第一章 切符はあるか?(3)
不承不承動き出した少女を確認してマイクロフトが視線を少年に戻した時、アンディはまだ少女の方を見ていた。
湖にとまっているからそれほど波はないといっても、マストの上の方はまだ風も強い。そこをトコトコと歩いて行く少女はアンディにとって一種脅威とも言えた。
「エクレナっ!」
チラチラとアンディと少女を見比べてマイクロフトが、出し抜けに少女を呼んだ。
「今やってるっ! 」
「そうじゃない。ちょっと降りてきてくれ」
「まだ、2,3個残ってるんだってばっ! 」
「後でいい。ちょっと降りてきてくれ」
不満げな顔のままロープを伝ってするすると降りてきたエクレナという少女は、マイクロフトの隣に立つと腕を組んで「何? 」とでも言わんばかりに挑戦的な表情で彼を見上げた。
それに反応しようともせず、マイクロフトはアンディに語りかけた。
「これはうちのクルーでエクレナと言います。おそらく君と同年代と思いますが……エクレナ。
あそこの端の飾り布を結び直してきてくれないか」
「……ほっといてもちぎれないってば」
「結び直してきてほしいんだよ」
口の中で「わざわざ下に降りてくることなんかなかったじゃんかさ~」とかなんとかぼやきながらまたするするとマストを登ると、エクレナは毎日の散歩の道でもあるかのように高みから横に伸びた帆げたを進んで屈み、端っこにつけてあったひらひらとたなびく細い布を一度はずしてから結び付けた。
「君を船員として乗せることもできます。……が、うちの水準はとても厳しい」
エクレナの姿を目で追いながら独り言のようにマイクロフトが言った。
「彼女はあれを飛行中でもできます。150尋はある上空で、です。船長や風見を除けば、地上であれぐらいの芸当ができないようでは使い物になりません。
……挑戦するのは、自由です」
エクレナが甲板上に降りてくるまでが制限時間だった。そして彼女の片足が甲板に着いた時、やっとアンディの中で覚悟ができた。
……この船上まで来るのにすでに11日と路銀の2/3を使いはたしている。もう戻る道はなかった。
するすると降りてきたエクレナと入れ替わるようにように、アンディは無言でマストにつけられた梯子を握った。マストのてっぺんは風に煽られて小旗がゆれている。きっと恐ろしさは先ほどの縄梯子の比ではないだろう。
「……一つだけ、忠告です」
アンディの方を見ずに遠くの方をながめながら、マイクロフトがささやくように言った。
「落ちる時には甲板ではなく、海に飛び込みなさい。甲板に落ちれば命はないが、海ならまだ拾えるでしょう。できればまっすぐ伸ばした手の先か、でなければ足から。腹を打って内臓を痛めることはありません」
アンディは何かカンに触るものを感じてマイクロフトを睨みつけた。
こいつ、人が落ちるものだと決めてかかってる!
……見てろよ。
しゃにむに梯子にしがみつくと、がしがし登っていった。次から次から目に入る梯子の段を手でつかんで足を上げて手を伸ばしてつかんで……。
段がなくなってからふと気がつくと、アンディの先へ続く見張り台の他には高みへ伸びた帆げただけとなっていた。
手足から急に力が抜けてきてとりあえず見張り台に転がりこんだ。息苦しい気がして荒く呼吸をしていたら、下で誰かが何か言っているのに気がついた。
「……うぶ?! 下、見ちゃだめだよ! 地面に置いた丸太の上を歩いてるって思えばいいんだよ! けっこう太いから足さえすべらせなければ大丈夫だって! 」
どうも登っている最中からエクレナが助言をしていてくれたらしい。登るのに必死で聞いていなかった自分に気がつくと、アンディは何かエクレナに申し訳ないような気になった。
よし、と気合いを入れて帆げたの上に立ってみる。後ろ手で見張り台の枠を持っているというのに、どうにも体が不安定な気がしてならない。
両頬を風が通り過ぎる。
手が、くっついたかのように、見張り台から離れない。
「……くそっ! 」
力いっぱい引き離そうとしてたたらを踏んだ。
「きゃあっ! 」
下からのエクレナの悲鳴を聞きながら、アンディはもう片方の手をまだ離していなかったこと感謝した。
こちらを見上げているエクレナたちはアンディが思っていたよりも小さく見えた。いやそれどころか、甲板全体ですらがすっぽりと腕の中に抱えられる程度の大きさにしか見えない。
……後悔なんかしたくったって今じゃどうにも遅すぎる。
「そっといけ……そっと……ゆっくり……落ちつけ……」
自分自身にささやきかけながら、一歩一歩足を進める。
足の下の丸太のことだけを考えることにする。その下の甲板も、風にあおられてぐらぐらする手も考えない。
一歩、一歩、一歩……。
端までたどり着いてアンディは倒れこんだ。
しゃがんで端に結びつけられた布に触るなんて芸当は無理だ。寝ころんで体全体で丸太を抱え込み、なんとか両手で布に触ってみる。結びつけられた布はずいぶん固く結わえつけられていた。
両の手のひらが汗でベトベトになっていく。額から垂れた汗が目に入る。下から吹き上げる風が布をもてあそぶ。
「……とれた! 」
ほっとした気持ちをおさえてすぐ結びにかかる。指がもつれるなんて経験はアンディには初めてだ。
石みたいな結び目ながら、なんとかくっついた時にはアンディの体からちょっと力が抜けた。それでもまたあのマイクロフトって奴の前に立ってやらなくちゃあ、きっと「合格」とは言わないだろう。アンディは最後の力を振り絞るようなつもりで立ち上がった。
と、その時。
「てめぇ! 人の船で何してやがる! 」
今まで聞いたこともない男の怒号に、ぐらりと体が傾いた。思わず声の方を見ようとして首を回したとたん、アンディは自分の体が斜めになっていることに気がついた。
空と、海と、船と、マイクとエクレナと、小舟に乗ったひげ面の男と、一切が逆さにひっくり返って。
”おちて……るっ! ”
このままでは甲板に激突すると気がついたのは一瞬後。頭のどこかで海に飛び込まないと死ぬと考えても体は動かない。
甲板が急速に近づいてくる。避けるつもりなのかマイクロフトが船尾に向かって走り出す。
耳元で轟々と唸る風音に混ざって、確かにその時アンディはそれを聞いた。
流れる金貨のような、固い水のせせらぎのような……ハープの音?
そのとたん、アンディの胸に目に見えないクッションのようなものが叩きつけられた。ぐっと胸がつまって一瞬息が止まり、体が後ろへ飛ばされた。
そして次の瞬間、アンディが気がついた時には、冷たい湖水の中でひときわ大きな水しぶきを上げていたのだった……。