4月21日の独白
「なぁ、お前はなんで漫画家になろうと考えたんだ? 目標にしている漫画家はいるのか?」
喫茶店のテーブルで向かい合い。俺はまず、菜穂子に聞いてみた
なぜこんな質問にしたのか分からない。そもそも漫画やゲーム、食事のこと以外の話はからっきしだったというのも有るかも知れない
それでも菜穂子は真面目に考えてくれたように、整った眉を寄せて困った顔をつくった
「うーん。私も漫画が好きになったからなのかなぁ? でも、誰の絵が一番好きとかじゃないし、少年物は満遍なく読むから―――」
「はぁ…なんで疑問系なんだよ」
「さぁ…何故でしょうか?」
可愛らしく首を傾げる菜穂子に俺は諦めの篭もった溜息を漏らしてしまわざるを得ない
今は包容力があるが、こいつのこういった天然ボケ気味なところはあまり直っていないようだ
その反面、意外と変わっていなかった菜穂子の内面に安堵する。彼女はただ前向きになっただけなのだ
俺も…前向きに生きられたら変われるのだろうか?昔のようにまた絵や漫画を書くことができるのだろうか?
「お二人さん。仲が良いねぇ」
俺と菜穂子が向かい合うようにして座る場所に割って入るように、新木が嫌味の無いニヤニヤ笑いを浮かべている
菜穂子も俺も顔を真っ赤にしてうつむく。その様子を横から眺めているこいつは悪趣味であると確信した
四月中旬の土曜日、俺達は少し離れた駅前の喫茶店で集合して五月のデートの件について話し合っていた
新木と一緒に此処に来たら彼女が居たのである。つまるところ俺は嵌められたのだ
「ま、五月は観光地に人が行くからね。遊園地は込むと思うけど
二人ともインドア派だろ? ゲームするのも漫画描くのもいいかもしれないけどさ、たまには外に出て羽伸ばすのも良いと思うんだ」
「連休前に新作のゲームが出る。外出は金がかかる、余計なお世話だ」
「わ、私はどちらかと言うと映画を見に行きたいのですけど…長いお休みはやっぱり漫画を描いていたほうが…」
「まぁまぁ、二人とも閉じこもってばっかりじゃいけないと思うから…」
新木は俺たちを宥めつつ、再び説得を続けるのであった
それから数時間後、新木に説得された俺達はしばらく駅周辺の辺りを回っていた
お節介焼きのあいつはもう居ない。喫茶店から出ると用事を思い出したとか言って何処かに行ってしまったのだ
まぁ、少しうざったかった気もするが居なくなると居なくなったで、また寂しいのが人情だ
「結局行く事になったけど、なんか乗せられた感じだなぁ」
「私は楽しみです。コーヒーカップ、乗りたいですし」
「レトロだけど、残っているのかねぇ…」
「はい。昔からコーヒーカップのイメージが強いんです…遊園地は特に」
「俺は観覧車なんだけどなぁ…やっぱり定番はちがうのかなぁ?」
顎に手を当てて考えるが、ぱっと思い浮かばない
俺自身、遊園地というものにここ十年近く行っていないのだからしょうがない
「誰だって好きなものがあってもいいと思います。私は漫画が好きですから、それに携わる仕事に就きたいと思っています」
「漫画ねぇ…最近は読むの専門だしなぁ」
「絵、また描かないんですか?」
菜穂子が俺の顔を覗き込んでくる。何故だかいろいろと見透かされそうな透き通った瞳に期待するような光が有った
そして立ち上る淡い香水の匂いにどきどきとしてしまって、俺は目を背けていた
「まぁ、今は休載中だし…ゲームとかあるからさ。色々と忙しいんだよ」
その答えが逃げであることは俺自身がよく知っている。ゲームに夢中で絵を描いていないのではない
好きだった趣味から逃げるためにゲームを口実にしているのだ。しかも俺自身がそれを認めていない悪循環である
ゲームは好きだ、楽しんでいると思っている。しかし本当にそれだけで良いのかと考える自分も確かにいるのだ
絵を描くことは今の俺にとって自ら拷問を行うにも等しい選択だった、どうして認められなかった物に手を出さねばいけないのか?
だが、その反面それが捨てきれない俺もまた、心の中に居たのは事実だ
変わらねばならない事は分かっている。何時までもどっちかつかずでは、もしかしたら菜穂子の心までも傷つけてしまうかもしれない
「私は樫富君が努力できる人だって信じてます。受験勉強がんばってましたし」
「あれは、石田に教えてもらったからだよ。俺はそんな努力してないし、頭悪いし…」
「それでも、何かに向けて努力出来る人って素敵だと思います。あの頃の樫富君みたいに
私、どの漫画家よりも樫富君の漫画を見てみたいんです。それでまた新しい自分が見つけ出せる気がするから…」
菜穂子。それは違うんだ…お前は俺を買いかぶっている
お前が見ていた俺は確かにそう見えたのかもしれない。しかし、それは本当の俺じゃない
勝手に押し付けられたお前の理想の偶像なのだ。俺は自分を誇れるような人間ではないのだ
そこをわかってくれ石田。俺は正真正銘の屑なんだ…期待するような目で見ないで欲しい
期待に満ちたその視線が俺を傷つけてしまう事を、どうか判ってくれ――――
「お願いです。樫富君が頑張っている所、もう一度見せてください」
石田の大きく、純粋な瞳が俺の姿を捉えていた
彼女の瞳に移っているのは昔のころの俺か、それとも今の腐った俺なのか分からない
答えを出すべきだと思った。幻想めいたものを俺に抱いているのなら、それを砕かなければいけない
菜穂子が俺にかからない様にする為に。そう、俺の出すべき答えは…
「…そろそろお昼の時間だよな? どこか食べに行こうか、俺が奢るよ」
「……はい」
結局俺は逃げてしまった。彼女と視線を合わすことすら今の自分には難しい
決断の先延ばしは、誰かを傷つける時間が増えたということである
あんな事を思っていながら、俺は彼女に失望されたくなかったのだ。卑怯者の論理を使ってしまった
ごめんな、菜穂子…俺はお前が思っている以上に大した人間じゃない。逃亡者なのさ
心の中で俺は彼女に詫びた。面と向かって何か伝えることすら今の自分にはできなかった
そして今は、その資格すらないと感じた。罪滅ぼしに今度のデートは楽しい者にしようと決意する
それでお別れだ。自分は彼女の傍らに居る資格すらないのだから――――
翌日、俺はお婆ちゃんの家に向かった。理由は文也叔父さんに会うためである
やや遅れた時間だったが昼食はご馳走になった、ご飯と味噌汁、ホタテの味噌漬けにオクラの醤油漬けとシンプルなメニューだったが
たまにはこういうのも悪くないだろう。健康食らしい盛り合わせだった
食事を終えると文也おじさんと一緒に二階へ上がる。もちろん昼食後のゲームを楽しむ為だった
だが、叔父さんはPS3のコントローラーを俺に渡すと、自分はコンテに色鉛筆の納まった箱、スケッチブックを取り出してベランダに向かった
「叔父さん、何をしてんの?」
「絵を描くんだ。昼過ぎの太陽がやや落ちたこの時間帯は、何かするのに丁度いいからね」
「絵か…」
「早岳君も描いてみるかい。昔好きだったろう? また教えるからやってみないか?悪くないと思うよ」
文也叔父さんの提案は悪くないような気がした。二年前の自分なら間違いなく受けていたであろう
しかし、今の自分はそれすらも億劫だった。何かするということに拒否感が生まれるわけではない
それだけは出来なかったのだ。たとえ日向ぼっこの下で行うそれが心地よかったとしても
「いや…俺はいいよ。まだこのゲーム最後までクリアしてないんだ」
「ふーん。たまにはこういうのも悪くないよ、君は学生なんだからゲームばかりしないで、いろいろなことに手をつけたほうがいい
きっと将来の役に立つと思う、いろいろと遊べるのは学生の内だからね。社会に出るとこうもいかないんだ」
少し肥満気味の体を揺らしながら、おじさんは画用紙に線を描いていった
ふと、思うところがあり俺はゲームを中断して叔父さんの作業を見ておくことを決める
そう、見ているだけならば全く問題は無い。昔、この人にあこがれて俺は絵を描き始めたのだ
コンテの濃い線が、ひとつ、そしてまた一つと真っ白な画用紙に線を引いていく
まったく意味のない用に見えた曲線が線を加わり、書き足される毎に骨組みのような線画が出来上がっている
文也叔父さんは相変わらず綺麗な絵をさっさと描いてしまう。それはこの人が長年培ってきた趣味の産物なのだろう
「相変わらず上手いんだね」
率直に感想を述べると、叔父さんは何故か困ったように笑った。恐らく、謙遜なのだろうと思う
「そうかな? 本当なら昔みたいに一日五枚近くは書き上げたいところだけど
最近は出来て一、二枚…睡眠時間を削って頑張っても三枚だ。多分体力が衰えてきたんだと思う
それだけじゃなくて、集中力もだいぶ落ちてきた。こうやって絵を描いたり、ゲーム出来るのも…あと何年なんだろうか?」
「歳をとるってやっぱり大変なのかな?」
「本人が満足できていたら、それでいいんじゃないかな。要は悔いの無い人生を送れって事さ」
「うん。それと、俺の絵を見たいっていう奴がいるんだ。どうすればいいんだろう?」
菜穂子の横顔を思い浮かべながら言う。文也叔父さんは相変わらず穏やかな笑みを浮かべている
「見せてあげれば良いじゃないか。友達…かな? まぁ、誰かに優しくするのも悪いことじゃないよ」
「でも、俺は自信が無い。絵を描くことを恐れている自分が心の中でじっと見てる気がして
何かしようとしても、もう一人の俺が『無駄だ、諦めろ』って笑ってくるんだ
その声に俺は負けてしまう。自分が認められなかったのは誰よりも俺自身がよく知っているから」
「その気持ち。俺にもよく分かるような気がする…」
叔父さんの横顔に影が差す様な気がした。ほんの少しだけ俺は後悔する
コンテを握る手は相変わらず動いていたが、彼の目に闇が宿るのを俺が見た
文也さんは一見穏やかそうに見える。しかしこの人ですらも暗い感情に身を窶した事があるのだろうと悟ってしまう
「最近は日が過ぎるたびに、未来が閉ざされていく気がするんだ
こんなことを再び始めたのは、恐らく自分を誤魔化しているんだと思う
他の人間に比べて見ても、僕にはこうして母さんの金を使って趣味に費やす時間がある
僕も人に認められたい、尊敬されたいって言う気持ちはあった。けど、最も致命的なものが欠けていたんだ
それに気付きかけて…気付けなかった時、そして兄さんが居なくなった時に僕は世間に怯え、関わるのを止めた
それでも、ある意味で僕の選択した生き方はもっとも幸福で、誰かが望んでいるカタチの一つなのかもしれない
まぁ、趣味に使う時間は沢山あったからね。一時期は絵を描いてスキャナでパソコンに読み込んでホームページに載せていた時期もあった
セミプロ意識を抱いてイラストレーター紛いの仕事で小遣いを稼いでいた事もあったけど、なんだか虚しくなってさ…最近閉鎖したんだ
僕よりも絵が上手くてコネもあってズルくて…世渡り上手な奴は幾らだって居ると知って、プロになんかなれないと悟ったよ
―――何もかも馬鹿馬鹿しくなって来たのさ。人より特別だと思っていたのに全く現状を打破できない、自分自身にね」
「そんな事があったんですか…」
叔父さんの言うことは分かるような気がした。俺にだって認められたいと思って行動したことはある
それが絵描きだったりゲームの腕前だったり…喧嘩だったり色々なものに移り変わってはいたけど
俺もあの日に人間の汚さを知ってしまった。善良な人間こそ少ないのだと裏切りを以って思い知らされたのだ
そう、他ならぬ「奴」のせいによって…今の俺が存在している。そして生きる目的、「夢」すらも見出せなくなった
「一方で後ろめたい気持ちもあるんだ。母さんに負担を懸けている事と、自分の時間を潰して得た将来への不安…
今日も母さんは病院に行ってた、僕には話さないけど色々調べて分かったんだ。あの人の体に負担をかけてしまっていることを
このままで良い筈が無い、そう思っている…分かってはいるんだ。だけど僕は怖くて抜け出せないんだ
変な事言ってしまうけど、いっそゲームや物語の世界に生まれて来れば良かったと思う事がある」
この人の独白には単純に表せない様々な感情がこもっているような気がした
虚栄心、何かへの羨望、渇望、更に嫉妬、怒り。恐怖、喪失感、諦観そして罪悪感―――
様々な感情が絡み合って渦巻いていくような感触は、彼の生きた人生の『重み』なのだろう
彼の言葉の中には、簡単に説明できないような挫折がオブラートに込められているというのか?
文也さんの過去に何が起きたのか、俺は知らない。母がよく愚痴っていたそれに関係しているのかもしれない
今は分かったことは、この人も途轍もなく苦労していたということだ
そして、まだ十七年ぽっちしか生きていない俺が何も言うことが出来ないであろうことも…
「叔父さん…」
「ははは…ごめんよ。気弱なことを言ってしまったね
君は僕みたいな駄目な大人にならないでくれよな。失った時間は何があっても取り戻せないから
すまないが、色鉛筆を取り出してくれないか? レモン色に、水色に、青にシアン…今なら丁度良い空の色が出せそうだ」
俺はは色鉛筆の缶を開けて数本つまみ取り、文也さんに渡した
彼はそれを器用に耳に挟んだ後、いつの間にか出来上がった線画に色を加え始めた
いつの間にか太陽は影を落とし始めていた。涼しい風が吹く、斜陽の始まりを告げる午後の生温い風が―――――