第一章 切符はあるか?(2)
桟橋で小舟を借りて沖に出る。”空飛ぶ船”は桟橋に横付けされなかった。漁船などの小舟ですでに一杯になっていたので。
小舟の行き帰の邪魔にならないように沖に錨をおろした”空飛ぶ船”はこうしてみると少し大きいだけの普通の船に見える。確かに白木でできている船体はきゃしゃで綺麗な造りだが、船首の女神像はありきたりだし、マストから降ろされているいる帆もよくあるもののようだ。ただ一点違うところといえば、左右の縁に上げてたたまれた帆のようなものがあるところだろうか。
慣れない小舟を操って船を間近に見られる場所までやってきて、アンディはやっと一息つくことができた。
しゃにむにここまでやってきたものの、この先どうするかはアンディの頭の中にはない。とにかくツェルマートで13もの隊商にあたってみたように、ここでもやってみるしかない。
「すみません! ……どなたかいらっしゃいますか?! ……すみません! 」
苦労して船の周りを小舟で回りながらアンディはそう声をかけた。声が届いているのかいないのか、中からの反応がなにもないまま一周回りきろうとしたその時。
「……っさいなぁ。アンタ、いったい何の用なのさっ」
アンディの鼻先に、逆さに女の子の顔が降ってきた。
むろん顔には体があるわけで、その体はいつのまにか延ばされた側面の帆柱に、足だけひっかけてぶらさがっていた。
「……わっっっ!! 」
あまりに突然だったので一瞬してから反応したアンディは、いつの間にか小舟に座り込んでいた。
「こちとら飛行後の後片付けで大変なんだよねっ。それをごちゃごちゃまわりから言われたんじゃ、気が散って仕事になんかなりゃしない。用があるならちゃっちゃとすましてとっとと帰んなっ」
威勢のいい啖呵をまくしたてながら、少女は痩せぎすの体をひょいっと起こして帆柱に座りなおした。
年のころはアンディと同じぐらいだろう。この乾季の暑いのに、薄手ながらも体にぴったりとした長袖長ズボンの服を着ている。軽業師がはくような靴やズボンは黒、上のシャツは砂漠の砂色で、それが彼女の顔のまわりを覆っている赤いくせ毛に妙にあっている。そばかすだらけの顔の中の緑の瞳に見つめられ、アンディはどきまぎしている自分にやっと気がついた。
「あ……ごめん。あの、船長とお話したいんだけど、取り次いでもらえるかな」
「ディアぁ? ざぁんねん! 今、降りたとこ」
見世物小屋の曲芸よろしく帆柱の上に立つと、腰に両手をあててニンマリと笑ってみせた。
「でもまだマイクがいるから、用事なんなら言っとく。上がんなよ。待ってて。今、縄梯子降ろす」
少女はとことことそのまま船体の方まで歩いて行くと、ひょいっと縁を飛び越えてその姿が見えなくなった。それから少ししてアンディの近くの側面に、今にも落っこちそうな勢いでがしゃっとと縄梯子が降りてきた。
しばらく待っていてもあの少女の顔は出てこない。アンディは覚悟を決めて縄梯子を登ることにした。
湖上と言わず地上と言わず、縄梯子を上がるのは初めてだ。そのまま上がると借りた小舟が流されそうなので、縄梯子の端っこを小舟に結わえつけてから上がることにする。
縄でできているだけあって、縄梯子の手で持つところ、足で踏むところ、みなやわらかい。どうにもしっかり体が支えられているような気がしない。体を動かすたび、風が吹くたびにゆらゆら揺れて、アンディは何度も縄梯子にしがみつくはめになった。
そのうちアンディは気がついた。しがみついている縄梯子が次第に斜めになっていく! はっとして下を見ると、小舟が流されて船尾のほうへ動いていっている。もちろん小舟に結んだ縄梯子もそれにつれて斜めになっていって……。アンディはこれ以上へんな角度にならないうちに登りきるため手足を必死に動かした。
あと少しで縁に手が届く、そう思った時大きな波でもおこったのか、小舟が船から離れる方へぐらりと揺れた。手がすべって、顔から血の気がひくのが自分でもわかった。
”お・ち・る! ”
体があり得ない向きで落ちそうになった時、誰かがアンディの延ばした手をつかんだ。船の縁から半ば体を乗り出していたのは、鉢金と鼻めがねをつけた青年だった。
「お……もい。すまんが早く梯子をつかんでくれ。長くもたん」
あわてて縄梯子をつかみ体を落ちつけると、青年の介助もあってなんとか無事に船の中に転がりこめた。
船の内部は普通の船とそう変わらないように見える。これほど大きな船に乗ったことはあまりアンディにはないのだが、まだ尻もちをついたままのアンディを心配そうにのぞきこんでいるのは、先ほど助けてくれたあの青年だ。
足元は華奢なつくりの革の長靴で、茶とエンジの間の色の細身のズボンとチュニックをつけている。着ているシャツの光沢からしてサラン布を使っているのだろうか。細身な長身を折り曲げて覗き込むその顔に、ちょこんと小さな鼻めがねがのっている。その顔で特に気になるのは額で白銀に輝く鉢金であろう。繊細な彫刻を施してある紐の先の部分を長く伸びた黒髪に編みこんでいるところは宮廷に出入りしていてもおかしくはないのだが、少しへこんでいるところから一度は戦いのさなかに使用したのかもしれない。
「あ……すみません。縄梯子は初めてだったもので……」
もう子供でもないのにあからさまに心配されているのを気恥ずかしく感じて、アンディはあわてて立ち上がった。
「船長にお話があってきたのですが……ご不在というのは本当ですか? 」
「確かに」
青年はアンディの様子を笑いもせず、生真面目にうなづいて言葉を続けた。
「この船の船長、マーキュリー・ディアスはただ今下船しております。ですが代わりに本船の経理を担当しております私、マイクロフト・モーリーが御用を承ることもできますが、どうなさいますか? 」
まだ幼い少年にも丁寧な口調で対応するマイクロフトをアンディは注意深く見つめた。アンディの短い人生経験の中でも、丁寧な口調で話しかけてくる人には二種類あることを知っていた。つまり、優しい人と油断ならない人。……気をつけて返事をしなくては。
「……はい。実は乗船をお願いしたいんです。……話に聞くところではこの船はウォルホールまで十日で到着するとか。父が危篤との知らせを受けて一刻でも早く帰りつきたいんです。なんとか乗せていただけないでしょうか」
「……仕事の話でしたら、港の事務所を通していただきたかったのですが」
マイクロフトは鼻めがねの向こうから目を細めてアンディを見た。……こっちはこれを13回もやられているのだ。もう一回ぐらいやられてもどうということはない。なのになぜだろう、どうにも落ちつかない気分にさせられてしまうのは。
「ご覧になってわかるかもしれませんが、我がヘルメス号はあまり大ぶりの船とはいえません。仕事も人を運ぶというより荷物輸送が中心でしてね。……体重は15ストーンほどと見ましたが、いかがですか? 」
意味もわからぬままうなづくアンディを確認するとマイクロフトは言葉を続けた。
「同じ重さで飲料水を運ぼうと思えば樽も含めて一つと半は運べますね。ウォルホールあたりの辺境地域でしたら金貨12枚で売れます。教会通貨で、ですが。……ご予算はいかほどですか? 」
そんなもの、ヘルメス号を待っている間に目減りしてしまった。答えることもできずにうつむいていたアンディにかけられた言葉は、なぜか思った以上にやさしい響きをともなっていた。
「……いくらの……予定でしたか? 」
「……銀貨で5,6枚。それで全部です」
あまりにやさしい口調だったのでついもれたアンディの言葉に、かえってきたのは失望ともため息ともとれる鼻息だった。
「乗っている間の食費にもなりませんね。申し訳ありませんが、今回のお話は……」
「乗せてあげればいーじゃん! 」
突然頭上から降ってきた声に、二人は同時に上を見上げた。
高い帆げたの上に腰かけて足をぶらぶらさせているのは、さっきの赤毛の少女だった。
「いーじゃん、減るもんじゃなし。乗せてあげたってさぁ」
「減るんだよ、水と食料が」
「ディアが聞いたら、一も二もなく”乗せろっ”ってゆーよぉ? 」
「……だろうねぇ……」
大きなため息をひとつだけつくと、マイクロフトは口元に両手をあてて上に怒鳴った。
「”風呼びの香”の回収、終わったのか? 」
「……こーれーかーらっ! 」
マイクロフトに言われて彼女が不承不承作業にもどるのを、アンディはまるで別世界の生き物を見るような驚嘆の念で見上げているしかなかった。