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序章:船は舞い上がった



 その破裂音が船上の空気を一変させた。

 アンディが見ていたシェヘッド湖畔、その町の中央の道にそって立てられた土煙、そこから空にのびた煙の先が、二つ三つの破裂音とアンディの胸中の不安を残して消えた。


「エクレナっ! 」

「もう始めてるっ!」


 船縁に立ちつくすアンディをよそに、甲板上はすでに修羅場と化していた。

 肩に羽織ったマントを船室に放り込み大股で甲板を横切る長身のマイクの傍らを、こぶし大の塊をいくつも胸元に抱え込んだ小柄なエクレナが通り過ぎながらマストのはしごに飛びついた。


「アンディ、船室に入っていなさい」


 指出しの革手袋をはめながらマイクがアンディに言った。


「慣れない人間が甲板上に出ていると危険です。部屋に戻っていなさい」

「な……何が始まるんですか」

「緊急発進です。部屋に戻りなさい」

「でも、先生がまだ帰ってきていません! 」

「乗るなら船長がなんとかします。君は中に入っていなさい」

「いやです! ここで先生を待ちます! 」

「君がそこにいると邪魔で、こちらが危険なんだ! 」


 まだ年若いアンディを叱り飛ばしながらも、マイクの手は次々と仕事をこなしてゆく。


「何が起こったのかわかりませんけど、こんなんじゃ下に行ってたって気になって仕方ありません! 途中から顔を出すぐらいなら、最初からここにいます! 」


 後から片付ける予定だったのだろうか、甲板上のあちこちに置いてある荷物を次から次へとロープで固定していくマイクに、アンディはとことんまで食い下がった。最後の荷物を固定し終わってアンディに向き直ったマイクが何事かを言おうとした、その時。


 異音が相手の口を閉ざした。

 それは虫の羽音のような。

 それは手琴の一番低い弦を弾いたような。

 そんな異音がマストの端から端へととび歩くエクレナを追ってどんどん大きくなってゆく。


「……しかたがない。これを」


 アンディにぽいと放り投げられたのは、両端に鉤がついたロープだった。


「上にいると飛ばされます。片方は帯に、片方は船縁に張りめぐらしているロープに。早く」


 言われた通りに固いそのフックをそれらにかけ終えた時、マイクはすでに甲板上に降りていたエクレナとともに船縁に取り付けられたハンドルと格闘していた。二人がハンドルを回すうちに船縁の向こう側にそれが向こう側にそれが現れてきた。

 それは斜めに引き上げられた白木の柱で、その下にキラキラと光るものがついている白い帆が垂れ下がっていた。


”まさか……あの、翼なのか? ”


 それに思い当って思わず口が半開きになったアンディをよそに、二人はもう片方の船腹のハンドルに飛びついた。


「思ったより早く、風鳴り糸、鳴るようになったね」

「風呼びの香に、お金かけて、調香変えてもらった」

「よくあったね、そんなお金」

「必要経費さ。おかげで、間に合ってる」


 エクレナとマイクがかけあううちに、もう片方の翼が引き上げられた。そのとたんにまた二人はそれぞれの持ち場に散ってゆく。


「あの、ぼくに何かできることは……」

「ない」


 鼻眼鏡をかけなおしながら即答で返すマイクに食ってかかったのはアンディではなくエクレナだった。


「ちょっとぉ! こんなか弱い女の子の細腕だけでマストの帆、上げろって? かんべんしてよぉ~! 」

「……手伝ってやってくれ」


 操舵輪のあたりで作業しているマイクの元からマストの下にいるエクレナの赤い髪を目印にして移動する。身体からのびたひもと鉤を船縁のロープにひっかけ直してからアンディが教会お仕着せのローブの裾をはためかせて移動するのにとても時間がかかった。


「おそいっ。それひっぱってっ。こっちはあたし。息を合わせてっ。いくよっ! 」


 マストを挟んで左右に分かれ、垂れ下がった綱を引いてゆく。まだ13,4にすぎないアンディの両腕にずしりと重さが感じ取れる。見れば同じ年ぐらいのエクレナの表情も辛そうだ。……負けられない。

 引けば引くほどマストの柱にそって白い帆があがってゆく。それは高く昇った日の光をうけキラキラと輝きながら、上がりきるのを待ち切れぬ風をはらんで大きく膨れた。


「んもう、せっかちにもほどがあるっ」


 エクレナが帆に向かってそう毒づくのをアンディは不思議に思いながら、風で必要以上に重くなったのを上まで引き上げた。


「おつかれ」


 手の空いたマイクがエクレナのロープをうけとって甲板のホックに結び付ける。間をおかずにアンディのロープも受け取ってもらい思わずしびれた手をふっていると、そばかすだらけの顔をしかめっ面にしたエクレナもそうしていたことに気がついた。


「うぅ、ちょっとものすごくない? ディアたち来るまでもつの? 」

「もたせる」


 膨らみきった帆を目線で指し示しながら話すエクレナに必要最小限の言葉だけかえして、マイクは船尾へと向かった。マイクは一瞥だけしてから操舵輪のところまで戻って行ったが、後からついて行ったエクレナは心配そうに下をのぞいたままへばりついている。

 ロープをよけつつ回りつつなんとかアンディがそこにたどり着いてみると、そこからは鎖が伸び水中沈んでいた。だがその鎖は、船が風をはらんだ帆にあおられて進もうとするのを渾身の力で引き留めるかのように、一直線に伸びきって小刻みにゆれぎりぎりと音まで出していた。


「錨が沈んでんの」


 エクレナが水面を覗き込むアンディに言った。


「早くディアたち来ないと、鎖ぶっちぎれるかもしんない」


 心配そうに湖岸を見るエクレナの視線を追ってアンディも振り向いた。

 中央の道に沿って立ち上っていた土煙は今や湖岸の港にまで伸び、そのもやの中から一艘の小舟とそれを追う多数の舟がそれを追うこちらにむかいつつあった。その先頭にあってこちらに来る小舟には、あごひげを蓄えた巨漢と大柄だが小太りな僧侶が、手漕ぎのオールを必死に動かしつつあるのがアンディにも見て取れた。


「ディアっ! 」

「先生っ! 」


 エクレナとアンディが思わず声をかける。それも風に散らされ届いているのかどうか。


「エクレナ、小舟の収納の準備をしてくれ。ロープを小舟にひっかけ次第、帆走準備に入る」


 風に取られがちな操舵輪を握って陣取ったマイクは、額の鉢金と鼻眼鏡をきらめかせながらリボンで編みこませた長い黒髪が風であおられるのをものともせずにそう指示した。


「りょーかいっ! 」


 マイクの言葉に緑色の瞳をきらめかせると、猫のようにすばやい動きでエクレナは船縁のロープが垂れ下がっているところまで移動した。


「アンディっ! 舟、捕まえたら一気にあげるよっ! ハンドル巻くの手伝ってっ! 」


 今更ながらに自分はこの船の客にすぎないことを思い出したが、船上にいることを選んだのはその自分であることを思い出し、苦労しながらアンディはエクレナの隣にたどり着いた。

 船縁にアンディがついたときには小舟も近くまでたどり着いていた。だがその後ろ、追手たちの舟も漕ぎ手の顔のひとつひとつが見分けられるほど近くまで追いつきつつあったのだ!


「ディアっ! ロープかけてっ! 」

「船長とよばんかっ! 」


 エクレナの投げたロープを船長が手早く小舟の前後左右に取り付けるのを見てとるや、アンディたちはハンドルに飛びついた。


「重……い……」

「ディアたちつきだもん。そりゃ重いよ」


 よろけつつアンディたちがハンドルを回しだしたと同時に、船尾からガラガラという音が響いた。そのとたん、綱をほどかれたラウダのごとくに船は疾走を始めた!


「マイクが碇を上げた。早くディアたち、上げちゃお」


 額に汗が浮かぶのもかまわずアンディはハンドルを回し続けた。耳元で風が唸り、身体全体でこの船が動いているのを感じる。

 疲れ果てそうになるころ、船縁に大きな手がかけられた。そのまま力が込められたかと思うと、次の瞬間には頬髭の中にガキ大将のような笑みをたたえた船長が船縁に立っていた。


「よくやった」


 甲板に降り立ちながらエクレナとアンディの頭をその大きな手でポンポンと叩きながら、すぐ大股で歩き去る。


「飛ぶぞ」


 強風の中、操舵倫を保持していたマイクはやっと船上に戻ってきたディアスに疲れた笑みを見せた。


「かじ取りをお返しします」

「おう」


 二人がそれぞれ本来の位置につくころ、アンディとエクレナは船縁から手を貸してもう一人の乗客を引き上げていた。


「はぁ、命がいくつあっても足りないね。捕まって追いかけられて、漕がされて、甲板に上がる前に全力疾走と……と。まったく落ちるかと思ったよ」

「大丈夫ですか、フォートン先生」

「なんとかね。助かった、と思っていいのかな」

「アンディっ、これっ! 」


 己の師とやっとの対面を果たしたアンディにエクレナが投げてよこしたそれは、あの鉤付きのロープだった。


「せんせ、船室に放り込むか、それつけてっ! 飛ばされるよっ! 」


 お互いの言葉が聞き取りづらくなるほどの風鳴り糸の唸り声の中、ゆれに悩まされながらなんとかフォートンの帯と船縁に張りめぐらされたロープを鉤縄で結ぶと、船の速さは相当なものになっていた。


「どうする気なんだ、船長は……」


 ロープの長さを気にしつつ、船の進路を身を乗り出してながめながらフォートンは呟いた。


「シェヘンド湖に流れ込む川は全部で五つ。そのどれもが小さいものでこの船の喫水線では底をこすってしまうのは確実だ。湖の中を動き回るだけでは逃げ切れないぞ。いったいどうする気なんだ」


 あせる口調のフォートンとは反対にアンディの心は恐怖からは程遠いものにあふれていた。初めてこの船を見たあの日の光景。もしもあの光景が夢まぼろしでないのならば……。


「速度良し! 風の安定良し! 前方障害物なし! いつでもいけます! 」


 風の中、凛としたマイクの声が聞こえると、ディアスの口元に猛獣の笑みが広がった。


「よおっし! 人の尻追っかけまわすのが得意なクソ坊主どものド肝を抜いてやる! ヘルメス号、行っけえええええええぇぇぇぇぇ! 」


 ディアスが雄たけびとともに操舵輪横のレバーを引いた。

 そのとたん、左右斜めに引き上げられていた三角帆が同時に外側へ倒れた。鳥の翼のように広げられた帆、それは一瞬で風を受けてしなった。


 そこへ間髪いれずに和音が重なる。


 アンディが目で追うと、その音は操舵輪の後ろに備え付けてある人間大もの大きさの竪琴から出ているのに気がついた。

 その傍らにあって竪琴を操作しているのはマイク。アンディは今更ながらに誰が自分の命をすくったのかに思い当った。

 マイクは竪琴を奏でるたびに和音は消えて行かず、そのまま重なり合って複雑な曲を作りだし……。


 そして、それが起こった。


 突然アンディの足元が持ち上がり、船首を上にして斜めになった。

 アンディとフォートンは足元を取られ、命綱のお蔭で宙づりになっただけですんだ。

 他のクルーは慣れているのか持ち場のそれぞれに立っている。

 持ち上げられている、とアンディは悟った。

 空の雲が近づいてくる。

 船の底から滴る水の音が聞こえる。

 風鳴り糸の異音とともに帆がはちきれんばかりになって風と歌っている。

 そしてもはやマイクの手を必要としていない竪琴は和音を奏で続けている。


「飛んでる! 飛んでいるんだ! 」


 フォートンが感極まったかのように叫んだ。


「そうとも」


 自信に満ちた声音でディアスが答えた。


「飛ばねぇ船は俺のヘルメス号じゃねぇ」


 やっと体を立て直したアンディがあたりを見回すと、眼前に広がるのは小さくなった湖と町の風景。だが、アンディは知っていた。これはこの旅のほんの始まりでしかないことを。

 そうしてアンディは、たった12日前には想像もしなかった世界へと旅立っていった……。





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