第5章 預け物はあるか (1)
”ズァ・ガンの針”まではラウダに引かせた馬車に揺られて5日ほどかかった。
兵士たちの悪意に満ちた中傷は身にしみたが、何故か共に送られることになったディアスの減らず口が必ずといっていいほど繰り出され、暴力行為は総てそちらへと流された。
「気にすんな。 性分だからな。しょうがねぇじゃねぇか」
あまりにも気軽な物言いに、もしや船長はこのためだけに共に岩牢へ送られるようなマネをしでかしたのではないかとすらアンディには思えてしまった。……まさかそのようなことはあり得ないのだろうが、そう思えるほどディアスの存在は有難かった。
文献や人々の話では聞いたことのある”ズァ・ガンの針”を自分の目で見るのは初めてだった。深い深い大渓谷や、その中心にそそり立つ見事な奇岩の塔は、話に聞いていた通りとはいえアンディの心に自らの国の脅威を新たに思い起こさせるものとなった。
「さぁ、さっさと歩け! 」
岸と奇岩をつなぐつり橋はただ歩くだけでも、足下遥か先に細い糸のように見える川の流れにめまいを起こしてしまいそうだ。両手を戒められ兵士に追い立てられいる状態では足も竦む。その上後ろから大柄な船長までやってくるとあっては、このつり橋が切れてしまうのではないかと余計な心配すら起こるのも無理はないだろう。
ディアスは政治犯がかつて送り込まれたという”針”の最下層へ、アンディは政争に敗れた王族が入れられたという”針”の最上部近くへと連れて行かれた。
……そこには先に送り込まれた、父や兄がいるはずだ。
父は……自分を見て嘆き、悲しみ、叱り飛ばすだろうか。
空気抜きの最上部の穴より入る光と松明だけで照らされた階段から扉を開けて一歩部屋に入れば、窓から目に入る雄大な岸壁の眺めと共に眩しいほどの光が差し込んでいた。
気がつくとアンディは、皺だらけの手に自分の手が包まれて気がついた。光に満ちた部屋の中で待っていたのは父でも兄でもない、宮廷でもよく見知った顔だった。
「ガザル翁……」
「よくぞ生き残られた! よくぞ! よくぞ……! 」
宮廷で見かけた折りのガザル翁はつる草の茂みのようにさえ思えた白髪と白鬚の間から、また同じように思えた思えた眉の下の鋭い眼光で立ち働く皆を監視しているかのように思えたものだった。
ところが今この場で自分の手を握り涙を流している老人は、そのころから一気に体内の覇気がなくなり、体がしぼんでしまったかのようにあまりにも小さく思えた。
「ガザル殿、例の話、王子にしっかりとお聞かせくださいよ? 」
「うむ……わかっとる……とにかく二人っきりにしていただこうか……」
アンディを連行してきた兵士たちはアンディの手の戒めを解くと一礼して部屋を出て行った。まだ痛む手首をさすりながら、アンディは入口で別れたディアスのことに思いをはせいていた。光も届かぬ岩牢の基底部へと連れていかれたようだったが大丈夫だったろうか……。
「こうして再びお会いできるとは……父王陛下、兄王子殿下にも一目この姿をお見せしたかった……」
「父上や兄上は! ここにいるのですよね!? 」
久しぶりのガザル翁の前で久々に王宮内での自分の言動を思い出したアンディは、意外な相手の言葉に目をむいた。オアシスの街での情報では、父と兄はこの”ズァ・ガンの針”へと送られたと言っていたのに!
ここは昔から罪を犯した王族や政治犯が送られた場所だ。父や兄を獄へと押し込めるのにここほど適した場所はないはずだろう。だが老いた忠臣はただ首を振ると思わしげに窓の向こうの景観へと目を向けた。
「もはや……ここにはお見えにならん……。誰の手にも届かぬ場所へと行ってしまわれた……」
「何が! 何があったんですか、ここで!? 」
遠くをながめていたガザル翁はアンディの方へと向き直ると、その眼光の鋭さのままに王子を射すくめた。
「……”嵐雲石の魔法使い”だ。あの者こそがずべての元凶であった……」
ひどく老いたかのような状態でかたわらの椅子を引き寄せると、そこへ崩れ落ちるかのようにガザル翁は座った。
「あの者は王族に恨みでも持っておるのやもしれん……。国王陛下、ライオネル殿下が相次いでこの岩牢へと送られた。わしがかの方々にカトランズとの関係改善を再考なさることをお勧めしておる間に、かの者は事故を装い抹殺しようと謀りおった! ……かくしてかの方々は深い谷底へその身を隠すとことなってしまわれた……」
「父上と……兄上が……死んでしまった!? 」
アンディはいつの間にか自分が腰かけの上に座り込んでいるのに気がついた。母が死んでいたのは心構えが出来ていた。だが父や兄まで亡くなっていたとは!
「ことここに至っては総ての名誉伝統を投げ捨ててでも命を永らえることこそが肝要。”国より王族絶えてなかりせばすなわち国滅びるであろう”。他の王族の方々はすでにこの国でそのお姿をお見せになることはお出来にならぬ。唯一残られた王子でさえいつあの邪悪な魔法使いに命を狙われかねん。ここは王族の名をかの者に譲られ、どうかお命を永らえていただきたい。……そうでなくてはわしは、あの世で敬愛する王妃に顔向けが出来ん」
アンディは自分に言われていることの半分も理解できないまま目の前の老臣を見つめていた。確かに自分は自分の力のなさを自覚して、国の皆のために王族の務めを放棄しようとしていた。
だが、今や自分が幸せであってほしいと願う国民は自分を顧みることなく、その力を委ねられる父王陛下も兄王子もいなかった。王族としての誇りを放棄するかどうかという判断は、いまや自分の上に委ねられた。自分ただ一人に!
迷うアンディの手を老ガザルは手に取り、その鋭い眼光で真正面から睨みつけられるように捕らえてきた。
「生き永らえねばならんのです! 死は何ももたらさんのです! 死よりも苦しい決断であろうことは承知の上! どうか曲げてお聞き届けください! 」
アンディは運命の手のうちに捕まえられた鳥のような面持ちで己の行く末を考えることとなった……。
*
”ズァ・ガンの針”。
その上部は光も差し、窓でもあれば風光明美な光景も眺められる、一種別天地のような思いも味わえる場所である。
……だが下方、下の下までくると、そこはただの地獄となる。
光も差さず、窓もなく、煙抜きから入る光すらもほど遠く、ただボボボ……と燃えさかる松明だけがこの世で唯一の灯りでしかなかった。
「出せ! 出してくれ! 」
「新王となったからには恩赦をくれ! 」
「うるさい! 黙れ! 」
暗闇の中あちらこちらの遠くから囚人たちの怨嗟の声が響き渡る。まるで同種の生き物にも思える看守たちがほぼ同じような怒声を与え返す。
「へっへっへ……まさか新入りが来ようとは思わなかったぜ……」
マーキュリー・ディアスが入れられた房の隣から、しわがれたような老人めいた口調の声が囁きかかけてきた。
ディアスの手にはご丁寧にも手錠がかけられたままになっていて、用足し用の壺が部屋の隅にあるとはいえどうすれば用が足せるのか考えに困る状態ときている。
「ほう……少ねぇのか、新入りは」
「……カトランズからきた”女”が御寛容だったんでねぇ……」
見えぬ相手は悪意に満ち満ちた独白を闇に染み込ませた。
「ここは昔っから王族にたてついた奴らが片っ端から放り込まれるところだが、カトランズから来た王妃が来やがってから、片っ端から懐柔された。あやつがいてはいつか国を滅ぼすと命を狙っていたわしが投獄されてから後、誰も入ってきやしなかったもんでなぁ……」
「その王妃の故国が進軍してきたらしいじゃねぇか」
「そう、それよ」
隣の房の男は鉄格子沿いにまで近づいて、瘴気のこもった言を次々とディアスにささやきかけた。
「あの国とは昔っから土地を取ったり取られたりしたもの同志で、王族の連中が輿入れに行ったり来たりを繰り返している国だ。ウォルホールに下された神のお恵みが欲しくってたまらないんだろうよ。そこから来たあの王妃がいろいろ向こうの国さえも懐柔していたようだが、亡くなっちまえばそれまでだ。まだ取るか取られるかの関係に逆戻り。あの腐れ王はあっちの国に取られまいと教会の僧正を引き入れやがったが……剣呑剣呑。あれをしろこれをしろと強要されていたらしいからいい気味だ。苛立った王の臣下がこのド腐れ軍を引き入れたらしいが、因果報応とはこのこった。あまり長居をする気はなかったらしいが、長年欲しがっていたわき出る泉が手に入ったんだ。そう簡単には手離さぬだろうよ」
「属国化……か。嫁に来た王妃が泣くだろうよ」
「死んだ奴は土の下だ。もう泣けんだろ」
せせら笑うような、せき込むような声がしたかと声の主は急にちゃかすかのように言い始めた。
「まぁ、誰が新王になろうと知ったことじゃあない。王族の連中に比べれば誰でもマシってもんだ。教会の僧正が入り込んでからはそりゃあひどかったらしいからな。少しでもよくなるというなら、国の奴らは誰であろうと尻尾を振るだろうぜ」
「それがあのおっさんか? 冗談じゃねぇ。あんな気に食わねぇ奴をよくまぁ王座に置いとけるもんだ、この国の奴らは」
マーキュリー・ディアスは闇の中でニヤリと笑った。
「それなら坊やのガキの方が何十倍もマシってもんだぜ」
闇の中でディアスの筋肉が弾けた。十年ほども前、剣闘奴隷として奉公させられていた時には何度もやって雇い主を恐れさせた芸当だ。ほどなくディアスの足元に、手を拘束していた手枷は無残な形となって落ちていた。
「何事だ! 」
との牢兵の誰何の声が響くころには、派手な音と共に牢やの扉が蹴破られていた。
「どうする? おっさんとこも破っとくか? 」
余裕綽々の笑みとともにディアスがそう問いかけると、闇の中から憮然とした声が聞こえた。
「無茶しおって……。あのカトランズの女が死んでから娑婆に出る気など失せたわ。勝手に出ていくがいい……死体となってな」
「……それがなかなかそうもいかなくてな」
牢のあちこちからは救いを求める声が地鳴りのように響いてくる。通路の奥、上からの階段から次々と兵士が駆け寄る気配がひしひしと迫ってくる。
闇の中、一匹の肉食獣が吠えた。
「……俺の船が迎えに来るとあっちゃあなぁ! 」




