思惑
「なんというすばらしい夜明けだ!」
町を囲む壁から覗いた朝日に、ミロはワイングラスをかかげた。
「雲一つない快晴! 吉兆ではないか! 美の神も我らを祝福しているに違いない! 今日という日はマグナリアの歴史にとって重要な一日となるだろう!」
屋敷のバルコニーには彼と、ずっと後ろに従者が立っている。
(やれやれ、また始まった)
こうなると主人は自分の世界に旅立ったまま戻らない。
下手に相槌を打つと機嫌を損ねるので、従者は努めて静かにこの大きな独り言を聞くことにした。
眼下では早朝にも関わらず、広大な庭で芸術家たちがせっせと創作活動に励んでいる。石膏や石材、カンバスに画材、顔料など必要なものは全てジョコンダ家の資財を投じて準備させた。別館の工房では高温のかまどが設備されており、銅像やガラス細工も作れる充実具合だ。
遠くで陶器や粘土を焼いている煙突から煙が上がっているのを見、ミロはご満悦だった。
「昨日思わぬ邪魔が入って少しひやりとしたが、なんとか遅れは取り戻せるだろう。音楽家どもを町から追放したら、次はあの下民たちをいぶり出さんとな! 造形作品に手をかけおって、罪は万死に値するというものよ! ワタシが正式にマグナリアの長になった暁には、あのような美のなんたるかも理解できんうじ虫は徹底的に叩き潰してくれる!」
緊張と興奮のせいか、いつになくハイテンションである。
こっそり従者はため息をつく。この人は頭がいいのか悪いのか分からない。
昨日の襲撃者たちは、あれだけ暴れまわっておきながら芸術家には指一本手出ししなかったのだ。代わりに警備の者は十数人が病院送り(ミロはその二倍の人数をクビにしてしまったが)、襲撃者捕獲を試みた作品は軒並み焼き尽くされた。これがどういうことを意味するか、この頭のネジの緩んだ主人は全く理解していない。
彼らは実に計画的に、そして分別をもってあの破壊行為を実行したのである。
どうやら彼らの目的は楽譜だったらしい。芸術家をターゲットから外したのは、きっと後々の面倒を考えれば相手にしても仕方がないと判断したからだろう。逆に言えば「めんどくさい」だけで首の皮一枚つながったに過ぎない。
もし彼らが本気で芸術家を敵と見なして襲撃したら?
末恐ろしいことである。
「おい、テル!」
「なんでございましょう、マスター」
ちなみに従者の名はチェルである。ミロは自分の従者の名を覚える気がないようだった。
「今日のことがつつがなく進めば、芸術家でない貴様にももう少し良い家を与えてやろう」
「恐れながら、マスター。私はここに住み込みで働いております」
「ああ、早くアヴェ=マリアの吼え面が見たいものだ!」
チェルは首をすくめた。
この主人に仕え始めてからもう十年になるが、自分の忍耐力もずいぶん鍛えられたなあと我ながら感心した。
「ところでセルよ。昨日頼んだワインは遅くはないかね? まだ届かないのか」
昨日ミロのふいな思いつきで、別荘にある巨大なワインセラーから大量のワインをこの本邸まで送ってくれるように手配した。なんでも、集まった芸術家たちに景気づけに一杯くれてやろうというつもりらしい。
「申し訳ございません、マスター。昨日なぜか街道が込み合いまして。町に入るのに少々手間取っているようです」
無形派と造形派が全面対決をするという話は、ガレキ通りにとどまらずマグナリア中に広まっていた。パニックを起こした住人たちが自主避難をし、街道に殺到したのだ。
「ふむ、困ったものだ。そろそろ着いてもらわねば、朝日と共に乾杯できぬではないか!」
まだ赤く染まっている太陽は、大部分が城壁に隠れている。が、じき登りきるだろう。
それにしても、無形派の方もよくこんな挑発に乗る気になったものだ。チェルはこっそり背後の窓から、室内を盗み見た。
小さなテーブルの上には、例の楽譜が横たわっている。
初めて見た時、あまりにボロボロな装丁に目を疑った。紐で束ねた紙に、何かの余り布を手作業で縫い付けただけらしい。〈調和〉という刺繍の文字も、よく見るとがたがただし歪んでいる。こんな楽譜で音楽家たちが己の名声を賭けるだろうか、と。
しかし、昨日の襲撃者の存在で彼らの不安は自信へと育った。音楽家たちは必ずこの楽譜に食いついてくる。宣戦布告を携えた伝令が命からがら無形派の本部から逃げ帰ってきた時、自信は確信へと変わった。
双方の本軍がガレキ通りでまみえるのは、午後三時。
音楽家たちも相応の装備をしてこれに臨むだろう。広場で戦闘準備をする彫刻家や画家たちの顔も張りつめている。
(果たして今日、夕日を拝んで笑っているのは造形派と無形派どちらになることやら)
そして心の中で付け加える。昨日の襲撃者たちがこの聖戦にどこまで介入してくるつもりだろうか、と。
その時乱暴にノックが鳴り、警備服の男が入室した。
「失礼いたします! 先ほど正門にて酒を積んだ馬車が二台到着しました!」
「おお、やっとか! 何をしている、ネル! 早くワインを同志たちに配るのだ! 日がもう二割見えてしまっているだろう!」
「かしこまりました、マスター」
チェルは答えてから、おかしいなと首をひねった。
馬車は街道で立ち往生したまま、まだ町に入って来ていないという報告だったが。
引っかかりはしたものの、何はともあれ主人のいらつきが爆発する前にワインが到着して良かったと思うことにした。やつあたりの相手はいつも自分だ。
教育された通りに背筋を伸ばして礼をし、チェルは使用人たちに指示を飛ばすために退室した。
結局乾杯は、太陽が城壁にすれすれ触れている瞬間に行われた。
◇
同じ頃、とらねこ亭では作戦会議が開かれていた。
集まった人数は五十人を明らかに超えていた。ラッグの人徳とコシュカの人気に感謝せねばなるまい。
いつもはコシュカが歌うステージに冴えない顔の青年が立った時、店内のざわめきは一層ふくらんだ。
「正直、同じ志を持った人がこんなにいるとは思わなかったけど……、まずは礼を言わせてほしい。今日は集まってくれてありがとう」
ざわめきに負けず、フォルテの声は店内によく通った。
フォルテの後ろには腕を組んだコシュカ、いつも通りバーテンダー姿のラッグ、そして黒ローブをまとったカルミナがいた。メニは下準備があるので不参加だ。
店内をゆっくり見回し、フォルテはガレキ通りのならず者たちの顔を一人一人確認する。
「昨日の騒ぎで知っている人もいると思うけど、ぼくは元音楽家だ。そんなぼくが芸術家たちに反旗を翻そうなんて信じられないかもしれない。だけど、ぼくはこの町に来てからガレキ通りのみんなに救われた。ガレキ通りを守りたい気持ちは、みんなと同じだ」
そう前置きした上で、フォルテはこれまで起こった成り行きをかいつまんで説明した。
自分の楽譜を造形派に奪われたこと、造形派ミロの目的が音楽家の殲滅であること、今日の三時に自分の楽譜は造形派の手によって燃やされるだろうこと、それについて無形派アヴェ=マリアは徹底抗戦の構えであること。
「恐らく、造形派と無形派はこのガレキ通りで決着をつけるつもりだ」
フォルテはなるべく感情的にならないように語った。
下手に煽って、ガレキ通りのみんなを暴徒にするわけにはいかない。
「そこで、ぼくがみんなにお願いしたいのは三つだ。一つ、連中にガレキ通りで暴れさせないこと。つまり、みんなには二手に分かれて二派がぶつかり合わないように足止めしてほしい」
「兄さんよ、ちょっといいかい」
ゴロツキの一人が水を差した。
「話は分かったが、足止めつったってオレらは一般人だ。お貴族サマに手ぇ出したらオレらがどうなるか、分かってるよな? それでもオレらに連中の邪魔をしろって言ってんのかい?」
ゴロツキの目が試すようにフォルテを見る。
とらねこ亭に集まった者たちはみな、自分たちの家を守るために覚悟を決めている。それこそ自分が犯罪者になろうが気にもしないだろう。
慌ててフォルテは言った。
「勘違いしないでくれ。ぼくは君たちに芸術家たちを痛めつけてほしいと言ってるわけじゃない。むしろ手は出さないでほしいんだ。ぼくが頼むのは、彼らの作品の破壊だ」
フォルテは懐から一枚の紙を取り出し、みんなに見えるよう広げた。
「ここにぼくの血判書がある。『ガレキ通りに侵攻する創作物を壊してほしい』と依頼する文書だ。創作物保護法は、芸術作品をむやみに壊されないように作られた法だけど、これにはいくつか例外がある。芸術家自身が創作物の破壊を第三者に委託した場合もそうだ」
「もーちょい分かりやすく言ってくれ」
「芸術家であるぼくがお願いすれば、芸術家でない君たちが作品を壊してしまっても罪にはならないってことだよ」
誰もが唖然としてフォルテの顔を見上げた。
当のフォルテは困ったように笑ってみせる。
「ぼくは無形派から除名されたけど、音楽家としての地位はまだ残ってるんだよ。この血判書は効力を持つはずだ。君たちが芸術家に手を出さないと約束してくれるなら、これで君たちを守れる」
「おいおい、ちょっと待てよ! そしたら、依頼したあんたはどうなる?」
「もちろん、バレたら音楽家としての地位も剥奪されるだろうね」
フォルテは涼しい顔で言った。
「だけどいいんだよ。ぼくはどうせ自分から無形派を出てきた身だもの。失うものなんてないさ。まあ、ちょっとだけ、自警団にお世話になるかもしれないけれど」
再び店内が喧騒に包まれた。
果たして今まで、これほどガレキ通りに目をかけた芸術家がいただろうか。
フォルテは自分の音楽家人生を、あろうことか町のゴミ箱のために捧げたのである。
彼はその血判書を代表としてラッグに手渡し、再び人々に向き直った。
「とにかく、君たちは無形派と造形派がガレキ通りに辿り着くのを徹底的に邪魔してくれ。まあ、具体的にどうすればいいかは後で話すよ。次にお願いの二つ目だけど、二派の争いの原因は一冊の楽譜にある。だから、その楽譜を奪わなくちゃいけない」
そこで息をつき、フォルテは静かに続けた。
「ミロ・ジョコンダの相手はぼくが引き受ける」
「!」
二度目の驚きがとらねこ亭に波紋する。
フォルテは目を閉じて高揚する気持ちを静めた。
「楽譜の所有者はぼくだからね。彼から楽譜を取り返すのはぼくの仕事だ。だから君たちにはその手伝いをしてほしい。コシュカ」
「あんだよ」
「アヴェ=マリアの相手は君がしてくれ」
コシュカはそれほど驚かなかった。
上等だとばかりににんまりと笑みを広げる。
「ハン。手柄の半分は譲ってくれるってワケ?」
「ミロ・ジョコンダから一度楽譜を手放させる必要がある。そのためには、マリアを抑え込んでくれる誰かがいなくちゃ」
「あたし、【力ある音】は出せないけど」
「君なら彼女を止められる」
コシュカは声を上げて笑った。
「オーケー。任されてやんよ。その代わり、てめぇも失敗すんじゃねぇぞ」
「ありがとう」
続けてフォルテが提示した三つ目のお願いは、至極単純なものだった。
「これは私怨を晴らす戦いじゃない。だから、どうか深追いはしないでくれ。実際に戦いが始まったら、みんなの判断力に委ねることになる。君たちの守るべきものは何なのか、よく考えて各自行動してほしい」
そうフォルテは言葉を区切った。
店内のゴロツキたちのフォルテを見る目が変わった。初めはうさんくさそうにしていた者たちも、若き音楽家の真摯な言葉に胸を打たれたのだ。
「厄介なことになっちまったなぁ」
それらを後ろから眺めていたラッグが、隣のカルミナにだけ聞こえるように話しかける。
「人の心を動かすのが芸術家の仕事だって忘れてたぜ。見ろよ。貴族にだって従わないうちのならずモンが結束しちまった。こりゃマグナリアが荒れるぞ」
「わたしの目に狂いはなかったでしょう? 退屈しのぎに丁度良い。そうは思いませんか」
「違いないね」
ひとしきり忍び笑いをしたラッグは、声を張り上げてフォルテに話しかけた。
「んで、結局おれらはどうすりゃいいって? 造形派のハリボテも無形派の雑音も、まともに相手にすんのは自殺行為だぜ」
「それなんだけど。ちょっとみんなに確認しておきたい。当てはまる人は手を挙げてくれ」
フォルテはとらねこ亭に集った人々に問いかけた。
「この中で、コシュカ・ルルのファンクラブに入っている人は?」
一人残らずいっせいに挙手した。
◇
無形派の中に裏切者がいる。
カルミナの最後の言葉に、アヴェ=マリアは心を乱されていた。
おかげで周りを囲む弟子たちの一挙手一投足全てが怪しく思えてしまう。もしかしたらガレキ通りのならず者たちに味方したカルミナの罠かもしれないという可能性に期待しながら、疑心暗鬼はじわじわとマリアの中で巣食っていった。
「マスター?」
弟子の中でも一番若い少女が、気遣わしげにマリアの顔を覗き込む。
「顔色が悪いようです。ご気分がすぐれないのですか?」
我に返ったマリアは、黒い考えを振り払い笑顔で取り繕う。
「何でもないわ。何か御用?」
「準備が整いましてございます。そろそろマスターもご支度を」
「そう」
弟子の差し出した毛皮のショールを羽織る。そして、マリアは化粧棚の上に置いていたピッコロを手に取った。
最上級のシルクの布で優しく包み、それを懐に忍ばせる。
「いよいよね」
化粧棚の三面鏡に自分の姿が映る。
自分が迷っていてどうするのか、と内心で叱咤した。
マグナリアの音楽家は比較的若く未熟だ。有望な音楽家たちがみなこぞって立派な劇場のある王都へと流れて行ってしまうからという背景があるが、今はそんなことは言っていられない。
結局、カルミナは来なかった。頼みの綱だったスタッカートの息子も使い物にならない。同志たちは、みなマリアを頼りにしているのだ。
弱さを握り潰し、毅然とした指導者の顔を装う。
弟子に促されてマリアは建物の外へ出た。
ずらりと思い思いの楽器を携えて整列する音楽家たちを前に、マリアは息を吸い込んだ。
「とうとうこの日が来た。長年、我らが立ち向かってきた宿敵と勝敗を決する時が。各人の想いはそれぞれでしょうが、それを語るのはよしましょう」
マリアに集中ずる視線が、熱く向こう見ずに燃えている。
音楽こそが正義だと信じきっている。
子を慈しむように、マリアは微笑んだ。
「あたくしはあなた方に何も求めないわ。音楽は何よりも自由であり、縛られることなき無限の可能性。あなた方の思うようになさい。それこそが正しき道よ」
羽扇子を、君主が騎士にそうするように掲げる。
「聖なる音の加護が我らと共にあらんことを」
この中に裏切者がいる。
悪魔のささやきが耳に引っかかった。
だから何だというの。
裏に潜んだ悪意など、音楽の前では塵芥に等しい。
マリアは迷いを振り切り、力の限りに叫んだ。
「出陣!」
◇
それぞれの思惑と共に、その時は訪れる。
次回は9月7日23時に更新します。