第一章 切符はあるか(4)
「すまねぇな。まさか落ちるとは思わなくてよ」
湖水から引き揚げられ、濡れた服をひんむかれ、乾いた布に体をくるまれながら温かいクルル茶を飲んで、やっとアンディはひとこごちつくことができた。
アンディが通された船室は地図室と応接室を兼ねているらしく、壁のあちこちに貼り付けられた各地の地図を見ながらあごをくすぐるお茶のゆげを感じていた。
狭い部屋のせいか、中央に陣取ったテーブルについているのはアンディとエクレナとマイクロフトでやっとというところ。落下の原因となったひげ面の男は壁にもたれながら削ってもいないククルの茎をそのままかじっていた。
男の謝罪をアンディは口の中でもごもごと言うことで受け入れた。
「しっかし、あぶねぇとこだったな。あの時偶然突風が吹かなかったら、甲板に叩きつけられてたところだったぜ、え? 」
謝るだけ謝ったら殊勝な気などとっくに失せたらしい。ひげ面の男はニヤニヤ笑いを隠そうともせずにそう言うと、意味ありげにマイクロフトを見た。
「本当に。運がよかったねぇ」
「……運ねぇ」
相手のすました様子が崩れないのを見てとると、その男はつまらなさそうにクルルの茎をひとかけ、口の中に放りこんだ。
アンディはお茶を飲みながら、彼の正体をうすうす感づいていた。あのマイクロフトのへりくだった態度といい、この男の横柄な態度といい。……だが確信したのはエクレナとの会話を聞いたからだった。
「でさぁ~、でさぁ~、マイクってばこの子のこと船に乗せないって言ってさ、船員のテストとか言っていじめてんだよ? ひどいよね~、ディアぁ? 」
「船長と呼ばんか」
船乗りたちがよくやるようにくちゃくちゃと口の中でクルルの茎を噛むと、船長はそれをためらいもせずに床へ吐き捨てた。その瞬間、つまらなさそうになにげなく、マイクロフトがくずかごを持ってそのゴミの落下予定地点へそれを置いた。
「……で、お前はどう見たんだ、マイク? 」
相手の行動を意識しているのかいないのかよくわからないような船長に水を向けられて、マイクロフトは一瞬優しい目でアンディを見てから言った。
「飛行中でも甲板上の作業なら出来るでしょうね。……あとは船長にウォルホールに行く気があるかどうかですが」
「ふ……ん。そうだな……」
あらぬところを見ながら片手であごひげをなでていた船長は、ふと何事か思いついたのか、急にいたずらを思いついた悪ガキめいた表情でアンディの方を見た。
「お前さんはどうしたいんだ、え? アンドリュー・ウォル・フォール? 」
思いもよらぬ時に呼ばれた名前に、お茶を飲んでいたアンディは思いっきりむせた。
「え? え? せんちょってば、この子のこと知ってんの?」
「ついさっきな」
お代りのお茶を継ぎに立ったマイクロフトと入れ替わるかのように、船長は空いた席に腰を下ろしてふんぞり返った。
「港の事務所でお前さんのことを探してるって言う小太りな坊さんに会ってな。この5,6日事務所に入り浸りだったって? 入れ違いで船の方に来てたら、そいつが来るまで引き留めといてくれとよ。
……え? どうする? お前さんの教師らしいが、知らせてやった方がいいいか? 」
フォートン先生だ……。
すぐ教会から誰かが追いかけてくるだろうとは思ってはいたが、フォートンであろうとは……。
いや、少しは予想していたかもしれない。あの冷たく冷え切った石造りの教会の寄宿学校の中で人間らしい温かさと明るさを兼ね備えていたのはフォートン先生ぐらいのものだった。……その分怒ると容赦しないのだが……。
アンディは意外な展開にどぎまぎしていたが、ふと今すぐ返事をしないことには連れ戻されてしまうということに気がついた。
「え?あ、あの、いやです、だめです! どうしてもウォルホールに行きたいんです! 戻るわけにはいかないんです! お願いします! 」
「ウォルホール……」
船長に席を取られて、憮然とした顔で立ったままお茶を飲んでいたマイクロフトがそうつぶやいた。
「古語で”神が下れるところ”を意味するその地を、支配する君主の名もウォル・フォールだと聞いたことがある」
「ほぉ……」
マイクロフトのつぶやきを耳にしてアンディの方を向き直った船長の表情といったら、南の大陸にいるという肉食獣が笑えばこうなったであろうといった様子で、アンディは背中に何かうすら寒いものを感じた。
「どうしてウォルホールに行きたいんだ、ぼうず? わけによっちゃあ、行ってやらんこともない。ただし……」
ここで船長はすっと笑みを消した。
「うそは許さん」
……そんな気はとっくに失せていた。
*
ウォルホール城第二王子、アンドリュー・ウォル・フォール。それがアンディの名前だ。
ウォルホールは古い国だ。神々が地上を歩いていたころから建国されていたという伝承を、国中にごろごろしている遺跡が裏付けている。それらを朝に夕に横目で見ながらアンディは育ってきた。
だけどそれはアンディにとってはただの風景で、古くからの伝承もただの子守唄代わりでしかなかった……その日までは。
固く、すべすべとした遺跡の肌。こんなに間近でしげしげと見たことはそれまでなかった。
なんでできているんだろう。鉄? それにしてはサビひとつ浮いていない。石? それにしては固くて欠けもしない。
アンディがもっともっと小さかったころはここはけっこう面白い遊び場で、あれは車輪じゃないかとか、あれは巨大な神が使った杖じゃないかとか、いろいろ考えているうちに日が暮れたものだった。
その日も暮れようとしている。アンディは、城に帰りそびれていた。
「……アンドリュー? ……いるのでしょう? 」
遠くからよく聞きなれた声が近づいてきていた。アンディはみつからないように遺跡の影に身を隠した。
「つないであった馬をみつけましたよ。……出てらっしゃい」
その女性の声にアンディは少し身じろぎをしたが、それでも出ることができなかった。
「……従者たちは返しましたから」
苦笑するかのように言うその言葉にアンディはしぶしぶ母の前に出た。
逆光の夕日の中、母はその優しい表情でアンディを見つめていた。そして何も言わずにしゃがんでアンディと目線を合わせると、懐からハンカチ包んだ焼き菓子を取り出した。
「お昼からなにも食べてなかったでしょう? お食べなさい」
確かにアンディのお腹はすいていたけれども、なんだか買収されているような気がして、焼き菓子と母の顔を何度もなんども見比べた。
「……寄宿学校なんか行きたくない」
「まぁ、アンドリュー」
父の前では言うに言えなかった言葉も、母の前で言ったとたん次から次へあふれ出してきた。
「城から遠くになんか行きたくない。学校なんかキライだ。でもほんとうはクルカン司教の方がもっとキライだ。あの人が言いだしたことなんかぜったいぜったいやりたくない! 」
静かな笑みをたたえたままじっと聞いていた母は、すぐそばの石の上に腰を降ろして、その膝に焼き菓子を広げた。
「……座りましょう、アンドリュー。お腹がすいていると怒りっぽくなるわ。お腹をいっぱいにして、それからいい方法を考えましょう? 」
アンディはそう言われてしぶしぶ母の隣に腰を降ろした。そして母の方をできるだけ見ないようにして焼き菓子をつかむと口の中へ放り込んだ。
「……クルカン司教は嫌いなの? 」
「大っ嫌い! 」
まだ10にもならない子供の率直さでアンディは母に答えた。
「だって顔なんか岩ガエルみたいにつぶれてるし、声なんか縞ガチョウみたいにガラガラ声だし、ニマぁと笑うとこなんか太った猫みたいだし、それにそれに、いっつも父上に”儀式をしろ、儀式をしろ”ってうるさいんだもん」
「そのクルカン司教からも離れることになるのではないかしら。……寄宿学校に行けば」
考えてもみなかった言葉に少しアンディは考え込んだ。そしてそぉっと母の顔をのぞいてみた。
「母上……ぼくがいなくなってもさみしくないの? 」
「さみしいわよ! 」
母は膝の上の焼き菓子をわきにのけると、アンディを抱えて膝の上に座らせた。
「こんなにも小さい子を……行くのに何日も何日もかかる地の果てに送るなんて、さみしくないわけがないじゃなの……。でも、あなたは新しいものを見ることができるわ……」
「新しいもの? 」
アンディは後ろから抱えている母の顔を見ようと振り返った。
「砂丘を幾つも越えた向こうの新しい街、新しい人たち……。私はおそらく一生このお城から出ることはないでしょう。だからあなたがうらやましい。知らない世界を見られるんですもの」
「ぼく、ぼく、帰ってきていいんだよね? 行ったっきりで帰れないわけじゃあ、ないんだよね? 」
「あたりまえじゃないの! 」
振り向いたアンディの目に、夕日の光に照らされ輝く母の顔はとても美しく見えた。
母は詠うように言った。
「ここはお前の国。ここはお前の城。いつかわたしに聞かせておくれ、見知らぬ世界を。それまで待っているわ。いつもいつまでも……」
……それから、ウォルホールには帰っていない。
*
「ぼくが教会の寄宿学校に入ったのは、隣国のカトランズの脅威の前に教会との結びつきをを強くするためでした。5年前のことです。
その寄宿学校に知らせが届いたのは15日ほど前のことです。
”カトランズ軍がウォルホールに攻め込み落城し、国王父子は行方知れず”と」
「このごろ二国間で緊張状態が高まっていたのは知っていたが、とうとうそんなことになっていたのか……」
口をはさんだマイクロフトにうなづくと、アンディは先を続けた。
「フォートン先生はぼくの宿舎の担当の先生です。先生は、この先戦いがどうなるにせよ、ぼくの立場が難しくなることは避けられない、だから正式に僧となって教会の庇護を受けた方がいいと……」
「え? アンディ、お坊さんになっちゃうの? 」
相手が王子とわかっているにもかかわらず、くだけたものの言い方のエクレナにアンディは少し苦笑したが、不思議と気分は悪くなかった。
「決められなかったんだ。それで……一度国に帰ってちゃんと考えたいと思って……」
「ぼうず。”焚火に飛び込む夜の虫”って言葉、知ってるかぁ? 」
とうとうクルルにも飽きたらしい船長は戸棚を探りながら、からかうような口調でそう言った。アンディは少しムッとしたが、言いていることは間違っていないので黙っていた。
「親父さん兄貴が行方不明で心配なのはわかるさ。で、お前が行って何ができるんだ、え? せいぜい敵の手の落ちて人質にでもなるのがオチじゃねぇのか? 悩み事なら学校の部屋ででも考えてろ。うろちょろされてても誰も喜ばんぜ? 」
「でも、でも、もう5年も帰ってないんだ。父上や兄上もだけど、城だってどうなったか知りたいし、お墓だって……」
「……墓がなんだって? 」
戸棚から酒壺を取り出そうとしてマイクロフトに取り上げられた船長は、アンディの言葉に振り返った。
「……母の……墓です」
アンディは心中に湧き上がる苦しさを感じていた。思い出さないように、思い出さないようにとがんばって、この2年ほどは忘れていたのに……。
「母はぼくが旅立ってから一年ほどのちに亡くなりました。まだ墓参りもできていないのに……この戦いでどうなってしまったのか……。どうしても帰りたいのはそのことを知りたいからでもあるから……」
音をたてて椅子が倒れた。
静かに目を伏せたまま船長が立っていた。
それまでのがさつなイメージとは違って、静かに体の内側から言葉を探しているかのように見えた。
そんな船長の横顔を見ているうちに、アンディは自分の言葉に反応して船長が立ち上がり、その勢いで椅子が倒れたのだということにやっと気がついた。
「……マイク……」
「はい」
もどかしげに手を動かす船長にいらつくでもなく、落ちついてマイクロフトが応えた。
「後片付け、しておいてくれ」
「……はい」
微笑とともにマイクロフトが応えるか応えないかのうちに、船長はアンディの方を一目たりとも見ようとしないまま、大きな音をたてて戸を開け閉めして部屋から姿を消した。
「アーンディっ! 」
「えっ? 」
一陣の風が通り過ぎるかのような出来事に目を丸くしているアンディの頭に、覆いかぶさるかのようにエクレナが降ってきた。
「ディアに気に入られたねっ! 」
「え、ええっ!? 」
「まぁ、うちの船長もわかりにくいとこがあるからね」
幾分苦笑めいた笑みを浮かべて、マイクロフトはエクレナにつぶされそうになっているアンディを見た。
「とにかく今のうちに、宿に行って荷物を取ってくることをお勧めしておくよ。僕も事務所の方へウォルホール方面の仕事がないかチェックしに行かなきゃならんし……」
「え、あの、いつのまに? ウォルホールへ行ってくれるんですか!? 」
アンディは自分を取り巻く情報の展開の速さに、少し混乱していた。
「だってぼく、お金ないですし、フォートン先生だって迎えに来てるし、下に降りる前に落っこちてるし……! 」
「アンドリュー君。君は知らないだろうから、ここで一つ教えておこう」
アイクロフトはその顔にアンディが今まで見たこともないほど誇らしげな笑みを浮かべて言った。
「ヘルメス号船長マーキュリー・ディアスが、一度こうと決めたことで、なされぬ事はないのだよ」