少女は恋しいと唄う
唄子が、パパさん次はいつ帰ってくるのと聞くと、パパさんは困ったように笑った。
パパさんは、たまにしか帰ってこない。
家にいるのは、ママさんの方が多い。
ママさんが仕事の時は、いとこのナツミお姉ちゃんかマツダさんが来る。
唄子はまだ小さいから、1人だけでおウチにいるのは危ないんだって。
ひとりぼっちは寂しいから、誰かがいてくれるのは嬉しい。
ママさんも、ナツミお姉ちゃんも、マツダさんも大好き。
でも、パパさんはもっともっと、大好き。
もっと一緒にいたいのにな。
「うたちゃん、うたちゃん」
名前を呼ばれて、誰かが体を揺する。
そっと目を開けると、パパさんがいた。
「パパさんだ!」
「おはよう、うたちゃん」
にっこりと笑うパパさんが、お布団のすぐ横に座っている。
目をこすってもいるから、夢じゃない本物のパパさんだ。
ものすごく嬉しくなってしまったから、掛け布団は勢いよく放り投げてしまった。
「パパさん、今日帰ってくる日だったの!?」
「そうだよ。暦に赤ペンで、丸をつけてたでしょ?」
そうだった。
ママさんに、明日だねって何回も聞いたから、暦を隠されちゃったんだよね。
すっかり忘れてた。
いっぱい寝ちゃったのか、太陽がすごく明るい。
ママもいないし、せっかくなのに寝坊しちゃった。
「ねぇ、パパさん。唄子ね、パパさんと一緒にね―」
行きたいところも、やりたいこともたくさんあって困る。
パパさんの腕に抱きついて、今日の予定を話そうとしたら、パパさんが困ったように笑って言った。
「うたちゃん、その前に着替えようか。…冷たいでしょ?」
ハッと気が付く。
確かに、おしりが冷たかった。
大失敗をしてしまったと気が付いて、唄子は大きな声で泣いてしまった。
「うたちゃん、もう泣かないよ~」
洗濯機に寄りかかってベソをかいている唄子を振り返りながら、パパさんは優しく言ってくれた。
幸い、少しだけしか濡れなかったお布団は庭に干して、今はお風呂場でびしょびしょに汚れたシーツを3枚も洗っている。
さっきまで洗濯機の中でくるくる回っていた唄子の寝巻きは既に洗濯かごに取り出されていて、脱衣所は洗剤のいい匂いに包まれていた。
この、お花のような匂いは好きだけど、唄子の気分は全く晴れなかった。
「パパさん、ごめんね」
「大丈夫、何ともない、何ともない」
パパさんは笑うけど、まだ悲しい気持ちがいっぱいで、なんともなくないよぉと唄子は呟いた。
ママさんに、叱られてしまう。
もう、いくつになったと思ってるのって、言われてしまう。
ママさんが怒るのは嫌だなぁ、嫌いになって欲しくないなぁ。
そう思うと、ますます涙が溢れてしまって、唄子は再び声を上げて泣き始めた。
「大丈夫。ごめんねって言えば、わかってくれるよ」
隠さないほうが良いんだよと、パパさんが言う。
「隠すっていうのは嘘つくことでしょ?嘘つかれると悲しくて、大声が出ちゃうでしょ?うたちゃんが悲しくて大きな声で泣くように、ママさんも悲しくて、大きな声で叱っちゃうんだね。でも、ママさんは本当はとても優しいよ」
一緒に謝ってあげるからねと言いながら、パパさんが脱衣所に戻ってきた。
続けて、頑張れるかなと聞きながら、唄子の頭を撫でてくれた。
シーツを洗うので冷たくなってしまっていたけれど、それでもパパさんの手はどこか温かく感じられて、唄子はすっかりと元気を取り戻すことができた。
「うん、頑張れる。唄子もう、7つになるから」
そっか、7歳かぁと呟いて、パパさんはシーツを入れた洗濯機を回し始めていた。
洗濯物を干し終わったあとは、パパさんと手をつないで散歩に出かけた。
走るのは危ないからねと言って、パパさんはゆっくりと歩く。
それに合わせて唄子もゆっくりと歩いて、公園まで行った。
チューリップがたくさん咲いていて綺麗で、それを一緒に見た赤ちゃんが可愛かった。
お母さんに抱っこされて歩いているのが羨ましかったから、パパさんに唄子も…と頼んだら、うたちゃんはちょっと重いなぁと困ったように笑った。
それでも、ベンチに座った時には膝に乗せてくれた。
チューリップを眺めるパパさんの膝に乗って、しばらくは色んなことを話した。
「唄子、お母さんになったら、女の子を産むのよ」
「女の子がいいの?」
「最初はね、女の子で、男の子もいつか産むの」
「そっかぁ。…名前は決めてるの?」
「女の子の名前は、お花の名前にするのよ。…百合ちゃんにする。たまには怒るけど、たくさん褒めて、優しい子に育ててあげるの。足は遅くても、お勉強が出来るからいいのよ。お友達もたくさんいるの。中学生の時に失恋して大泣きするけど、幸せな結婚をして、可愛い子が産まれるの。唄子は、幸せで泣くのよ」
「…そうなんだね」
百合ちゃんは明るくて優しい良い子なのよと言うと、パパさんはそうだろうねと笑った。
お買い物をして帰って、おやつはパパさんがホットケーキを焼いてくれた。
フォークがうまく使えなくて、手がベタベタになってしまっても、パパさんは怒らなかった。
でも、お洋服を汚さないのって注意された。
集中すると他のことがわからなくなるから、気をつけないといけないと思った。
それからは、パパさんとテレビを見たり、ご本を読んでもらったり、折り紙をしたりした。
お昼寝したらと言われたけど、もったいなくてしなかった。
だから、お夕飯を食べる頃にはもう眠くて仕方なくなってしまった。
「うたちゃん、寝てしまってもいいよ」
パパさんは優しく言ってくれるけれど、唄子は嫌だった。
このまま寝てしまったら、寝てしまっているうちにパパさんがいなくなってしまう。
それだけは、唄子はちゃんと覚えていられた。
「また、帰ってくるよ」
「次はいつ、帰ってくるの?暦に丸が書いてある?」
「ちゃーんと書いてあるよ。明日よく見てごらん」
「ママさんが…隠しちゃった、から。もう、もう…何か…」
何回も聞かないから、暦を返して欲しいなぁ。
パパさんともっとお話したいのに、眠くてたまらない。
「ママさんに、次にいつ来るのかわかるようにしてもらおうね。言っておいてあげるね」
やっぱりもう寝ようねと、困ったように笑いながら、パパさんがお布団まで手を引いてくれる。
うながされて横になったら、もうほとんど目を開けていられなくなってしまった。
パパさんの、おやすみなさいの声が遠い。
パパさんおやすみなさい。
毎日会いたいよ。
そう言いたくて、でも今日一日が楽しかったなぁと思うと幸せで、寝てしまう瞬間に涙がこぼれた。
「こんなに頂いてしまって、すみません」
目の前の少女が申し訳なさそうに頭を下げるので、妻はこっちこそお世話になってと恐縮したように返答していた。
手渡した紙袋の中には小さなぬいぐるみとクッキーが入っている。
今日、我々夫婦が出かけてきた博覧会で買ったものだ。
博覧会マスコットのモチーフが猫だったため、猫好きの彼女が喜ぶだろうと妻がぬいぐるみを買い求めたものだった。
クッキーは私が選んだもので、花の形をしているこれも、やはり彼女が喜ぶだろうと買い求めたものである。
夫婦で気にかけるほどに、私たちは彼女に存分に感謝していた。
「お留守番、大丈夫だったかしら」
「はい、大丈夫ですよ。松田さんたちこそ、いかがでしたか?」
「楽しかったわぁ。今ちょうどチューリップとパンジーがたくさん咲いていてね…」
妻は上機嫌で今日の出来事を話している。
半年ほど前までは、日々暗い表情をしていたものだったが、月に数回夫婦で出かけるようになってからは以前の明るい妻に戻っていた。
娘の夏美も訪ねてくるたびに、昔の優しいお母さんに戻ってよかったと嬉しそうにしている。
それも全ては、この百合という少女のおかげだった。
ふと、階段の下に洗濯かごがあるのを見つける。
パジャマと下着と3枚のシーツが、きちんと畳んで入っていた。
「百合ちゃん、洗濯してくれたのかい?」
「あ!すみません。片付け忘れてしまいましたね」
「…失敗してしまったのか」
私がため息をつくと、彼女は、あまり怒らないであげて下さいねと困ったように笑った。
怒る気はないし仕方がないとは思っているが、つい情けなくなってしまう。
その想いは妻の方が強い様子で、2階のサンルームを覗きながら、布団まで干してくれたのねと呟くと、彼女に向かって申し訳なさそうに言った。
「唄子さんが…母が、ごめんなさいね」
義理の母・唄子はとても元気な人だったが、それでも寄る年波には勝てなかった。
少し様子がおかしいなと思ってから瞬く間に症状が進み、ある日少女のように振舞うようになった。
娘や孫達の事は自分のいとこ、実の娘である妻のことは自分の母親だと認識しているらしかった。
私のことに至っては、顔と名前だけはかろうじて覚えていて、良くしてくれる知り合いの『松田さん』という認識だ。
かあさんと読んでも自分のこととは理解してくれないので、専ら、唄子さんかうたちゃんと呼んで通している。
医師にはよくある症状だと言われたし、私たち夫婦もある程度のことは予測していたが、現実は厳しかった。
義母がしっかりしていた頃の記憶がある私たちにとって、子供のようにワガママを言い、甘えたり泣き喚いたりする義母を見るのはストレスの溜まるものだったのだ。
もちろん、受けられるサービスは全て受けられるようにした。
家に来ていただくサービスも、半日から数日お預かりしていただくサービスも利用した。
しかし現状では、どこかへ入所し、ずっとお世話していただく…といった形は簡単には実現しない。
申し込んだところで、お誘いが来るまでは長い長い期間を要するのだった。
どうしたものかと悩んでいる時、事は起きた。
我が家の裏手の家に住んでいる百合ちゃんが回覧板を持ってきてくれた際、ちょうど施設から帰宅した義母と鉢合わせになったのだが、彼女を見るなり嬉しそうに抱きついたのだ。
確かに義母は百合ちゃんと面識があったし、幼い頃は孫のように可愛がっていたものだったが。
よく会う身内以外には人見知りし、自らの兄弟の顔すら覚えていなかった義母が、百合ちゃんに懐いたのは意外なことだった。
しかも、パパさんと呼ぶ。
自らの娘のことはママさんと呼び、母親だと思っているのだから、彼女のことは父親だと思っていることになるのだが、真相は未だにわからなかった。
何にしても、義母はその後もずっと百合ちゃんのことをパパさんと言っては慕った。
まだ高校生の少女に向かってパパさんとは失礼ではと思ったのだが、彼女は構わないばかりか、定期的に我が家に来ては義母と過ごしてくれるようになった。
おかげさまで、我々は以前のように夫婦で出かけるなどしてリフレッシュ出来るようになったのだった。
「半分は私のワガママというか、自己満足なんです」
是非飲んでいってと、引き止めるように妻が煎れたコーヒーを飲みながら、百合ちゃんは話してくれた。
「松田さんたちも来てくださったけど、我が家、1年前におばあちゃんが亡くなったじゃないですか。私はおばあちゃん子だったし、亡くなったのがすごく急だったし、ずっとずっと悲しくて恋しくてたまらなかったんですよ。そんな中でうたちゃんに会って、話しかけてもらえて、嬉しかったんです。唄子さん、私に自分のことをうたちゃんって呼ばせるくらい、可愛がってくれてたから」
嬉しかったのは彼女だけではなく、私たちもそうだ。
もちろん、義母にとってもこの上なく幸せな出来事だった。
「なんでも、私がおばあちゃんに出来なかったこととか全部してあげたくなってしまって。甘やかしてしまっているのかもしれないんですよね」
すみません、と彼女はまた頭を下げた。
専門知識も無いのに勝手なことしてしまってと、たびたび百合ちゃんは言うが、幼児化している以外に持病もなく薬も飲んでいない義母の面倒を見るのに、大層な知識はあまり必要がないと私は思っていた。
他の人が何を言おうと、近所付き合いをしてきたことも含めて私は彼女を信頼しているのだから、それで十分なのだ。
「しかし、何でパパさんなんだろうね」
「そもそも、パパさんって私の父かしら?祖父かしら?」
妻は首をかしげる。
どちらも全く女性的な人ではないし、百合ちゃんも可愛らしい女子高生であって男性的な要素は皆無と言っていい。
全く似てないのにねぇと妻はため息をついた。
「私にもよくわからないですが、ひとつコレかなって思うのがあるんです。前に私の高校の校章をパパさんの印って言ったことがあるって、お伝えしましたよね。あれが…」
血のつながりのないことが幸いしているのか、私たちが聞けないようなことを彼女が聞き出してくれることは多い。
何かの助けになればと細かに報告してくれる話を聞くのは、私たちの楽しみの1つだった。
「そういえば、うたちゃんは7歳らしいんですよ。今日、自分で言ってました」
「おや、唄子さんは今年90歳になるのに」
「それと、暦を隠されちゃったって」
「そうなの。カレンダーを見てはパパさんは明日来るのって。何回も言うものだから、ついイライラしてしまったのよね」
このおしゃべりも楽しいものだから、ついつい百合ちゃんの帰宅は遅くなってしまうのだった。
帰り際、玄関まで見送りに出た私たちに、言い忘れましたと言って百合ちゃんが振り返った。
「松田さん、えっと奥さん。奥さんも名前、百合さんなんですね」
実は知らなくて、表札を見たらちゃんと書いてあるのに…と、彼女は申し訳なさそうな顔をした。
「うたちゃん、将来は女の子を産む気らしいです。名前は百合ちゃん。たまには怒るけど、たくさん褒めてあげて、優しい子に育てるんですって。足は遅くても、お勉強が出来るから良くて、お友達はたくさんいて、中学生の時に失恋して大泣きするけど、幸せな結婚をして、可愛い子が産まれて。うたちゃんは、幸せで泣いちゃうんだそうです」
体験したみたいに細かく語るんですよと、彼女は笑った。
隣で妻が息を飲むのがわかる。
「百合ちゃんって、私のことかと思ったんですけど、別の百合ちゃんだったみたい。将来の夢と混同しちゃってますけど、うたちゃんの娘は百合ちゃんって記憶が、どこかにあるんですね」
何かの拍子に思い出してもらえるんだもの、家族には勝てませんねと、百合ちゃんは困ったように笑った。
妻がポロポロと涙をこぼしている。
『母が母とは思えない』『私がママさんで唄子さんが子供なら、娘の私はどこに行っちゃったのかしら』と悩んでいた頃のことを思い出しているに違いない。
私も、胸がいっぱいだった。
「百合ちゃんも、うたちゃんの家族だよ。家族だから、辛い時は無理しないで、今日は会えないって言ってもいいからね」
「はい。でも、いつでも呼んでください。私は私でワガママに、おばあちゃん恋しさを癒やす為にお邪魔します」
いたずらっぽく笑うと、ではまた来週にと言いながら百合ちゃんは帰宅して行った。
リビングに戻って、涙を拭きながら妻が呟く。
「困ったみたいに笑うって癖、祖父にも父にもあったわね」
読んでいただき、ありがとうこざいます。
私は完全なるおばあちゃん子でして、祖父母の介護は自宅で私がしたいと思い、介護に携わる仕事をし、資格も取ったのですが。
自宅介護は叶いませんでしたね。
ままならないものです。
ですが、介護職としては幸福なことに、おじいちゃんおばあちゃんに好かれる能力に恵まれ、磨きをかけることが出来ました。
疲れ果ててしまう家族の代わりに、私が一瞬でも家族になれたらと思ったこともありました。
この話のように、お金もかからずストレスも少ない、介護する側もされる側も幸せな介護形態は稀ですけど、創作の中くらいはご都合主義ってくらいに幸せでもいいじゃないかと思うのです。
そしてここに、私を『パパさん』と呼んで慕ってくれた方・毎日一緒にいたいと泣いてくれた方・あなたが報告してくれる話で母を再度愛せたとおっしゃってくれた方がいたことを書いておきたいと思います。
辛いことも多い介護職をしている中でも、支えになっていた出来事は確実にありました。
この話の中に、その時の温かな気持ちを詰め込めていたらと思います。
長いあとがきですみません。
ここまでも読んでいただき、ありがとうございました。