第5章 預け物はあるか (2)
夜の闇が”ヅァ・ガンの針”に訪れた。アンディはガザル翁とともに同じ部屋で眠ることととなった。
夜遅くまでアンディをかき口説いたガザル翁は、
「どうか、どうか、国と御自身のことをよくお考えになってご決断ください」
と言って眠りについた。
アンディはまんじりともしないまま、岩牢の置かれた渓谷を渡る風に耳を傾けていた。
……父がいれば。せめて兄だけでもいてくれれば。
アンディは相手のせいではないとわかっていながらも、心の中で責めるのをやめることができなかった。
どうしてこんな重大な決断が自分の上に回ってきたんだろう。もっと力があって賢くて、世の中のことをちゃんとわかってる人が決めるべきなんだ……ガザル翁はそういう人ではないとは言わないが。自分が最終決断を下さなければいけないという事態はとことんまでアンディをおびえさせた。
窓の外。渓谷の崖の上が少し白んできている。どこまで眠りにつけなかったというんだろう。おそらく明日もガザル翁から何か言われるに違いない。寝付けないにしても床について少しは休もう、そう思った時。
扉の外が騒がしくなった。まだ夜も明けきらないうちだというのに。
扉が割れんばかりの音を立てて開け放たれたかと思うと、ランプを片手にした兵士が抜き身の剣もそのままに2,3人なだれ込んできた。
「何事だ! 」
寝起きであるというのに力強いガザル翁の一喝に粗ぶっていた様子の兵士たちの気が一瞬で静まった。
「地下牢で暴動がおこりました。こちらにまで被害が及ぶといけませんので移動をお願いいたします」
思ったより丁重な言葉にアンディが驚いている中、そろりと動いたガザル翁はいつの間にか手燭を手にアンディと兵士の間に割って入っていた。
「申し訳ないがここで守っていただこうか。そしてその抜き身も片づけていただこう。到底保護されているような扱いとは思えぬのでな」
言われて気がついたのか部屋の中に入った兵士は剣を鞘におさめたが、まだ部屋の外で階下の様子をうかがっていた者たちは一つ舌打ちをして剣を抜き放ったまま視線を虜囚たちからそむけた。
「お気をつけめされよ、アンドリュー王子」
カザル翁は視線を兵士から動かさぬまま、口元だけでアンディにささやいた。
「父王陛下、兄王子殿下も”保護”の名目で移され、命の危機に陥った次第。もはやかような失態を繰り返すわけにはいきませんでな」
地下の暴動は大きいのだろうか。部屋の外、階下から聞こえる物音や叫び声は壁に跳ね返って響いてはいるものの、アンディには少なすぎるような気がしていた。そう、それはとても暴動といえるようなものではなく、まるでひと一人を押しとどめようとするのを回りで騒ぎながら取り囲もうとするかのようで。
「だめだ! あやつ、強すぎる! もう2,3人来てくれ! 」
「なんだと!? 狼煙を上げて応援を頼むか!? 」
「その方がいい。つり橋も最悪切り落とさねばならんかもしれん」
「予備の食料は昨日運び込まれたばかりだ。よし、やっておこう」
外からの応援要請に扉付近を守る兵士を一人残して慌ただしく出ていくのを見るにつけ、アンディには事態の大きさが身にしみてわかってきた。この天然の要塞で唯一の出入り口を落とされたらもはや脱出手段はないにも等しい。
うめき声や叫び声が次々とあがり、中には急速に下の方へと移動する声すら現れた。外の兵士の身に緊張と怯えの色が見え始め、急に蛮声を上げたかと思うと手燭の灯りの届かぬ方へと消え、静寂のみが残された。ガザル翁の手が自らの後ろへとアンディをうながす。
大きな手が扉の端にかかった。ガランという音を立てて剣が足元に投げ出された。全身に疲労感を漂わせた大男が灯りの中に照らし出され、乱れた髪の下からニヤリと肉食獣めいた笑みを向けてきた。
「……よぉ、おはようさん。よく眠れたか? 」
「……船長! 」
自分が叩き起こしたにも等しい事態にもかかわらず、他人事のように言うマーキュリー・ディアスにアンディは驚きの声をあげた。
「さぁ、迎えに来るぞ! ……親父さんや兄貴はダメだったらしいな。遅くたどり着かせてすまん。……そっちの爺さんはどうするんだ? 連れ出すのか? 」
「その方が何者かは知らんが、この騒動を引き起こしたのはそなたらしいの」
ガザル翁は油断なく手燭を掲げてディアスの表情を読み取ろうとした。
「どうやらアンドリュー王子と懇意な間柄らしいが、このまま連れてゆかせてよいものやら思案に欠ける。ここより連れ出してどうするつもりじゃ」
ガザル翁の掲げる灯りの下、急に白けきった退屈そうな表情となったディアスに、この16日弱の間にその人となりを少しずつ分かりかけていたアンディは吹き出しそうになっていた。
「どうするかじゃねぇだろうが、爺さん。このまま一生こいつをここで飼殺しにするつもりか。とにかく連れ出すんだ。男が外で出来ることなんざ五万とある」
「つり橋が切られてるかもしれません! 出られなくなってるかも……」
ガザル翁の押しとどめようとしている腕をかいくぐってディアスのもとへ来たアンディを見ると、ディアスは破顔一笑してその頭を脇へと抱え込んだ。
「心配するな。俺のクルーはやる時はやる奴らばかりだ」
ガザル翁は憮然としながらも一歩詰め、手燭でディアスの顔を照らし出した。
老臣の灯りの下、相変わらず不敵な、過信かとも思えるほどの力に満ちた表情の、その力強い笑みが照らし出された。
「……よかろう。やってみるがいい」
二人を背中において戸口を出たディアスの前に、やっと下から這い上がってきたらしい兵士たちが取り囲んだ。そのズタボロさ加減がおかしかったのか、ディアスが急に吹き出した。
「遅ぇぞ、てめぇら。やっかいもんはすぐ退散してやるから道を空けやがれ」
文字通り腕づくで兵士たちの間に道を作ったディアスに続いてガザル翁とアンディが向かった先は、明りとりも兼ねた”ズァ・ガンの針”の突端部分、見張り台の上だった。
やっと脱獄者を追い詰めたとばかりにじりじりと迫ってくる追手をしり目に、ディアスは白々と明ける地平線の彼方を目を細めて眺めていた。
「見ろよ」
ディアスに続いてよじ登っていたアンディは、ディアスが指さす彼方、今まさに昇りつつある太陽の陰の中に一点のシミが生じつつあるのに気がついた。
それは徐々に大きくなり、左右に翼を広げた鳥のような輪郭があらわになるにつれてアンディの顔に久しく浮かんでいなかった歓喜の表情が現れだした。
それはまさにヘルメス号! だが岩牢の上に位置する人物たちはどうやってあれに乗ればいいんだ。
「いいか? 一瞬だぞ? 」
「え? あの、止まらないんですか? 」
「バカ野郎! こんなとこにどうやって止まんだ! ……縄梯子に飛びつくんだよ。おい、俺の体にしがみついとけ」
「そんな無茶な! 」
「どうやらそのようなことは言っておられん状況のようじゃな」
躊躇するアンディをよそに、ディアスの片腕にガザル翁はしぶしぶながらしがみついた。アンディもとりあえず片足にしがみつくことにした。
「やれやれ、爺さんとガキにしがみつかれてもうれしくもなんともねぇや」
一度は蹴り飛ばされた兵士たちもじわじわとその包囲網を狭めてくる。もう一度戦おうとしても当のディアスはアンディとガザル翁にしがみつかれて動けない。
兵士たちが意を決して組みかかろうとしたちょうどその時!
繊細なアシ笛の音とハープの和音。
真正面から岩牢すれすれに上空を飛ぼうとでもいうのか、白木造りの船が目の前に現れ、こちらへと迫りくる!
「まっ、待てっ! 」
「逃げろっ! 退避っ! 」
慌てふためく兵士をしり目に、ディアスの口元には悠然とした笑みが依然として浮かんだままだった。
ディアスたちの身体すれすれに風がまず襲い、そこへ狙ったかのようにヘルメス号の船体がかすめてゆく。ガガッと船底をこする音。それらが止んだ時には、岩上にあの三人の姿はなかった。
「きゃあ! 」
「縄梯子をつかめるならそっちもつかめ! 爺さんは手助けがいるか!? 」
「いらぬ。一人で登れる」
間一髪。片手で縄梯子をつかんでいたディアスはお荷物二人に声をかけ続けた。
ガザル翁をしがみつけたまま縄梯子に手をかけ、ガザル翁が縄梯子に手足をかけたのを確認すると、アンディに声をかけた。
「手を放すなよ! ここじゃ誰もお前を拾えねぇ。自分で、上がれ」
丸太のような足にしがみついていた手を片方だけでも縄梯子に移し、片足をなんとか縄梯子にかけ終えたところでアンディも少しひとこごちついた。上では先に登らせてもらっていたガザル翁がエクレナたちの介助でやっと船に転がりこんでいるところだった。
あたりが急に暗くなった。
アンディは手元が暗くなって思わず縄梯子にしがみついた。夜明けだろう? なんで暗くなった?
恐る恐る見上げてみると朝焼けに彩られていた空は一転にわかにかき曇り、稲光やらくぐもった轟音すら聞こえてきた。
「……おいでなすったか、カトランズ軍の魔法使い! 」
やっと空いた片手でアンディの手をつかんで上へと持ち上げながら、そうディアスがつぶやいた。
縄梯子につかまりなおしたアンディの目にそれが飛び込んできたのはその時だった。
……渓谷の崖の上、闇の塊が立っていた。




