第三章 風は吹いているか(2)
「……さて、遅くなりましたが、今後の飛行計画についてお話させていただきましょうか」
離陸直後の慌ただしい空気も抜けたころ、船室にいたフォートンとアンディは、丸められた大きな革皮紙を小脇に抱えたマイクの訪問をうけた。
「本来ならば飛行前にお話しするはずだったのですがね。なにせ急にバタバタと決まった出発だったもので……。今回の飛行に必要なものは早めに積んでいましたから支障はありませんが。……よいしょっと」
掛け声とともに苦労しながら壁に掛けられたのはシェッヘンド付近からウォルホールまでが入った内陸部の地図だった。
「えぇと……。こちらが先ほど出たシェヘンド湖。そしてこちらがウォルホールですね」
足元の何かを一瞬探していたがどうも諦めたらしく、結局マイクは二つの街を手で指し示した。
「この二点を直線で結んだ線を空路でゆくならば、10日かかります」
「たった10日で……」
思わずフォートンが感嘆の声を上げた。無理もない。この距離ならば隊商を組み、砂丘を越えて32日まるまるかかるというのが世の常識だ。
マイクはフォートンの言葉にうなづくとさらに言葉を継いだ。
「ですが今回の離陸から察するに、この旅ではあまり時間をかけられないようです。そこで裏技を使って、飛行日数を4日、減らします。」
「4日?! 6日で着けると言うんですか! 」
「はい」
驚がくの表情のフォートンとアンディに対して、至極真面目な表情のままマイクは続けた。
「少し遠回りになりますが、一度北のこの地点まで船を進めます」
マイクの手はシェヘンド湖の北へ少しいった地点からすっと横に滑り、ウォルホールの近くの場所まで移動した。
「そこからここまで、他の場所とは比べ物にならないぐらい強い風の吹く通り道が通っています。我々はこれを”風の道”と呼んでいるのですが、ここを経由してウォルホールへと向かいます」
マイクはアンディたちに向き直ると口元に落ちつき払った笑みを浮かべて言った。
「北の”風の道”にたどり着くまで3日。”風の道”を通るのが1日。そこから降りてウォルホールに向かうのに2日。全行程6日間の予定です」
知らず知らず息をつめていたアンディが大きくため息をついた時、隣でフォートンも少し頭をふってからため息をついた。
「なんともはや……途方もない話ですね……」
「以上が今回の飛行予定ですが、何か他にご要望がございましたら承りますが」
「いえいえいえいえ! 」
マイクの言葉に少しあわてたようにフォートンは言うと、己の言葉が相手に不快でなかったかと取り繕うかのように少し笑みを浮かべた。
「この船のことは総てみなさんにお任せしていますので、どうぞ一番よいと思われる方法をお取りください」
「ありがとうございます。……続いて船内での諸注意に移らせていただきますが」
フォートンの気持ちを知ってか知らずか、マイクは事務的と言えるまでの丁重さで次に進んだ。
「こちらがお二方ご使用の船室となります。お食事は時間となりましたらお呼びしますので談話室……今朝食事をしていただいた部屋ですが……あそこまでおいでください。それ以外は起床消灯ともに自由です。
それと海洋での船と同じく船内は火気厳禁です。甲板上に出られる場合は鉤ロープ使用は必須ということで。”風の道”に入った場合は甲板上に出ることは禁止させていただきます。
下の御用……まぁ、小用とかですが……その場合には部屋にある、その壺をご利用ください。ご使用以外はふたをお取りにならないように。空の上とはいえ揺れることが多々ありますので。
……以上になりますが、何かご質問があれば承りますが」
「あの……今朝から気になっていたんですが」
マイクがそう言って地図を片づけ始めたのを見て、アンディは恐る恐る尋ねてみた。
「はい」
「船内で風呂場というのはどこにあるんでしょうか」
マイクの手から地図が大きな音を立てて落ちた。扉を閉めた向こう側の廊下で誰かが噴き出す音がしたかと思うと、バタバタと足音を立てて遠ざかっていった。
「ああ、確かになかったようだね。体ぬぐいのための水桶はあったけれど……」
「そうなんですよ、先生。湯おけはなくても水浴び場はあれば助かるんですけど」
「えぇと……それはつまり、こういうことですか? 」
教会からおん出てきた師弟コンビの言葉に、マイクは頭を抱えながら尋ねかえしてきた。
「”この船に滞在中、水浴びをしたい”と? この”空飛ぶ船”の中で? 」
「ええ。教会にいた時の毎朝の日課なんです。……だめなんですか? 」
あたりを包む不穏な空気にアンディがそう聞き返したのにマイクが口を開くより早く、廊下を爆走する足音が聞こえた。そして船内に轟くような音とともに扉が開けられたかと思うと、実に剣呑な表情の船長が突入してきた。
「だぁれぇだぁ~~~~! この船ん中で風呂なんぞに入りたがる大馬鹿野郎はぁ~~~! 」
誰が何を言いだす暇もなくディアスはフォートンの襟首をつかんで、がっくんがっくん揺さぶり始めた。
「てめぇかっ! てめぇの口がそんなこと言いやがったのか、おいっ! 」
「……エクレナっ! 」
こめかみを押さえて一瞬何かに耐えていたマイクが、扉から外に向かって吠えた。
「船長にへんなこと告げ口するなよっ! 」
「だぁ~ってこ~んな面白いこと、見逃すなんてつまんないじゃ~ん! 」
けらけら笑いながらさらに遠くに逃げていくエクレナの声を聞きながら、アンディは自分が巻き起こした騒動を半ばあっけにとられて見てていた。
「マイクっ! てめぇ、こいつらなんとかしろよ、おいよぉ! 」
「はいはい。なんとかするから、君はとっとと持ち場に戻ろうな~」
涙目にも見える瞳でマイクに抗議するディアスの背中をポンポンと叩きながら、疲れた子守りよろしくマイクは相手を部屋の外に送り出した。そして鉢金にかかる前髪をなでつけながら、しみじみとアンディに語りかけた。
「……ある程度察したろうと思うけど」
「……はぁ」
「砂漠を越えようとする旅において、風呂および水浴びをしようとするのは非常識に近い行為なんだ」
「はぁ」
「先ほど申し上げていませんでしたが、毎日の水の使用量についても制限があります」
マイクに顔を向けられて、まだクラクラとするのか頭を押さえていたフォートンが頷いた。
「一人頭、一日に樽1/3と通常使う量よりもはるかに多く設定しておりますので、おそらく生活に支障はないだろうと説明を省かせていただいておりました」
「いえ、大丈夫です。確かに風呂などを使わないのでしたら一日に樽1/3も使わないと思いますし」
気にしないようにとでも言うように手をふるフォートンに安心したのかマイクは軽くため息をつくと、少しからかうような調子でアンディの顔を覗き込んだ。
「しかし毎日水浴びとは優雅な生活だね。ここでそれをやられては着陸時には全員日干しになるから勘弁してもらうよ? 」
「す、すみません……」
「それでは何もなければこれで失礼します。また夕食の際にはお呼びいたしますので」
恥ずかしさで消え入りそうな気分のアンディをそのままにそれだけ言うと、マイクは荷物とともに部屋を出て行った。残されたアンディの肩を軽く叩いたのは共に残された恩師だった。
「所が変われば実る実も変わる」
丸い顔に優しげな笑みを浮かべてフォートンはそう言った。
「我が教会は神の恵みによって潤沢な水源を確保してから建てられている。教会の常識を世のすべてにあてはめられるほど神の威光は広められてはいないんだ。……お互い気をつけなくちゃあいけないね」
師の慰めを聞きながらアンディは、心の中にこれからの旅の行方について不安が沸いてくるのをふつふつと感じ取っていた。