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第三章 風は吹いているか(3)



 自分でも落ち込んだら浮上するのに時間がかかる方だと思っている。ましてや地上の宿屋並みとはいえ船室に閉じこもりっきりではいつ元通りの気分に戻れるかわからない。そこでアンディは鉤ロープを片手に甲板に出ることにした。

 船室の中ではそれほど気にならなかった低く唸るような異音が、甲板上では気に障るほど耳につく。そしてその上に操舵輪の後ろに置かれた竪琴から、弾く人間もいないのに音が流れている。それは離陸の時とはまた違って、楽しげな落ちついた旋律で、異音と合わせて聞くとまた独特な感情をアンディに抱かせた。


”これが魔法使いが作った船、ってことなのかな”


 離陸時ほどではないにしても、甲板上の強い風に煽られないように大急ぎでロープに鉤を引っ掛けたついでに、アンディは船縁から外を見た。


「うわあ……」


 それはアンディがそれまで想像だにしえなかった絶景だった。

 すでに船は街から遠く砂漠の半ばまで来ており、四方八方の地平線の彼方まで人が作ったものの痕跡は皆無だった。

 傾いた夕日が地面を形作る砂丘の連なりに投げかける光は、長く長くのびてゆく影を黒々と染めている。地平線すれすれのところをかすかに動く黒い点の連なり、あれは今夜の宿泊地へと急ぐどこかの隊商なのかもしれない。


「アーンディっ! 一枚着てないと、風邪ひくよぉ~ 」


 突然かけられた声にアンディはあたりを見回した。誰も見てとることのできないアンディに、「上、上」との声が続いて降ってきた。

 アンディが上を見上げ、やっと人の姿を見つけた時にはわれ知らず口をポカンと開けたままになっていた。なんとマストのてっぺん、あの見張り台の上からエクレナが下に向かって手を振っているではないか。

 エクレナは「よいしょっ」と見張り台の囲いを乗り越えると、そのままするすると梯子を降りて、笑いながらアンディの隣にやってきた。


「船が下に降りてたらロープ伝いにもっと早く降りれたんだけどね~。さすがに空の上だと風が強くって、梯子じゃないとダメだ」


 えへへと舌を出してみせるエクレナの言葉の内容でさえ、アンディには通常の沙汰とは思えない。地上ですらああだったのに、この空の上でそこまでできるこの少女に、さっき笑われたことも含めてずっと負け続けているような気がアンディはしていた。


「とにかく何か一枚、マントでも持っておいでよ。景色に見入っちゃうの、わかるんだけどさ。前に乗せたお客さんが、乾季の熱い時期だからって食事時以外ずぅ~っと上に出ててさ、地上用のうっすい服だったから夜にはいっぺんに風邪ひいちゃって。お付きの人が”船のせいだ”って喚いていたのをディアが一喝して終わらせちゃったんだけどね。ほんと大変だから気をつけないと」

「どうせ僕は物知らずだよ」


 拗ねたような調子になる自分の物言いを苦々しく感じながら、それでも止められずにそうアンディは呟いた。その顔を下からのぞきこみながら、エクレナは心配そうに尋ねてきた。


「さっきのこと……気にして……る? 」


 まともに返事をしたくなくてそっぽを向いたアンディに、ちょっとエクレナも慌てたようだ。しどろもどろながらもなんとかアンディの機嫌をなおそうとしているのが見てとれた。


「いや、あのね、その、あーゆーのめったにないからさ。アンディが悪いってんじゃないんだよ? でも、その、そんな豪勢に船で毎日風呂に入るような人間がふつーいるとは思わなかったんでさ。あ、でもアンディって王子様だたっけ。お城じゃ毎日お風呂に入ってたわけ? 」

「いや……さすがに城では」


 変な誤解をさせるのもイヤなので、少しアンディは訂正してみた。


「どっちかっていうと寄宿学校に入ってからかな。”神に仕える者は身を清めておかなくてないならない”って言われたんで……」

「へぇ~。そんなとこにいたんじゃあ、どこでもお風呂があると思ってもおかしくないよねぇ」


 そこまで言われて、アンディはまだ自分があの一件を根に持っていることに気がついた。だから、いつのまにかエクレナを見ていた自分の顔を無理やり動かして、マストのてっぺんを見つめることにした。それでエクレナには通じたらしい。


「……あ~~~。ごめんごめん。言いすぎたっ。あーやーまーるーかーらー」

「ぶんぶん言うのがうるさくて聞こえないな~」


 半分以上機嫌をなおしながらもアンディはそう言ってみた。それはどうやらエクレナにもわかったらしく、ちろっと舌を出して見せてから話を始めた。


「どうしても飛行中はね。”風鳴り糸”が鳴ってくれなきゃ、魔法使いでもないあたしたちには、どこに風が吹いているかなんてわかんないもんねぇ」


 エクレナに言われてアンディは改めて船の装備を見直した。異音を鳴り響かせる”風鳴り糸”、帆下駄の先からひらひらしている飾り布、独特の香りを放つ香、そして人がいなくても鳴らし続ける竪琴、そしてそれらの総てが。


「……普通の人間が空を飛ぶためにあるんだ。僕らみたいな普通の人間が」

「そおだよぉ。それなのになんにも知らない連中ったら、うちの船を見て”魔法使いの船だから”って……。本当に魔法使いが乗ってるんだったら、こんなもんいらないってのにさ~」

「……僕にも飛ばせるのかな、飛ばそうと思ったら」

「できるよぉ」


 古来より人がいたことのない空の上で、大それた望みを口にしたアンディに、満面の笑顔でエクレナが答えた。


「もちろんいろいろ手順は覚えなくっちゃいけないけどね。今日の出発は突然だったからずいぶんドタバタしてたけど、本当だったらもっと余裕をもって出来てたんだし。あたしとマイクで大慌てで横の羽根上げてたけど、あれだって前もって上げておけてたはずなんだもん」

「最初っから上げておけばよかったんじゃないの? 」

「だって停めてる間、まわりが見えなくなるじゃん。邪魔だし下げとかないと」


 当然のことのようにそう言うとエクレナは暗唱でもするかのように手順を話し始めた。


「それからマストのあちこちにつけてある小皿に”風呼びの香”を置いて火をつけて。あたしたち魔法使いじゃないんだから強引に風を呼ぶなんて芸当出来ないし。風が特に気にいってる香をたいたり、ひらひらして風が遊べるような布ぶら下げて”おいでおいで~”って呼ぶしか方法がないのよね。あ、もちろん上の方は危ないから、火は火縄で持っていかないと。

”風鳴り糸”とかが鳴って風が布で遊びだすようになりだしたらマストを上げるの。上がりきるころには風たちもいい加減退屈してくるころだから、マストはいい遊び道具らしいんだよね。もう飛ばそう飛ばそうって気が逸るのかすぐに帆が風で一杯になるんだ。だから錨さえ上げればもう、すごい速さで走りだす。

 そこで左右の翼を広げれば、風たちが持ち上げて、もう即、飛べるよ」

「……できるもんなんだね……」

「まぁ、口で言うほど簡単じゃないけどね。なんたって風の連中ときたら気まぐれでしょうがないし」


 自分のことを棚に上げるかのようにエクレナはそう言った。


「だから風たちの好む音楽の鳴る竪琴で始終機嫌をとっていなくっちゃいけない。なんせ高い空の上でも平気で船を持ち上げるの、止めかねない連中だし、ちょっとした気まぐれを起こされて船をグラグラさせるのなんかしょっちゅうだし。そのたびにマイクが笛や竪琴で機嫌とってるんだから、風見って仕事も大変だよねぇ」

「あの竪琴やその笛で、魔法使いでなくても少しは風が操れるんだね」

「そゆこと。もう、誰に助けてもらってたか、わかった? 」


 アンディは神妙な顔で頷いた。


「落ちた時に聞こえたのはマイクが鳴らした竪琴だったんだね。それで呼ばれた風が僕の体を押して、湖に落ちることができたんだ」

「そ、正解。……どったの? 」


 エクレナは頭を抱えてしゃがみこんだアンディを見て、不思議そうな顔で尋ねた。


「……出港の時にわかったんだ。でももうあれからけっこう時間がたってるし、今更お礼言っても変に思われるんじゃないかって……でも……言わなきゃいけないよなぁ……」

「いいんじゃない? 言わなくったって」


 上機嫌そうにそう言ったエクレナをアンディは不思議な思いで見上げた。


「別にお礼言われなくったって根に持つタイプじゃないしさ、マイクは。あたしが、よく知りもしないでマイクのこと悪く言われるのやだっただけなんだし。だから、別にいいんじゃない? 」

「そうもいかないだろ? だっ……だっ……」


 言いかけた言葉が盛大なくしゃみで途切れた。またむずむずする鼻を苦笑しながらこすって、アンディは立ち上がった。


「……やっぱり風邪ひきそうだ。船室に帰るよ」

「……待った」


 さっきは早く船室に入れとでもいうようなことを言っておきながら、その舌の根も乾かぬうちにエクレナはそう言った。


「風邪ひくって言ったのは君だろ? 」

「そだけど、ちょっと待ちなって。これからがいいんだから。ほら」


 エクレナが指さす方をながめて、アンディは息を飲んだ。

 傾いていく夕日は今や砂丘の上にまでその位置を変え、空を、地面を、赤く紅く染め上げていた、船もアンディも、そしてその隣の少女も。緑の瞳は夕日の光の中宝石のごとく輝き、その顔を包む紅い髪はさながら宝石箱の中に敷かれたビロードのごとくそれらを引き立てた。

 こんなに綺麗だったけ?

 いつの間にか彼女を見つめていたのか、エクレナに不審そうに睨みつけられてアンディは再び景色に視線を移した。

 地面のうねりは夕日からの赤と闇の黒で二色に染め上げられ、それが時がたつにしたがい蒼みを増していき、赤紫から紫、青紫、紺へと変わるころには、日はすでに姿を消し、空には一面の星だけが風鳴り糸の異音の中瞬いていた。


「すっ……ごいね! 」

「でしょう! 」


 すべてが終わるまで知らぬ間に息をつめていたアンディが、ため息とともにそう言うと、満面の笑顔でエクレナも応えた。


「夕方に来といてこれ見ずに入ったらもったいないもん。ね? 見といてよかったでしょう!? 」

「よかったっ! 」


 心中のわだかまりはすべて消えていた。アンディもまだ満面の笑みでそう返していた。


「ショーは終わったかい? 」


 薄暗がりの中、手提げのランプの光とともにそう声をかけてきたのはマイクだった。風が吹きすさぶ甲板上で、アンディにはその声がとても暖かいものに聞こえた。


「はいっ」

「下に夕食の用意が出来ていますよ。冷めないうちに談話室にお行きなさい。……エクレナ、交代のついでに案内してやってくれ」

「はいは~い」


 二人して船室の扉に向かって駈け出しながら、アンディはアイクとすれ違いざまにペコリと頭を下げた。

 手提げランプの灯りの中、残されたマイクの顔に不審とも照れともつかない表情が現れるのを横目で見てから、アンディは扉をそっと閉めた。


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