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「それ」日本人の女の子の友達の彼氏が言った「先輩がね。食介した時に、利用者さんを顎で指してそう言ったんだ」首をすくめ肩を聳やかした彼は、本当の年齢よりも老けて見えたし、また、そういう風に見せるのに日頃から余念がなかった。「老老介護」日本人の女の子の友達が薪を焼べるように言った「朝令暮改、周章狼狽、頑迷固陋、“老”壮気鋭」彼が引き継いで言った「前掲の四つの四字熟語と、次の医療・福祉現場の、特に六畳一間の休憩部屋で開催される、秘密の申し送り用の隠語とを線を引いて結べ」彼は自分で引き受けて言った「認知症、措置制度、アイスノン対応、とそれから……」部屋内は今はもうすっかり宴が引いたように閑散としていて、いつからか別室より誰かの節回しが漏れ聞こえていた。今こうして言葉に詰まってみると、子供時分に、かりそめにひとりタクシーに置かれて、母親の帰りを待たされた時のような心持ちになった。それは大衆浴場の湯船の中で、ジャグジーで湯が泡立つ音や、タイル壁で隔った女湯で不意に転がり落ちた石鹸箱の玩具の鼓笛隊が行進するような音や、曇りガラスの向こうの脱衣所に流れる音楽が、一絡げにまとまり乳色の靄を破って聞こえて来たように、いちいち大きい業務用器具や調度品の渋滞の為、物影の短く刈られていて、人の通り道が反射的利益で決まった部屋に、不明瞭な歌声が闖入して来たのだ。

 ……たとえ山彦のまやかしのからくりを知っていても、谷底に落とした言葉の音節の内のたまさか或る音が、先達の音とは岩肌の当たる場所を違えたり、梢の微妙な間隙の縫い方や、風の筋書きのない運び方など、そういったくさぐさの働きが作用して遅れを取り、その為に自分では覚えずに落とした言葉と拾った言葉とが意味を変えていたら、やはりぞっとしないだろう。それに脱落した音が、必ずしも直ぐに正体を失うとは限らないのだ。またそのことの方が余計に恐ろしいのだ。

 ……。BASSのスピーカーの子機が、天井の角隅に音無で吊るされていた。音の出口というよりかは、ずっと入り口という風だ。日本人の女の子の友達の彼氏は、マイクスタンドをスピーカーに向けて一杯に伸ばし、膝関節みたいなマイクの置き場所に、器械運動よろしく片足立ちして、手はメガフォンの形を作り、あのメッシュ地ですきっ歯な“口”に大喝してやりたくなった。この部屋にいるみんながみんな、どこか変調をきたしはじめていたのだ。マーサーはチップスの塩気で口の端を赤くして、指の縁を頬と鼻の間の窪地まで何遍も滑らしていたし、ジョージは炭酸に飽きて、コーヒーを新しくドリンクバーまで取りに行ったかえりに、席をそれまで座っていた人中にあるコーナーから、離して置かれた“コ”の字型に画されたソファーの底辺の二、三人向けの席に移った。そうしてタバコといっしょに微糖のブラックコーヒーを喫んでいたが、今度は口臭が気になって、欠伸が出るのを抑える振りをしては、吐いた息を酸で融いて調えるように嗅いでいた。清美はジョージが空けたコーナー席の、カーブする背もたれに、自分の上半身を仰向けに預けて、ラメを縷々と流した黒色のガーターストッキングを履いた足は、浦瀬の岩に安む人魚よろしく、胡麻豆腐をミキサーでペーストして左官したような地合いの床にくつろがせて、思案顔で忙しくメールを打っていた。が、不思議にマライア・キャリーが好んで、カメラに向かって自分の左半身を手前に出しそこだけを撮らせている、といった都市伝説かウィキペディア等級の不確かな情報を思い出し、一人で可笑しくなった。それから日本人の女の子の友達は、携帯したペットボトルの容器に、275ml入ったミネラルウォーターのわずかな量を吸い上げて、縒ったストローの包装紙に点滴し、それが戻してしていくのを、大真面目に閲していた。これから先、元彼か元夫か亡き夫か“やもめ”か、その内のどの肩書きを拝命しても、他人に思い出されるのは、今この時の肩書きであってもらいたい。今この時じゃなく、肩書きの方を余計に。日本人の女の子の友達の彼氏は、三文判よりももっとおあつらい向きな、瓶の底にラベルで貼付けるのに丁度いい、ユーザーネームかブラジル人サッカー選手の登録名のような肩書きが欲しかった。ほんの少しだけ、彼女に飽きていたのだ。タバコやコーヒーやましてやアルコールなどといった嗜好品を、生活に佩て持たない彼は、たまゆら、シフトの都合や有給消化で2、3日の連休があると、腺病質の食中りと同じ理屈で、かえって健康を損なうのだった。「僕はそのうちに彼女のことを『あれ』とか『それ』とか呼んで、人に紹介するようになるのだろうか」日本人の女の子の友達の彼氏は、朱墨で添削するように意訳で吹き替えした「僕はそのうちに彼女のことを、人気マンガのキャラクターをフィギュア化するように、独占していた或る可能性を、シェアしようとしているのではないだろうか」


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