5月3日の喧嘩
「じゃあ、また会おうな」
「はい。樫富君も気をつけて」
一日の別れの言葉を交わし、菜穂子は疲れを感じさせない顔で笑顔を俺に送った
以前の少し暗くて、天然の入った彼女とは思えないほど明るい表情が眩しい
本当に菜穂子は優しい子なのだということが感じられて嬉しい気持ちになる
背を向けた彼女を見て俺はある考えが胸に浮かんだ。早速それを彼女に伝える事にする
「なぁ、俺久しぶりに漫画を描こうと思うからさ。今度見てくれないか?」
「ええっ! いいんですか?」
「ああ、今日のお礼だよ。いろいろと楽しめたからな」
「そんな…ご飯まで奢って貰ったのに」
「まぁ、気にすんなって。それより勉強頑張れよ、もちろん夢もな」
俺達は駅前で別れた。彼女のうちまで送って言っても良かったのだが、菜穂子はお金がかかるという理由で俺の提案を取り下げた
少し理由が不明瞭で釈然としなかったが、無理に付き合う必要性も無かったので別れる事にした
そして、俺も帰ろうとした時だった。駅の玄関口で奴がニヤニヤ笑いを貼り付け、俺に見下した視線を突き付けているのに気付いたのは
そう、あいつと出会ってしまったのだ。よりによって俺の過去に大きな傷跡を残したあいつに――――
俺より何倍も金をかけているであろう服装。そしてワックスで派手にセットした髪型は
顔が見えない後姿から眺めれば、どこぞのファッション誌を飾りそうなモデルのように見えなくも無い
しかし、その性根と目つきの悪さは奴の性悪な雰囲気を服や香水で誤魔化し切れては折らず
むしろ毒虫の如く下品な派手さを強調させている事は皮肉でもあり、奴らしかったとも言える
「てめぇ、河畑…」
「よう、女の子とデートか? 青春だねぇ…くくく」
その声、俺にとっちゃあ忘れたくても忘れられない声の持ち主は嘲りの視線をこちらに向けた
夕日が逆光となって奴の顔左半分を影で覆い隠しているが、見なくても表情は分かる
奴はその半分の顔にも嘲る為の笑みを口元に浮かべているのだろう
再び憎しみが胸の中で轟々と音を立てて燃え上がる。あの顔を見ただけで、頭の中が真っ白になり殴り飛ばしたい衝動に駆られてしまう
そうだ、こいつはクラス替えの後も俺をこうして「観察」していたのだ
移動教室のときも、普通の授業のときも、昼休みの時も、放課後の時ですらも…影のように付きまとい、プレッシャーを与えてきた
たちの悪い亡霊のように…獲物を横取りしようとするハイエナのように、俺の動向に目を光らせていたのは知っている
「お前、意外に趣味がいいじゃねぇか?」
「…黙れ」
「まぁ、落ち着けよ。お前尋常じゃない目つきしてるぜ?
そこは俺様もわかってるんだ。だからやらないか? ケリを付けるんだよ…誰の邪魔も入らない場所でな」
「……」
「勿論、逃げたりなんかしないよなぁ? くく…」
成程、人気の入らない場所で喧嘩しようっていう寸法か。面白い
お前がそうじゃなかったとしても、俺はとっくにそのつもりだったぜ。河畑!
奴にしてはやけに気前が良いような気がした。そろそろ俺も決着を付けようとしていた頃だ
「付いて来な、近くに工場跡地があるんだ。あそこなら邪魔は入らねぇぜ…」
「分かった。望み通りぶちのめしてやるよ、お前をな」
俺は頬の筋肉が引きつるのを感じた。恐らく口の両端が恐ろしいほど釣り上っていて、ひくついているのだろう
興奮と熱狂を胸に二年前のケリ、今此処で付けてやると誓った
夕日は、もう殆ど沈んでいた。あたりはもう淡い紺のうっすらした空が広がり
太陽の残りがである夕方の光は橙色の光の帯となって、地上と空を地平線のラインで切り分けている
街頭も一つ一つが、ぽつぽつと明かりを灯してゆく。それが夜の時間の明確な訪れを示すことをこの街の誰もが知っていた
「いい心がけだな、テメェが一対一の喧嘩を仕掛けてくるなんて」
「お前みたいなチビに俺様が負けると思ってんのか? 軽く半殺しにしてやるよ」
「…なんだよ。俺みたいなチビにビビッて半殺しにしか出来ないのか?」
「粋がるなよ虫野郎。お前なんて踏み潰すだけで即死だよ」
「河畑…!」
奴はポン、と手を打ち何か思い出したように殆ど剃られている眉を反らした
口元にはいやらしく毒気たっぷりに吊り上がり、目には邪悪な光が宿っている
思わず身構えてしまう俺は奴はどうせ碌な事を言わないであろうと高を括ってしまう
しかし、河畑の口から出てきた言葉は予想以上に衝撃的で、俺を苛立たせずにはいられない毒そのものだった
「あ、そうだ! 俺、あの子の降りた駅知ってるんだよなぁ。ちょっと探せばアパートくらいすぐに見つかるかもしれない
知ってるか? ああいう女は結構貞操概念が強いんだぜ。今時珍しい古き良き大和撫子ってやつかな? フフ…
大人しそうな子だよなぁ…誰かさんに色々されても、恥ずかしくて絶対に口を割ることなんて無いだろうなぁ?
それに今は便利な時代なんだぜ。色々と写メで撮ってネットにばら撒くと脅せば、更に秘密が漏れる確立は無くなり安心ってコトだ…くくく」
「お前は―――ッ!!」
挑発に耐えかね、俺は奴に殴りかかった。河畑は馬鹿正直に放たれたストレートを右手でいなし
お返しとばかりに掬い上げる様な膝蹴りを見舞ってくる。カウンターである、挑発も計算のうちに入っていたのか?
反射的にそれを察し、背後に飛びのくが顎に掠めてしまう。ダメージは軽いが、リーチの差を感じずにはいられない
しかし今ので分かった。俺と奴の力は五分だが、身長が高く足も長い河畑の方が有利だということに
「チビは辛いよなぁ? 手足が犬っコロみたいに短いからパンチが届かないぜ」
「黙れよ、屑が!」
「そうか、じゃあ屑にボコられるってのはどんな気持ちなのかねぇ?」
奴の蹴りが側面から俺を襲う。足の長さはそのまま威力に直結する
こいつは俺以上に喧嘩慣れしていると悟ってしまう
最近部屋にこもってゲームばかりしている始末だったので奴の動きを終えても体が追いつかない
俺はガードをすり抜けた蹴りに、わき腹を抉られる様にして吹っ飛ばされながら己の無謀を呪った
「どうした? くく…威勢がいいのは口だけか?」
膝を折り這い蹲る俺を見下ろして、河畑の糞野郎が再び蹴りを入れる。わき腹にもろに入り、俺はくの字の体を折りながら奴を睨む
絶対に屈したくは無かった。体がどのくらい痛めつけられたとしても、奴に頭を下げて許しを請うのだけは御免だった
そしてなにより、此処で引き下がると。俺の心も折れて永久に立ち上がれなくなってしまう
それだけじゃない、菜穂子も何をされるか分からない。こいつと仲間達はあまり良い噂を聞かないのが現状なのだ
まともな価値観で善悪を測るような連中じゃない。じゃなければ二年前にあんな事はしなかったはずだ
「うる、せぇ…まだまだ…これから……だッ」
「ケッ、根性だけは認めてやるよ」
河畑が背中に足を踏み下ろしてくる。胃の中が一気に圧迫され、今日食べたものを戻したくなった
しかし、歯を食いしばって我慢する。こいつの前で吐くなんて御免こうむる
俺は絶対に屈したくなかった。そして、これだけ痛めつけられたのにこいつにまだ勝つつもりでいた
諦めが悪いほうだとは自負しているつもりなのだ。いい意味であっても、悪い意味であっても
「お前さ、そうやって自分が誰かに認められたいとでも思ってるワケ?
なんかさ…お前みたいに必死にやってる奴見るとさ、なんだかそいつの人生ぶち壊したくなってしまうんだよねぇ」
「何を…言っている?」
「前さ、宮元修平っていうデブいたじゃん? あのキモメガネの奴、そして小学校近くの公園で起きた小火騒ぎ
俺様はな、二年の時半年間お前の変わりにあいつを苛めててよ、あいつの漫画本近くの公園で全部燃やしたんだわ
くくく…思い出しただけで笑いがこみ上げてくるぜ。あいつ、ガキの様に顔ぐちゃぐちゃにして喚いてやがんの!
宮元は他の奴らに命じて押さえつけてたが、全く最高だったぜ! 」
得意げに語る河畑のつまらない話を俺はむしろ冷静に捉えていた
こいつはこんな事をしても仕方がないのだと、判っている。だからこそ許せなかったし、宮元という奴にも同情する
それ故に叩きのめしてやらないといけないと思ったし、こいつを傷つけることによる罪悪感は沸かない
河畑圭介はそうされて当然の事をしているのだ。いつか報いを受ける時があるとしてもその時までは待てないし
何より、俺は今ここでこいつに吠え面をかかせてやりたかった
そして、こいつは今俺の背中に脚を乗せて完全に油断している。そこまで力を篭めていないし
人間一人程度の体重なんて簡単に押し返せる。今はまだ「演技」が必要だった。油断を誘う為の芝居が
まだ、必要なことがある。それは俺自身の心に怨念を溜め込むことだ、憎しみは力を与えてくれる
その為に、こいつにされたことを思い出す。河畑にギタギタにぶちのめす自分を想像する
(アッパーをぶち込む、あいつの笑い声を黙らせる。ミドルキックでぶっ飛ばす、醜いあいつの顔を歪ませるために
右ストレートでぶん殴る、奴の顔が苦痛に歪むのを見たいから…ハイキックで顎を砕く、むかつく減らず口を叩けなくする為に…今だ!)
俺を抑え込む力が一瞬緩んだのを見計らって、一気に体を起こした
馬鹿笑いを続けていた奴がものの見事にひっくり返る。すかさず俺はあいつの上に取り付いた
完全な馬乗りである。専門的に言うならマウントポジション、つまり顔面殴り放題というわけだ
俺はひたすらに拳を振るった。河畑の顔めがけて何発も何発も叩き込む―――――そう…この瞬間を待っていた
奴はむなしく抵抗していたが、既に結果は逆転している。顔を覆うようにガードしていた両腕も一分近く殴り続けるとぐったりと垂れ下がる
完全な暴力による確かな手ごたえ。そう、これが―――これこそが、相手を屈服させ征服するということ
俺は陶酔感に流されるまま拳を振るった。奴の鶏冠の様な髪型は土ぼこりにまみれて薄汚れ、乱れていく
唾液が拳に付く。汚い、不快なので殴る
奴が小声で何か言っている。さっきまでの威勢はどうした?愉快なのでまた殴る
泣き言をあいつは言っている。外面ばっかりかっこつけているくせに、今の顔は親に叱られたガキのそれだった
「……すまねぇ…もうお前に手出ししねぇから…許して……くれ」
何か言っている。その意味は知っているが、聞き入れるつもりは無いのでまた一発
「黙れよ」
また殴る。他人を蹂躙することはこんなに気持ちがいいのか? ゲームをするよりも楽しいじゃないか
ゲームの敵キャラクターは無様に負けごとを胃ってアイコンが消滅するか、しょぼい爆発エフェクトを残して消えるしかない
だが、生身の人間はどうだ? こんなにも相手にすがるような声で啼いてくれるではないか?
これこそ最高の娯楽だった。俺はそのままもう一撃を奴の眉間にお見舞いしようとした時―――――
「嘘…樫富…君? なの…?」
背後から聞こえた女の子の声に気を取られてしまった
俺は後ろを見て、『彼女』の姿を見て完全に固まってしまった
おい…嘘だろ?………なんで…なんで、お前がここに居るんだよ―――――?
これじゃあまるで悪夢じゃないか……は、ははは
後ろから俺の一方的な暴力を見て、自分の身を守るように両腕で体を抱きしめ震えている少女は――――
――――先ほど駅で別れたはずの石田菜穂子本人だった
俺は震える足を無理やり立たせた。雷に打たれたように全身を衝撃が貫いている
いつの間にか、震えは体全体に伝導していた。口元がカチカチと無意味に開閉し、歯が鳴り合う渇いた音を立てた
視界にはもう彼女しか見えなかった。最早河畑の事などどうでも良く、奴が走り去っていくことすら、今の俺は無頓着だった
見られてしまったというそれこそが大きな問題なのだ。相変わらず開いたままの口は無意味にわなわなと震え、声にもならない呻き声が洩れるだけだった
もしかしたら弁解しようとしていたのかも知れない。しかし、言い逃れは出来ないのだ
自分が非常に愉快な気分で、征服感や射精感にも似た陶酔を伴って暴力を振るった事実は確かなのだから
「あの…私、やっぱり……お金を返そうと思って…」
彼女が何か言っているのが判る。意味すらも理解できるが、言葉は俺の心をすり抜けて彼方へと飛んでいく
俺はよろよろと前に進み、彼女の方向へと歩いた。菜穂子は俺の姿を見て後ずさりする、それが全てだった
夕日は完全に没した。そして俺の希望も同時に消え去った、菜穂子の横を何も言わずに通り過ぎる
「―――――――――!」
彼女が何か言っているのが分かる。判るのだが、今の俺は聞く余裕すら、一さじも残っちゃあいない
無気力に支配された今の状態こそが、現在の樫富早岳なのだ…もう、何かをする気力も起きなかった