君という時間
くるくるくるくる。
まわる。まわる。
からからからから。
そっと、響く。
誰?
――だ・れ・?
くるくるからから。
くるくるからから……
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
「あぁ、また」
突然降ってきた声に、実は、かなり驚いた。
でも、どうやら『驚く』という感情さえ表に出すのも面倒くさいらしく、あたしは重たい頭をようやく持ち上げた。
「すみません。ちょっと、よろしいでしょうか?」
ハスキーがかった特徴のある声は、少しばかり、どこかの誰かに似ている。
思い出すのは悔しいからやめておこう。
「あの、甚だ図々しいとは思うんですが、手伝っていただけないでしょうか。えと……聞いてます?」
あぁ、いきなり目線を合わせないでくれないかな? 頼むって。
「……聞いてます……ケド」
赤い服。眩しくて、直視してらんない。やめてよ。目、痛い。
「あの……」
うるさいな。黙っててよ。今、マリアナ海溝より深く沈んでるんだから。
どこの誰だか知らないけど、そんな服着てるから、泣けてくるんだ。
人がせっかく繕った感情、そんな服の1枚で台無しにして。どうしてくれるの。
あたしは、強いんだから。
こんなとこで、あんたの前で、泣いてしまうような人間じゃ、ないんだから。
「あの、え……と。余計なことかもしれませんが、悲しいってこと、溜めておくのいけませんよ。ひまわりが笑うんです」
「なに……ぉう……れ……」
あ、悔しい。言葉が繋がらない。
「困ったなぁ」
さほど困った風でもなく、それでもわざとらしい溜息を吐いてみたりして。
「俺ね、人と会う約束してるんですよ。でも、そいつも結構遅刻魔なんです。しょうがないですよね、お互い、こういう時は」
どういう基準で同意を求めてるんだ。どういう基準で。
あー、もうっ。頭の中ぐちゃぐちゃだよ。
「俺、玄武っていいます。よろしく、朋夏さん」
――ともかさん。
にっこり。
息が、止まるかと、思った。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
昔話をしよう。そう遠くないけど、でも、昔の話。
あるところに、やたら気の強い少女がいてね。辛いこととか、悲しいこととか、知らない振りがものすごく得意だったの。
でもね、いつまでもそうしている訳にはいかなくなったわけ。
何故って、倖せって言葉に疑問を持ってしまったから。
おそろいのティーカップ。大人ぶって買ったワイン。
何もかも、ただの偶像に見えて……
好きだったのに。あなたの白いイメージが。
好きだったのに。アンバランスな関係が。
今でもこんなに、好きなのに。
壊れてしまった少女の中のバランス。何故、なぜ?
こんなに弱くはなかった。こんなに臆病ではなかった。
そうして少女は全てを放棄してしまった。
自分の気持ちを確かめることも。人を好きになることも。倖せという言葉も――
それが、冷たい雨の日だった。
壊れてしまったガラスの扉。初めはいつでも、針の先程の傷。
触れなければ、壊れることなどなかった。けれど、開けることもできないだろう。
モノクロでしか映らないブラウン管。映像はいつもレンズの向こう。
色を付けるのは辛いから。直視するのは怖いから。
からからからから。
何処かでひどく静かに音がする。
からからからから。
からからからから――
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
「ちょっと、すみません。顔、上げていただけますか? ね、見て下さい」
しばらく続いた沈黙の後に、玄武は控えめにそう言った。
あたしが落ち着いたのを見計らって声を掛けてくれたんだろう。でも。でも。
さわさわくすくす。
さわさわくすくす。
――笑い声?
「―――」
絶句。
何? ここっ。どこよっ。
目下に広がるのは、どこまでもラヴェンダー色の大地。それに、それにっ。
「見えます? ほら、ひまわりが笑っているでしょう?」
「ひ……ひま……ひまわりぃ?!」
あ、落ちる落ちる落ちるっっ!!
思わず玄武の腕にしがみついて、体重減らしておけば良かったなんて、やけに馬鹿らしいことを思ってしまった。
「大丈夫ですよ。落ちるなんてことはありませんから。そういう感覚は、全部朋夏さんの中でだけ感じるんです。ま、これも慣れですね」
こらこら、そういう訳の解んないことをにこにこと言わないでもらえます?
大体にして、足場の無いとこに立ってて、どうして落ちないのよぉ。
「ともかくね、あのひまわりたちは、泣くことを我慢している人の代わりに笑ってるんです」
「はぁ?」
「ひどい時など、笑い声がうるさくて会話も出来ないんですよ」
「何で、笑うんですか?」
「泣くことを知らないからです。ここのひまわりたちは、人の捻じ曲げられた感情のアースの役目を果たしていながら、自分では笑う事しか出来なくて、だから、笑ってるんです」
理解不能。ラヴェンダー色したひまわりってだけで信じられないのに、それが、なんだって?
「わかりませんか? 『悲しい』ために笑うんです。しかも他人の。それって、哀しいでしょう? 彼らは何一つ自分の為にしないんですよ」
からからからから。
いつか聞いた音が響く。
あれは、何だったか。知っているはずの音。
さわさわさわさわ。くすくすくすくす。
哀しすぎる声。
あぁ、そうか。あれは時計を回す音。乾ききったあたしの中で、空回りばかりする時計。
あたしの時間は、あの雨の日から少しも進んじゃいない。
さわさわさわさわ。くすくすくすくす。
「……かえろ……帰ろう、玄武」
だめだよ。ここは哀しすぎる。
瞬きを忘れた瞳から、一筋、涙がこぼれて落ちた。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
どうやって帰ったのかなんて覚えてない。
気がついたらあたしは自分の部屋の鏡台の前に座り込んだ姿勢を保っていた。目の前にはほとんど表情を変えないでいる玄武がいる。
「さて、タイムリミットだ。ごめんね、朋夏さん。俺、もう行かなきゃいけない。むちゃくちゃ我儘な友達がそろそろ死にそうな顔してる頃だから」
「……げん…ぶ……?」
「でね、ちょっと、手、貸してほしいんですけど」
玄武は少しばかり照れながら、二言、三言、あたしに告げた。
「だってね、最近やたらと横道が出来ちゃって、鏡に繋がった時なんて最悪。出口にはなるけど、入口としてはほとんど使えないんですよ。あ、すいません、どうも」
ホースを片手に、玄武は『水たまり』をつくっている。
狭いけど、庭のある家で本当に良かった、とか、思う。
「今夜は寒いですねぇ。明日、これ凍っちゃいますね」
「いいですよ、別に」
あたしは窓辺に寄って、玄武の仕種の一部始終を見ていた。
何か呟いてから掌の白い個体に息を吹きかける。と。
とたん、個体は重力から解放され、辺りに舞いはじめる。
「雪、みたい」
月が出ていれば、もっと綺麗かもしれない。
「笑ってた方が、いいですよ。あ、月並みな文句ですね」
「月、ないですよ」
一瞬の間。――快笑。
「それじゃあ」
「また、会える?」
「そうですね、きっと。朋夏さんが覚えていてくれれば」
そうして。
鮮やかな笑顔とほのかな光を残して、玄武は行ってしまった。
塩の結晶が風に運ばれ、聞き慣れた近所の犬の声が聞こえはじめて、ようやく時間が戻ってきたような気がする。
明日、封印した写真、整理しよう。
タンスの一番下のひきだしの奥。あたしは写真ごと、思い出ごと、時間まで封印してしまった。
動かない時計を空回ししていたのは、あたし。
堂々巡りしかしていなかったのは、あたし。
ずっと泣きたかったのは、あたし。
ちゃんと、見つけたから。
――それが、新月の夜。
ブラウン管テレビはもうほとんど見かけませんね。
今のフラットな画面とは違い、少し湾曲していたのです。
液晶画面しか馴染みのない若い方にはイメージが湧きにくいかもしれませんが
そういうお題だったので、削れませんでした。