第三章 風は吹いているか(4)
夜の闇よりもさらに濃い闇の中。
ドーナムの執務室ではその闇に耐えかねるかのように、燃えていた一本のろうそくがぢぢ……と音をたてた。
その灯りが照らし出すのは二つの顔。そのうちの一つである己の顔に、カトランズから来た次期王族としての貫録はまだ残っているのかと、ドーナムは頭のすみで考えた。
目の前で沈黙を続ける男の顔には何も現れてはいない。無表情、というよりはすべてを拒絶しているようにドーナムには見えた。
「あくまで過失、というのだな? 」
これで何度目かになる問いに相手は黙したまま頷いた。その面憎さにドーナムは、相手が本当に今の事態を理解しているのかと疑問に思った。
「……本国からも充分な念押しがあったであろう。わしはこの国をウォルフォール王家から平和裏に譲渡されねばならんのだ。ゆえに王族は丁重に扱えと……。まさか忘れたわけではあるまい? 」
男はその言葉に目だけを動かしてドーナムを見た。それがまるで音をたてでもしたかのようで、ドーナムはさらに不快の念を強くした。それでなくとも男の黒い瞳とその額に張り付く灰色の輝石がろうそくの光を受けて輝くさまは、まるで3つの目で睨みつけられているかのようで落ちつかぬというのに。
「……あれは防げなかった」
やっと口を開いたことに少し安堵しながら、ドーナムはさらに相手に切り込んでいった。
「お主が”王族を滅すべし”と主張しておることはわしも知っておるのだぞ、ダルバザード殿。だがそもそも今回の遠征は”王族の扱いはカトランズ軍に一任する”との約定の上で行われておる。貴公もそれに従うと決めたからこそ、今、ここにおられるのだろう。……まことに防げなかったのか? 」
魔法使いの目に宿った強い光には、”二言をつぐ気はない”と書かれているようで、それ自体がドーナムへの返事となっていた。
「ならばそれを防ぎえなかったのは貴公の責任ということになる。軍の総大将の権限で貴公を軍より放りだすことも可能なのだぞ。……やむを得ん。ニセの王権移譲書を用意して、とりあえず王として立つこととする他にない。”神の遺跡”のことはお主の勝手にするがいい。以後、軍の行動には一切口を出さんでいただこう! 」
最後通告の意味も込めてドーナムはダルバザードにそう言いきった。
*
風の道への旅を一日一日費やしていくうちに、船を運ぶ風は強くなっていくのだろうとアンディは思っていた。しかし特に風が強くなることもなく、しかも進路の関係か、町や人などが見えることもなく、取り立てて変わりない日々が続いていた。
「そんなもんよぉ? 」
アンディに訊ねられたエクレナは、さも当然という顔をしてそう言ってのけた。
「そこだけ別だから”風の道”って言ってんのよ。いやでも入る時になったらわかるって」
そう。その日は確かに朝から違っていた。
青空が違う。
それ以外は砂漠特有の淡水色の空が一面に広がっているのだが、そこだけは、黒い蛇がうねっているかのごとくに黒雲がうごめいている。
「今日は甲板には上がらないでください。エクレナはお客様たちの世話を。船長、突入時の舵取りはお任せします」
「当たり前だ。お前に任せられるか」
海を行く船に乗っていたときに嵐がくればこのようだったろうか。困難に突入するというのに顔中に笑みを浮かべた船長は、手渡された、顔に密着する様式のメガネを取り付けた。
同じく同タイプのメガネをすでに装着して、寒さよけの毛皮の襟付きコートを着こんでいたマイクは乗客やエクレナに指示を出した後、ディアスに目でうながした。
内側に毛皮をつけた手袋をはめたディアスは船室に残る連中にニヤリと笑いかけると、マイクの肩をポンと叩いて甲板に上がっていった。
師とともに船室に残ることになったアンディが、エクレナに自らの不安をこめて見つめると、相手はこちらを安心させるかのような頼もしげな笑顔を浮かべた。
「初めてじゃ怖がんのもムリないけど、この船に乗ってる以上は安心してよ。あの二人が操るのなら怖がることはないんだから。……いつか、あたしも、外に行けるように、なってやる」
憧れを込めたエクレナの言葉に、フォートンは優しげな笑みを返した。
*
なにもせずとも鳴っていた竪琴のもとにマイクが、舵のところにディアスが、それぞれがそれぞれの持ち場に着くと、ディアスがマイクに目でうながした。
草笛のような乾いた質感の音色がその場に響いた。
竪琴の音色に加えられたその笛の音があたりの風の色を変えていく。
少しずつ、少しずつ、風の道に近付いてゆくたびに、舵とりの船長と、楽の音を絶やさないマイクの表情に緊張が現れてゆく。
風が、動く。
一定の場所だけに黒雲とともに渦巻いていた風が、少しその幅を広げた。少しだけ外に膨らんだ嵐雲は、いつもの帯状の部分とは違い拡散された分だけ薄く見えた。そこに渦巻く風の勢いもまたしかり。
船は少しずつ、何度も船体を傾けながら、嵐雲との距離を近づけていく。
滑りやすい甲板上で何度も斜めになりながらも、二人はその場を死守して動こうとしない。
右の翼が、薄い嵐雲に突っ込んだ。
とたんに、船がその翼をつかまれて引っ張られているかのように斜めの体勢のまま引きずりこまれた。
「こん、ちく、しょおっ! 」
額に流れていた汗が風に煽られて後方へと飛んでいく。
ディアスはその腕に渾身の力を込めて舵をゆっくりと回していく。
それが船体へと伝わり、右翼だけが前に出ていた体勢から、船全体が風の道へと滑りこむ!
突然顔に当たる湿気を含んだ風。黒雲の中で何度も混ぜ返された湿った空気は、霧雨となり、時に大粒の水滴となってクルーの顔面、そして船の帆に叩きつけられた。
とたんに重くしなる船の帆。
マイクは常のごとくに竪琴の弦の音を一本鳴らした。
一音足された竪琴の弦の音に風が応える。
重くしなった帆に、その重さを支えるに足る以上の風が轟音とともに押し寄せる。
船は嵐の中へと飛び込んだ。
海上であれば雨風の他にも波の揺れや、飛びこむ潮のしぶきが船員たちを襲うところだろう。
だが嵐雲の中にあっては前後左右に空しかなく、風雨に弄ばれる船体の中、二人の男達だけがそれたに向かって立っている。
一人は船長のマーキュリー・ディアス。
一人は”風見”のマイクロフト・モーリー。
その優雅な船体は嵐にもまれながらも、船長の舵取りの元、目的地である一点へと向かっていく。
「……こんな楽しい”祭り”、他の奴らになんか譲れるかよ」
顔に当たる大粒の雨をぬぐおうともせず、不敵な船長はそううそぶいた。