第三章 風は吹いているか(5)
嵐雲に飛び込んでからというものの、船室のベッドの上ですら安全な場所とは言えず、アンディはただ青白い顔をして座っていた。
「気にしなくっていいからね。うん、こーゆーことはよくあるもんだからさ。……前もって言っとかなくって悪かったね」
蓋つきの壺を持って相手を気遣いつつ言ったエクレナの耳に、船内中に響きそうなほど大きな足音が聞こえてきた。
「……なんだろ」
「ディアだ。休憩に入ったんだね。思ったよりも粘ってきたな。めっちゃくっちゃ楽しんできたとしたら体が冷えてるかも」
尋ねたアンディにかるくうなづいてみせ後をフォートンに頼むと、壺を片手に抱えたまま扉を開け閉めして狭い廊下へと出た。上から降りてくる梯子のところから床のところどころに水たまりが並んで出来ていて、それが応接室へと続いている。
一度応接室を首を伸ばして覗いて見たものの、エクレナには開いている扉から中をうかがい知ることが出来ず、ただ船長の悪態をつく言葉だけが聞こえてきた。エクレナは抱えている壺をちょっとだけ見てから他の部屋に一度入り、空いている手に大きなタオルを抱えて出てきた。
「ディア? 」
「う~~寒い。調子に乗りすぎたな。酒の強いのでも……だめだ。すぐに交代しなきゃならん。エクレナ、お前なんであったかいもんでも作っておかなかったんだ」
メガネをかけていたところだけ元通りで頭からずぶ濡れになっているディアスは、いつもの酒が入っている戸棚に手をかけたものの憮然とした口調で手を止め、八つ当たりするかのようにエクレナの方を見た。そのとたん、その顔面にタオルが叩きつけられた。
「むりっ! ……アンディがさ、この”風の道”ん中に入ってからの揺れで酔っちゃって、食べたもの全部吐いちゃったの。今、フォートン先生がアンディみてる」
ほら、と言う感じで抱えていた壺を見せると、ディアスは心底いやだとでもいうように天を仰いで、タオルで頭から拭き始めた。
「しょうがねぇなぁ……。わかった。じゃあ、それはお前が片づけとけ。俺はなんか食えるもんでも見つける」
床にかがみこみ、備え付けの倉庫のふたを開けるころには、エクレナは先ほどの壺をいつものところに片づけ終えて応接室に戻ってきていた。
「手伝おっか? 」
「バカやろう、これぐらいできる。……しっかし後で作ってもらうにしてもこの揺れじゃあ、火の強ぇのはちょっとできねぇぞ。煮込みなんてチンタラしたもんなんざ待ってられねぇし……。おい、生肉の叩いたのでもいいか? 」
「アンディ、吐いたばっかりだって言ってんじゃんさぁ、もぉ……」
船の積み荷にとても生肉など乗せていられないこと前提での冗談にエクレナは少し頭を抱えた。
「あの……何か手伝えることがあるようでしたらやらせていただきたいのですが」
床の食料貯蔵庫を覗き込んでいる二人に声をかけてきたのは、扉のあたりで入口をほとんどふさぐ形で覗き込んでいる、フォートンその人だった。
「手伝うもなにも……お前料理できたっけか? 」
「ああ、料理を作るところだったんですか。いえ、うちの子がちょっと落ちついてきたようなので水でもいただければと思ってきたのですが、何かお忙しいようだったので何かできることでもあれば……と」
「ああ、水ね。待ってて。すぐ用意するから。……ディア、料理、まともなの作ってよね」
揺れる船内の中、バランスよく歩いて水の入った壺から水を汲もうとするエクレナと入れ替わるように、フォートンが貯蔵庫を覗きにやってきた。ディアスは自分の隣にきた体格のいい男に少し目をやってからまた食材料に目を落とした。
「……加減、悪いのか? 」
「はぁ。ですので作っていただいてもあの子にはあまり入らないと思うんですが」
「病人の喰いもんは作ったことがねぇんだよなぁ……」
「あの、私が作りましょうか? 」
「お前、いや、あんたがか? 」
驚きの表情とともにディアスがフォートンを振り返ると、相手はさも当然とでも言ったかのような顔つきで倉庫内を見ていた。
「ええと……穀物はこれとこれか……おかゆ……だと時間がかかるかな。とりあえず他の方用に早めに作れるものを2,3品取り揃えて、その後で彼用のおかゆでも作らせていただければ。……ここの道具の使い方が少し……」
「おいおい、本気で作れるみたいだな」
「……そうですよ? 」
エクレナに伴われて部屋に入ってきたアンディは、そう言うとまだ辛そうに椅子の一つに腰を下ろした。
「時々、寄宿学校でもこっそり作ってみんなにふるまっていたんです。あそこはあまりたくさんご飯が出なかったから、みんな喜んでたなぁ……」
「つまり、味より量って奴か? まぁ、こっちは喰えりゃいいが……。お前、本当に辛かったら部屋にいていいんだぞ? 」
「一人で寝てるのも飽きてきたんで……」
アンディの話を皆が聞きいってる間にも、台所ではすでに材料を持ち込んでいたフォートンが格闘を始めていた。
時々船体を襲う揺れの中微動だにせずその場に立ち、野菜の皮むきから始まり次々と切り刻み、嵐の中あまり火力の出せない炉をなんとか使いこなしながら、炒め物からとろみをつけたものなど作り上げ、大皿に盛ると机の上に並べていく。
「お待たせしまし……なんだ、アンディ来てたのか。君のおかゆはこれからなんだが……大丈夫かね? 」
「はい。待ってますから」
師弟二人が話している間にひょいと皿から根菜をつまみあげて口に放り込むと、ディアスがうめいた。
「おい、ほんとにうまいな。エクレナよりうまいんじゃないか? 」
「え? ほんと? 」
エクレナが添えられた匙を手にして皿からすくいとって口に入れると、目を丸くしてフォートンを見つめた。
「うわ! ほんとにおいしいや! ねね、後でいいからちょっと作り方教えてよ! 」
「いや、そう言っていただけると……」
すこし照れたように頭をかくフォートンに、ディアスがニヤニヤ笑いながら話かけた。
「よし、あんだがよければこれから時々でもいいから食事ん時に何か作ってもらおう。よけりゃ、ずっとうちにいて食事番やってもらってもいいぜ? 」
「……いませんから」
一瞬の沈黙の後、フォートンはエクレナが意外に思うほど強い調子でそう言うと、直立不動のままディアスを見下ろした。
「私がここにいるのは一時的なもの、です。お手伝いをしているのも今だけです。いつまでもここにいるわけにはいかないんです。学校には私を待っている生徒たちもいるんです。アンディの用事が終われば学校の方まで飛んでいただきます。この子にはそれが必要なんです。私はここのクルーになど……」
「冗談だぞ? なんであんた、そんなに取り乱してんだ? 」
ディアスの言葉に我を忘れていた自分に気がついたらしい。フォートンは急に弾かれたかのように台所へと戻っていった。