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待ち合わせる都合もあって、ふたりが日本に発つ前日になると、ケータイに送られて来た一枚の写メールでマーサーを確認したのだ。無垢材の白いドアに番号が振られていそうな閑静な家並みがまず目立って写っている。向こう正面の遠くの方に、夕焼け雲が棚引いていた。町の東西を一気通貫した住宅道路があって、その入り日の方角に走って行く道が、画面の下部の端ほとんど脇から延びて途中下り勾配の為に急に沈みながらも、ケータイ画面の中の平らな世界では、残された道が唐草模様の線分のように直ちに空に架かって見えた。実際の道は下った先ですぐ三桁街道に変わりやがて国道に接続しとうとう西海岸へ出るのだが、そこであの燻しオレンジの日輪がその暮れなずんだ色の何条かを散らしはじめる時間に、自宅の前路肩の脇で外灯の括れに腕をまわし、光背を帯びてカメラの前で科を作るセミロングでライトブラウンの髪の若い女が――その細くしかし豊かな髪はゴム蝶で小さく一つ団子に結われて、余った後髪の首筋に残ったその毛先は黒く――画面中央から一寸はずれて写っていた。確かに夕さりの雲らしい雲は彼女から遠くの方でずーと横に長くなっているが、しかし同じ落日の日が一瞬間に――今日も誰かがスピードくじの的にする三桁番号のルートとその路上の吐瀉物や、番いが行方不明な軍手や、ナンバーが彼氏や彼女の名前のピックアップが立てた塵埃、そういった普段は隠れた種々に中り暴露し身をやつしてなお元気に燃える一梃の正体で――彼女を逆光で照っている。そんな当たり前な静止した運動が彼女の姿態よりも先に彼の何かを捉えた。それはジョージのほとんど痼疾と言えそうな、しかし白粉の脂粉のように白くても濁りのあるどこか放恣な彼の肌から香ってくる意外な磯の匂いの原因が、あの画像の裡に隠れた日輪の沈む先に直接因るからだろうか?それともケータイ画面に写っていた彼女の、いま空港でジョージと出会ったマーサーと同じく、正面を向きオープンフェイスで目尻の皺の寄り方に明るい老後をはっきり約束された、思いのほか平均よりかずっと上等なR-17の女であったこと。それが厚ぼったい下唇から顎の先端まで気持ち長い、笑うとやや口が開き過ぎてしかも上唇が捲れて小さくみつ口なるところや、すぐ青くなるひげの剃り跡を、よくこういった人間にありがちな落ち込み方に似て、ジョージは手自から臆病になるからであろうか?……「地の髪は黒いのよ」と、マーサーは引き継ぎの申し送りのように言った「今朝起きて熱いコーヒーを沸かしながら目玉焼きを“箸”でつついている間に思い付いたの。せっかくだから日本人の女の子になっちゃえって。それで文具用のハサミで前髪をAラインにしたあと、脇も揃えて流してみたわ。そうしたらなんだか東洋書籍専門の古書店にタグなしオープンプライスで剣呑に平積みされた『本朝美人見本』に【太鼓橋の欄干に手を掛けて隅田の夜長に涼をとる】なんて糸綴じで収録されていた日本の女の人みたいじゃない」and She goes…and She goes……
……。お下げにした前髪は定規で線を引いたようにカットされていて、窪んだ場所で瞼が深く別れ、鼻筋がすっきりと通り、しかも口唇は薄いので、顔の材料だけが表情不明にアイ・マイ・ミー・マインという風に暖簾から躍り出たようだけど、東アジアの女、その娘のどこを見ても扁平といった印象の残る女しか知らぬ彼には、新鮮なしかし或る位の高い数字を扱うような不安と胸の高鳴りを覚えさせた。例えば顔全体を縦に半分に裁って、改めて右左の目口鼻の高さを揃えてから再生しても、裁断する前の顔と寸分違わないであろう、とイクスキューズなしで思わせるような整い方であった。キャップ帽の庇の下から、そんな彼女の外向き(よそむき)ともフランクとも取れるような、一人っ子で、かつまた、鍵っ子の抑揚のない一本調子で早口なイクスキューズに彼はただ目礼だけして、“This way please”という風に歩きはじめた。が、あの驟雨の足下から降って来るような不安が、二六時中、彼と世界を一筆の土地で隔てていることに、気付かないジョージでもなかった。かたやキティーがデコレートされたショッキングピンク色の中国製ポーチの中にある、七色のコスメを内緒で数えるマーサーであった。
二度目の機内食の時間がエコノミーの搭乗者向けにアナウンスされると、ジョージは自分が空腹であったことにわづらしそうに気付いた。搭乗してからもしばらく経つまで隣席のマーサーが "sigh"一つでもするとボクシングのピーカブースタイルのようにボタンアップのシャツに首をずんぐり沈めてガードを固める有り様であった。そうしているうちに最初の機内食が配膳されたので、サイドメニューのマカロニサラダからマカロニを大皿のカーブに寄せ、それからコーヒーにミルクだけなのとで用を足してしまい、いい按排に茹でられた食品見本のような小エビをホワイトクリームと搦めたシーフードサラダは一切手つかずのままにした。「昔まだ私が小さい頃に、パニック映画のテレビの再放送で機長と副操縦士の全員が賄いに毒を盛られて殺されるところを観たことがあるの」マーサーがちょうどshojo mangaの表紙よろしく小鼻を親指で掻く仕草でPauseしながら言った「まさか“You guy”も同じ再放送を観ていて時節柄用心しているのかしらん?」禅の有名な格言を実践するかのように、大仰にスプウンとフォークを両三度かち合わせて「ほら御覧なさい。ただ黙って待っている間は相手だって何も応えはしないわ。例えばエボニーとアイボリーを出会わせて初めて満足のいく音楽になるように、そうするのよ」ジョージの小エビを、スプウンの背とフォークの縁で挟み余分なソースを篩に掛けて落としてから、自分の綺麗に掃けた角皿の上まで運び終えると「だからどちらが音を鳴らしたのかなんて問題にならないわ」とシリアスフェイスで小エビから視線を逸らさずに断りを入れて、それから舌で掬った。彼女は舌とか咀嚼でというよりかは猫のように、あるいは要介護者のように大真面目に嚥下した。「私の素になるの」マーサーは言った「何でも私の中に入るものが……そう感じていたいのよ」彼女は自分で引き受けて言った「残酷なことに。でもそんなに単純なものじゃないって頭が先に知ってるわ。『互いに素』って分かるかしら?関係以前ってことなのよ」ジョージは自分の思案顔が彼女にそう言わせたのならば、と済まない気持ちになったのと、女の喉仏が男のそれよりも特別に複雑な仕事をするわけではないことに不思議に気の毒に思えた。「だから全部忘れて」マーサーは手元の紙おしぼりで口を拭うと忘れることを自分では諦めたように言った「とはいえ、出会う前に戻るなんて出来っこないわ。全部足し算して新しいものに‘なる’ほかないのよね。事実、事実、事実」マーサーはトレイを下げさせると、化粧室でした七色のコスメを落として、客室でハリウッドのセレブ連がお忍び用にするスッピンに近いお色直しをはじめた。しかし今はジョージとの夜はむしろ確実になったと感じるのだった。