早く息つぎをし、再び【力ある音】で冷気を呼び出す。
淡い青色の音は風に乗って上昇し、また雷撃を放とうとしていたグリフォンのくちばしにまとわりつく。獣の悲鳴はすぐにくぐもった。
音が止むと、グリフォンの口元はすっかり霜を帯びて凍りついていた。
「〈四神〉よ! ワタシを守れ!」
ミロの裏返った声に命じられ、やぐらを支えていた石の巨像たちがフォルテに詰め寄る。
今にも踏みつぶされようとしているのに、フォルテの心は不思議と静かだった。
負ける気がしない。
フォルテは後ろを振り返り、まだくすぶっている炎の向こうにラッグの姿を認めた。
ラッグはその視線だけで、フォルテの言わんとしていることをすぐに了解した。声の限りに警告を発する。
「全員、耳ふさげーっ!」
フォルテは腹筋に力をこめ、そして。
シャウトした。
アリアの最後、長い楽章の締めくくりとばかりに、渾身の力を込めて。
【力ある音】が衝撃波となった。周囲の建物の窓ガラスが手前から順に木端微塵に割れる。それでも足りないと、もろくなっていたレンガの一部がはがれて地面に落ちた。
〈四神〉がびりびりと【力ある音】に振動する。
フォルテは顔を真っ赤にし、声を張り上げ続けた。音程を引き上げ、これでもかとクレッシェンドを踏み込む。ビブラートはもはや超音波だった。フォルテが封じていた、破壊のための歌が今解放される。
きちんと防音対策のされている劇場でなければ、まともに音楽として鑑賞することもできない禁断の歌であった。
びしりっ、と強靭であるはずの〈四神〉の岩肌に亀裂が入る。
ミロが叫んだような気がしたが、フォルテの歌声にかき消されて何も聞こえなかった。
フォルテの【力ある音】を一身に受け止め続けた〈四神〉が、四体一斉に砕けた。亀裂から崩壊し、がらがらと煙を立てて地面に落ちる。
フォルテは口をいったん閉じ、酸欠寸前で息を荒げた。
完全に石の山と〈四神〉の上に、余波を受けたグリフォンがふらつきながら落ちてくる。着地でなく墜落だった。
頭から〈四神〉の残骸に突っ込み、ワシの純金の上半身が無残にひしゃげた。
一瞬、沈黙が包む。
次の瞬間、かたずを飲んで成り行きを見守っていたガレキ通りの住人たちが歓喜の声を上げた。
かくして、雌雄は決した。
「そんな……ワタシの作品が……ふぐぅっ!」
信じがたい光景に気が抜け、ミロの胃腸が悲鳴を上げる。
やぐらの上でへなへなとうずくまる造形派主席の姿を確認し、フォルテはやっと安堵の息を漏らす。
勝った。
自分の目の前にうずたかく積まれた造形作品のなれの果てに、フォルテは悲しそうな目を向ける。かすれる声で謝罪した。
「ごめんよ。君たちは何も悪くないんだ」
【躍動ある息吹】は沈黙したままだった。
「これだから頭の悪い主人に仕えるのは骨が折れる。そうは思いませんか?」
はっとフォルテは顔を上げた。
黒光りする銃がこちらを向いていた。青の剣の紋章を襟につけた男がフォルテを見据えていたのである。
次回9月21日23時に更新します。