4月1日の因縁
「河畑…てめぇ…」
「一年ぶりだな…クク、二年生は楽しかったか?」
俺は奴を睨み付ける。憎悪と共に、この二年間溜め込んでいたあらゆる負の感情を視線に込めて
それでも奴は笑っている。同然だ、あいつの頭の中で俺は完全に格下の存在であると格付けされているのだ
総じて目つきが悪い取り巻きのお仲間達も俺の向ける眼光に気がついたようだ。中の二人はあからさまに面倒臭そうだったし
体格の良いあとの一人は三白眼を威圧感たっぷりにこちらに向け、誇示するようにポキポキと指を鳴らす動作をして見せる
背の高い河畑の野郎か完全に余裕の態度で、自分に吼えてくるうるさい野犬でも眺めるような目つきで俺を見下していた
奴の傲慢そのものが掬い取って見れるような態度に、俺の苛立ちが更に増してゆく
じりじりと首のすぐ後ろ辺りが熱くなり、脳天まで焦がしていくような灼熱の感情が自分を支配していくようだ
こいつは俺が一年のとき、惨めな生活を送ってきた俺の葛藤を何も知らない
いや、知らなかったはずが無い。河畑の奴は明らかに俺の挫折と苦悩の日々を見て取って笑っていたはずだろう
そうだ、そうに違いない。こいつこそ許されざる敵なのだ、俺に屈辱を与えた悪魔なのだ
人知れず、俺は拳を握り始める。それを爪が河に食い込むほど、白くなるほどに握り締めていく
それを何に使うか…そんなことは決まっている。河畑の憎い面を殴打するためだ
そもそも、二年前に起こしておくべき行動だったのだ。俺の心が奴に屈服されるその前に事は成すべきであったのだ
そう、今からでも遅くは無い。奴は人数と心を折ることによって俺を貶めたが、今度は俺が奴を屈服させてやる番だった
「暴力」の二文字を以ってして、奴の態度を完全に折り、口を塞ぐことが最善の策であったと自覚する
俺と奴との間に剣呑な空気が広がっていくのを感じた。クラス中が今やシンと静まり返って俺たちに注目していた
「何だよ? そんな目で見るなよ…落書きが描いてあったノートを破っただけじゃねぇか。クク…」
「…ッ! テメェ、どうやら本気で俺を怒らせたいらしいな…」
そして奴は笑った。そう、二年前にやったように浮かべた笑みを再び俺に見せつけたのだ
俺はもう我慢ができなかった。一歩一歩足を踏み出し、奴の前に近づこうとする
河畑の奴も窓側から離れ、俺の方に向かってくる。お互い教壇の前で睨み合い後三、四歩づつ歩けば射程圏以内に入る
あいつは俺よりも大きく、背も高い。チビだと俺のことをも見下しているだろうことがわかる
俺も奴と直接に殴りあった経験は無い。だが、腕っ節で中学まで鳴らしてきたのだ
互いに一歩踏み出していく。そして奴の息がかかるかと思われるほど接近していたそのときだった
――――急に大きな人影が割り込んできたのは
「おい、二人とも止めるんだ」
俺と河畑の間に割って入ったのは、新木だった
「そこをどけ、新木」
「いいや、どかないね。俺がどいたらお前ら喧嘩始める気だろう?
やめとけやめとけ…新学期早々に皆に悪い気分にさせたくないだろうが。だって最後の高校生活初日だぜ?
あまり騒ぐな、喧嘩なら外でやれ。周りの連中に迷惑かけるな」
新木は俺の進路を塞ぐようにして、両手を広げ俺の前に立って壁になっている
俺は友人であるこいつを睨み付けた、今は関わって欲しくない反面。それでいて邪魔な存在でしかない
正直に言うと目障りなのだ。構っている暇は無いし、何より俺の怒りのボルテージはとっくの昔に限界へと近づいている
それに新木を邪魔に思っているのは河畑も同様のようで、目障りそうな視線を向けていたからだ
意外な事にもしかしたら初めて、俺と河畑の意見が合っていたのかもしれない
そして、これから合う事は無いのだろう。こいつがどいた直後に俺達が殴り合う事は火を見るよりも明らかだ
ともかく、新木は今の俺にとって邪魔な存在だった。河畑の奴も同様である
しかしこいつは動じなかった。俺たち二人に囲まれて尚、平然とした表情で道を譲らない
無論、新木の表情を見ると真顔だった。眼の中にある意思の光を見て取ると、こいつは絶対に道を空けない事は明白だった
「もう一度言う。退きやがれ、新木」
「…嫌だと言ったら?」
「テメェをぶちのめす」
「……ほう?」
一触即発の状態に入った俺に対して、新木は面白そうな顔で見物するかのように目を細めた
俺は更に一歩踏み込んだ。心の中で俺自身が止めろと叫んでいる、友達を失う気なのかと問いを寄越す
うるさい、だまれ。俺は怒りと憎悪をもってして内なる自分の声を黙らせるようとする
気弱な自分は必要無い。相手に弱みを見せればそこを付け込まれてしまう
本当に必要なのは…相手を落としめる徹底的な覚悟と、強さのみ。それが今の俺にとって必要なものだった
優しさなど、何の役には立たないことを知っている。あいつはそこを突いて俺の尊厳と夢への思いを踏みにじったのだ
到底許せるものではない。同じ屈辱には同じく奴自身の名誉を踏みにじってこそ復習は完遂する
要は等価交換、ハンムラビの法典だ。何事を得るためには何物を捨てなければいけない、俺は河畑の矜持を踏みにじり泥を擦り付ける権利がある
罰には罰を、痛みには痛みを、屈辱には屈辱を以ってして恨みを晴らさなければならない
だからこそ、俺には河畑を痛めつける権利があるのだ。だから、そこを退け新木…頼む、退いてくれ……
「いいから止めろ、早岳」
静かな友の、湖水のように澄んだ声が俺の心に染み込んでゆく
再び、俺の中で葛藤が起こり始める。新木はどうしても退くつもりは無い
そして目の前にはあいつが大きな壁のような存在となって俺を見下ろしている
圧倒的な存在感に、俺はそれ以上歩を進められなかった。互いの息遣いが感じられる距離で俺たちは視線を合わせていた
厚くなっていく気持ちが少しづつ静まっていく、高まった鼓動が徐々に静まっていく
熱に浮かされていた自分が、徐々に冷静さを取り戻していくと同時に自問自答する
何をやっているのだ俺は? 河畑の奴と一戦交える気じゃなかったのかと
自分が酷く、馬鹿なことをしでかそうとしていたのではないかと俺は自己嫌悪に陥りそうになってくる
冷えた頭が警告を鳴らしている。喧嘩の場所すら選んでいない自分の浅はかさに頭を抱えたくなってくる
新木はそんな愚かな俺を諌める為に割って入ってしまったのか?馬鹿で短慮な自分のために
申し訳ない気持ちが湧き上がってくる、土下座して謝りたい気持ちになって来る。友に迷惑をかけてしまったと
だが、申し訳ないと考えているのは新木に対してだった。河畑に対する怒りは依然として旨の中で燻っている
一度動き始めた歯車は止める事が出来ない。そして俺はどうしても河畑の奴を許すことが出来なかった
「どけ…」
今一度だけ、新木に言った。相手も頑として道を譲らないようだ
ならば仕方が無かった。俺は自分の名誉の為に新木を切り捨てようと考える
それは苦渋の選択だった。こいつが居なければ二年生の俺は居なかった
しかし、どうしても譲れないものがある。夢を踏みにじった河畑を見過ごすことは出来ないのだ
俺は心の中で新木に詫びた。つまらない干渉を捨てきれない俺を恨んでくれて構わないと
一歩、また踏み込む。仇でも見るような視線を俺は友に向けた
本当は、こんな事なんてしたくなかった。だが、やるしかないのだと己を叱咤し拳を振り上げたその時だった
「あーやめだ。止め止め…白けちまったし、邪魔者が割って入ったから今度にしようぜ、チビの樫富」
以外にも俺と新木の友情を守ったのは、憎い仇であるはずの河畑だった
奴は取り巻きを連れて行くように、俺の脇を通り過ぎると集団で何処かへと行ってしまった
俺は全身の力が抜けていくのを感じた。無気力感に体を支配されそうになる
今は…この一瞬だけは屈辱ではあるが河畑に感謝しても良かった。奴のおかげで俺は新木を殴らずに済んだのだから
「何故、俺を止めようとした?」
「…大まかな理由はさっき言ったとおりさ。他の連中に迷惑がかかる」
冬の名残が残った、突き抜けるように真っ青で雲があまり無い空の下、
ホームルーム終了後の放課後に新木と俺は屋上の風に吹かれるように、手すりに体を預けその身を晒していた
本来ここは立ち入り禁止の場所である。しかし、新木曰く『秘密の方法』でここに忍び込むことが出来たのだとか
企業秘密なので詳しく話さなかったが、新木曰く卒業した『文芸部の先輩』が一年の時に教えてくれたらしい
何しろここで一組の男女が、夕方の青空を見る為に放課後の逢瀬を繰り広げていたのだ…と
なんとも今のゴールデンタイムにやる学園ドラマでもやりそうに無いような、手垢が付き過ぎた青臭い話である
「さっきは、済まない事をした」
俺は素直に自分の非を詫びると、新木は朗らかに笑って見せた
「ああ、別にいいよ。一発くらいは殴られる覚悟だった、二発目以降は倍にして返したがな」
「成程」
苦笑が口の中から洩れる。新木も俺の顔を見て笑った
それだけで、互いの胸のうちに沈殿していたわだかまりは風と友に吹き去っていくような気がする
根掘り葉掘り聞こうとしない新木の優しさが身に染みる。あの事件は無闇に他人に話したいものではなかったからだ
そして、新木が俺をここに連れてきてくれたのも分かる様な気がする。しばらくは二人で太陽の昇った大空を見上げていた
「なぁ、樫富」
「なんだ? 新木」
しばらくして口を開いた新木に俺は尋ねたのは、あいつが何か言いたそうにしていたからである
「石田さんのことなんだけど」
「あいつの事か…」
それは朝にも二人で話していたことなので、ある程度予測が出来ていたことだった
二年ほど見ない間にすっかり成長した石田菜穂子。小学校の頃虐められたのを一度だけ助けて、中三の塾通いの際に再び接点を持った女
あいつはすっかり変わっていた。以前の泣き虫とは考えられないほどに強く、堂々としていた
今は漫画家を目指しているという彼女。あいつの絵は本気で上手かった、そういう才能が元からあったのだろう
本当に昔の自分を見ているようだった。俺も高一の頃までは暇つぶしに漫画を書いていてそれなりに自身があったのだ
「五月にゴールデンウィークがあるよな」
「ああ、有るな」
「お前さ、俺がセッティングしとくから隣町の遊園地で石田さんとデートする気は無いか?」
新木の言葉に俺は固まった。つまるところフリーズしたのだ
「デ、デデデデートだと!」
顔を真っ赤にして飛び上がる俺を新木の奴はタスマニアデビルの逆立ちを見るような表情で見ていた
「高校生なんだから珍しくもなんとも無いだろう? それにもう三年生だ、そんな経験の一つや二つ有っても良いんじゃないか」
「いや…そういっても俺なんかあいつの彼氏じゃねぇし…」
「なら友達って事でも良いだろ? まぁ、あんま気にするなって事さ」
ぽんぽんと俺の肩を叩く新木。なんとなくおちょくられて居るようであまりいい気分はしない
それにしてもデートだと!? 俺とあいつが? 信じられないし非現実的だ
ま、まぁ…昔のあいつはただの根暗女だったが、今のあいつはまぁまぁ嫌いでもないのだが…複雑な気持ちではある
「ま、一週間ゆっくり考えてくれ。あ、それと携帯出してくれないか?」
「ああ、別に構わないが…」
俺は携帯を出す。メールが届いていた、無論送り主は目の前に居る新木からだ
メールを開くとアドレスが載っていた。その下には石田菜穂子と名前があり電話番号も記載してある
え…待てよ。『石田菜穂子』っていうのはまさか…
「彼女に頼まれたんだよ。お前に渡してくれってさ
それに互いに連絡が取れないと、デートのセッティングも立て辛いだろ?
まぁ、俺も手伝うから頑張ってくれよ。 お二人さん♪」
「新木…てめぇ……」
やっぱり一発分殴っておこうと俺は新木に詰め寄ったが、奴は驚くような身のこなしで屋上から立ち去っていった
そして俺達は追いかけっこをするように慌しく下校していったのであった