第4章 出迎えは来たか (4)
荷物は袋に詰め直した。
私物だけでも前より軽く思えるのはなぜだろう。
フォートン先生は軽いいびきをかいて寝ている。
真夜中、きしむ音を立てて開く扉に注意を払いながらアンディはそっと部屋を抜け出した。
梯子をあがって甲板に出れば、砂漠を渡る風がオアシスの湿気を含んで顔をなでてゆく。これは、故郷の風に近い。
この大気を含んだ故国では、他国の兵に蹂躙されている人たちが自分の帰りを待っている。……待たれるような自分にはまだなっていないというのに。
フォートン先生の言うとおりだ。皆が待つような自分になるためにはまだ時間が必要だ。
でも。母はなんと言うだろう。
一歩を踏み出す。これに他の人を巻き込むわけにはいかない。自分の心に答えを出させる作業。自分でやるべきこと。
もう縄梯子の上り下りにも慣れた。まだ船縁から下を見下ろすのは怖いけれども、心を決めればどうということはない。袋を落とさないように気をつけながら船縁に腰をかけた。
「……くそぼうず」
闇の中から一声放たれた。そして大きな足音とともに月明かりの中巨大な体躯が突然現れ、アンディの襟元をつかんだかと思うと、空いているもう片方の手で思いっきり殴られた。
アンディの体は宙を飛び甲板に叩きつけられた。殴られた片頬と切れて血がにじんでいるらしい口元がジンジン痛んだ。
「何やらかした! お前、何やらかそうとした! 」
両手で襟元とつかみ上げられ、アンディの足が宙に浮いた。月光の下、照らされたディアスの顔には憤怒とも悲哀ともつかぬ顔が現れていた。
「逃げるのか! お前逃げるつもりか! 自分の運命見つけにお袋さんの墓参りに行くのさえやになったか! てめぇ、それほど性根腐ってやがったか! 俺が! 俺たちがここまで来たのがなんのためだと思っていやがる! 言ってみろ! 」
「少なくとも……僕のために危険を冒すためじゃないはずです! 」
「”冒してやる”って言ってんだろうがっ! 」
甲板上の騒ぎを聞きつけてか、寝巻姿の他のクルーたちが上に上がって来ていた。アレックスに至っては、寝ぼけているのか枕まで持ってきていた。
「お前、俺らを何だと思っていやがる! ヘルメス号のクルーだぞ! 俺の自慢の連中だ! どんな地獄へだって嗤っていけるような奴らだ! てめぇみたいなガキ一人、送り届けられないとでも思っていやがったのかっ! 」
「それがいやだっ! 」
アンディは確実に腫れているであろう頬を月光に晒してディアスを睨みつけた。
「僕の思惑のために他の人たちを巻き込みたくなんて、ないっ! この船の誰だって! エクレナだってっ! そんな義理なんか、ないっ! ……僕が行く。自分の国だ、僕一人で行く。ここまで連れて来ていただいて……」
「そんなこと聞いてんじゃねぇっ! 」
襟首を両手で捕まえられたまま甲板に押し付けられたアンディは、顔に何か大粒のものが落ちてくるのに気がついた。下向きで月光にさえ照らされていない相手の顔からそれが落ちてくるのだとわかった時、アンディの中で軽い驚がくの思いが弾けた。
「俺がっ! 聞いてんのはっ! 高貴なお生まれとは違う俺らは、そこまで信用できねぇかって言ってんだっ! 悪かったな。だけどな。金がねぇかわりに心がある。これならいくらでもお前にやれる。それじゃ不服か! それじゃ足りねぇってのか、おい! 」
「それじゃわからん、ディアス」
ディアスの肩に手を乗せたマイクはそのまま相手の両の手をアンディの襟から離し、その顔に憐れみの表情をのせたまま体を起こしたアンディに向き直った。
「ウォルホールへ行くのか」
「……はい」
「ここから歩いていくと5日はかかる」
「……はい」
「国に行っても有名人の君が王宮内の墓までたどり着くのは難しい」
「……ちまちまちまちま言いやがって……」
後ろでブツブツ文句を言うディアスをしり目にマイクは続けた。
「僕らならば方策がある。それをやり遂げる自信もある。君が心配するいわれは毛頭ない。あとは君が受け入れるだけだ……僕らを信じることを」
「信じて、うまくいかなくて、全部、全部無くすのがイヤだ」
言ってみて自分の眼前かが暗くなるように思えた。それはこの旅を始めて以来、ずっと心の中にあったことだった。隊商と交渉にあたり、ともに連れられて旅をしている時も、ヘルメス号に乗っている時ですらずっとずっと心の中にあったことだった。
「……信じてみないか、アンディ」
その声の意外さにアンディは我に返らされた。それは月明かりの下、その肌の白さも相まって光り輝くようにすら見える、我が師であった。
「確かにここの人たちのやり方はかなり乱暴だ。君には受け入れ難いかもしれない。だが何も信じなくては何も生まれないだろう。この世で信じられるのは神だけとは限らない。人もまた、信じるに足るものだ。自分のために危険を冒そうとする者たちを、信じてもいいんじゃないだろうか」
「ばっかにしてるっ! 」
エクレナが我慢の限界に達したのか、アンンディのもとに飛びつくとそのまま甲板に押し倒して、その胸を涙で濡らし始めた。
「行くよっ! 一緒に行く! 義理なんか知らない! 行くって決めたから行くんだっ! アンタ一人で何ができるってんだっ! いらないってったってついてって、やりたいことやらせてやるっ! あたしたちをバカにすんなっ! 」
「……ごめん」
胸元を温かく濡らしていく少女の頭を、自分のまだ小さな手でなでた。思ったよりも小さな自分の手を思い知らされ、アンディは自分の手を握り締めた。
自分は一人で何もできない。
でも、助けてくれるという人たちがいる。
アンディは、今こそ故国への帰郷を心の底から決意した。




