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序 今は亡き神の庭にて

 からからと乾いた小石が転がる床に、小さな手のひらがそっと触れた。かつては滑らかだった床の表面は、そのほんの少しの荷重でさえも容易に罅割れてしまう程、根深いところまで侵食されてしまっている。

 リヴィウィエラは悲しげに眉を顰め、静かに手を引いた。細かな欠片がぱらぱらと零れ落ち、止まる間もなく罅は広がっていく。今は辛うじて原形を留めているが、いずれすべてが侵されてしまえば、跡形もなく欠片となって消えてしまうのだろう。床に触れていた手のひらを握り込み、随分長く膝をついていた床からようやく立ち上がる。パキパキと大きな音と共に、罅は容赦無く世界を壊していった。

「リヴィウィエラ! 時間だ!」

 静寂しかない空間に、その声は不自然な程強く響いた。ぱらぱらと、天井と言わず柱と言わず、あらゆるところから崩れた欠片が落ちる。振り返れば、長身の女が足元を気にしながらどうにか歩み寄ろうとしているところだった。返事をするよりも先に、リヴィウィエラは女に向かって足を踏み出す。自分の方が身が軽いし、どのみちもう、ここに長居するつもりはない。

「レゼ」

「ん、ああ、悪い。……しかし酷いな、幻影門でこの状態か。予想よりだいぶ早い」

「先を見てきた。大体、この辺りまでで止まってる。でも、近いうちに、神代門までいきそうだ」

「そうか。……急がなければな」

 口の中で小さく呟きながら、レゼは長い髪を翻して踵を返した。歩く度に、足元でバキバキと大きな音がする。今更遠慮したところで罅割れが止まるわけでもないので、リヴィウィエラも遠慮なく後に続いて歩いた。石床の表面が罅割れて剥がれていく。仕方がないことだ。自然な現象だから、今は止めることが出来ない。けれども、必ず止めてやる。だから今は、見てみぬふりをするしかない。そう思っていたし、最近はだいぶ、慣れ始めてきてもいた。

 それでも、それが辛くないわけではないのだ。


「準備は出来ているのか?」

 不意に問われ、リヴィウィエラはしばらく思案した後、小さく頷いた。

「調整は終わってる。レゼは?」

「私はもう少しかかりそうだ。まあ、後は私一人でも出来ることだし。お前は先に脱出するといい」

「……脱出」

 リヴィウィエラが眉を顰めると、レゼはくつくつと笑いながら小さな頭を撫でた。彼女の肩に届くか届かないかというくらいの身長は、リヴィウィエラにしてみれば大変不本意なものである。どうせ肉の器が必要だというのならば、もう少ししっかりしたものでもよかったのではないだろうか。けれどもそう言ったところで、帰ってくる答えは同じなのだ。曰く、本質に従った器が最も適しているのだから、と。

「こう言いたくはないがね。でも、これは正直なところ大規模な脱出だろう。意地を張ってここにいて、私達まで罅にやられちゃしょうがない。それに……」

「……それに、どうしたって、第2位相には行かなきゃいけない」

 レゼの言葉を引き継ぐように、リヴィウィエラは小さく呟いた。

「……そう、私達は行かなきゃならない。だからまあ、単なる脱出というのはちょっと語弊があったな。訂正しよう。私達は戦う為に、今はここにはいられない」

「戦う、為に」

「そうだ、ただ黙って終焉を見ているつもりはない。戦う為に、今はひとまず退く。世界の為に、ラルクァの為に、きょうだいたちの為に」

 リヴィウィエラはじっと黙り込んだ。静かな空間に、足元の床が罅割れる音だけが響く。ぱきり、ぱきりと規則的に鳴るその音は、世界の終わる音だった。今はまだ、ただの小さな罅割れにしか見えない。けれどもこの罅は、やがてすべてを覆い尽くす。

「ま、今はそんなことよりも、どうやって向こうに馴染むかの方が懸案だけどな。先に行った連中がどうしてるのやら……。私は、第2位相に行ったことがないしなあ」

 からからと、わざと明るく笑うレゼに、リヴィウィエラも知らないうちに強張っていた頬を緩ませた。遅れがちになっていた歩調を早めて、少々勝ち誇った様子で言葉を返す。

「わたしは、ある。……一度だけだけど」

「おや、そうだったか。じゃあ、向こうのことはリヴィウィエラに聞けば安心だな」

「……え」

 思わぬ意趣返しに、リヴィウィエラは少し戸惑った。そう言われても、行ったのは一度きりで、しかもそう長く滞在したわけでもない。現地の生命体と直接触れ合ったわけでもないし、もっと正しく言うなら「見ていただけ」だ。それも、自発的に行ったわけではない。あの時は、単なる随伴だったのだから。

「……えっと、でも、随分昔だし。今は、結構変わってる、かも」

「あっはっは! なあに、気にすることないさ。それならそれで、一緒に考えながら頑張ろう。と言っても、私はまだもう少し時間がかかりそうだが……」

「大丈夫。一人でも、平気だから」

「そうか。それなら安心だ。……っと、そろそろだな」

 にっこりと笑みを浮かべて、レゼはその場に立ち止まった。リヴィウィエラも足を止めようとしたが、今自分が立っている場所に気づいて慌ててもう一歩を踏み出す。


 そこは一見、何もないように見える開けた空間だった。他の場所と同じように、白い石の床に、白い壁、白い天井。ただ、床の上には同心円状に溝が彫ってあり、そこに青い光を湛えた水が流れているのが、他とは違うところだった。そして、その場所が他と違うところが、もう一つ。

「流石は転位門だな。ここまでは、罅もまだ到達していないようだ」

<――そりゃあ、転位門ですから。ここがやられるようじゃ、いよいよもってこの世界、終わってしまいますからね>

 感心したように辺りを見回していたレゼの声に、被さるようにして別の声が降ってきた。けれどもその場にいるのは、同心円の内側にいるリヴィウィエラと、そこから少し離れた場所にいるレゼだけだ。声の主は、二人の内のどちらでもない。だが、二人は驚くような素振りは見せなかった。それが当たり前であるかのように、見えない声の主と会話を続ける。

「やあ、ゼア。仕事お疲れ様。そろそろ時間だろうと思って、リヴィウィエラを連れてきたんだが」

<はい、どうも。こちらの準備はすべて完了していますよ。リヴィウィエラも、もう準備はいいですか?>

「わたしは、大丈夫。持っていくものは、これしかないし」

 そう言って、リヴィウィエラは胸元に手を置くと、抱き締めるようにぎゅうっと自分の腕で包み込んだ。ゼアと呼ばれた見えない声の主は、それを確認して<ふむ>と呟く。

<じゃあ、ラルクァの胎動に合わせて転位門を開きますね。もう少し時間がありますけど……>

「ああ。……そうだ、ゼア。リヴィウィエラを送る前に、聞いておきたいことがあるんだが」

<はい、なんでしょ?>

 円の外で腕を組んだまま、レゼが小さく首を傾げる。リヴィウィエラは、周囲に流れるささやかな水の音にじっと耳を澄ませていた。他の場所では罅割れの音しか聞こえないのに、ここでは違う。水の音は、リヴィウィエラにとって、すべての命にとって、とてもやさしく、かなしい音だった。

「今の時点で、罅割れはどの程度まで進んでいるのかわかるか?」

<それは、当位相に限った話で? それとも、この世界全体でしょうか>

「もちろん、全体さ」

 レゼの返答に、声はしばし沈黙した。それが思案しているが為の沈黙なのだと、リヴィウィエラは聞くまでもなくわかっている。もちろんレゼもそうだ。他のきょうだいよりも、彼らはずっと近しいものだったから。

<……そうですね。完全崩壊状態のフェンダー侵食率を100%とすると、ここ……第1位相の侵食率が33%、裏側の第3位相の侵食率が48%、といったところでしょう>

「……やはり、だいぶ進んだな」

<まあ、仕方がないですね。でも、進行度自体は緩やかになっています。やっぱり、第2位相でのアリューラ討伐は効果が高いみたいですね>

「……第2位相は、まだ罅にはやられてない?」

 そう口を挟んだのは、リヴィウィエラだった。レゼは無言で天井を見上げ、ゼアの返答を待っている。姿なき声の主はしばらくの間沈黙していたが、ややあって重苦しい息を吐き出した。

<ううん……そうですねえ。なんとも言い難い感じです。状況的には侵食が始まっていてもおかしくはないのに、水際でどうにか留まってる、という感じで>

「侵食自体は、されていないのか」

<うーん……なんと言っていいのやら。割合としては、ゼロと言うほかないです。実際に現象として顕れていないわけですから。でも……>

「でも?」

 ゼアは困ったように、更に唸った。唸りつつ、時折独り言も交えつつ、なんとか結論を言葉にしようとする。

<んんー……どうなんでしょ。あんまり不正確なことは言いたくないんですが……拮抗してる、って感じです。第2位相のフェンダー侵食率はゼロ、なのは間違いないんですが。それは、侵食が及んでいないわけではなくて……そうですねえ。……誰かが、侵食を止めている、ような。……そんな感じがしますねえ>

「……誰かが……?」

 レゼがそう呟いた瞬間、突然床の中央に彫られていた一番小さな円が光を放った。光は溝を流れる水を伝って、外側に広がる同心円へと広がっていく。その内側に立つリヴィウィエラは驚いたように足元を見、次いで天井を見上げた。

「ゼア!」

<はいな! 時間ですね。ラルクァの胎動が始まりました。開きそうなのは……第5交界域ですね。それでは、そこから一番安定した座標に転位します。向こうの状況は、申し訳ない、ちょっとわかりにくいんですけど。まあ、事故ることはないと思いますから安心して!>

「……なんか、すごく不安なんだけど」

「心配するな。ゼアの腕の良さは知ってるだろう? それよりもリヴィウィエラ、向こうに着いたら……」

「着いたら、レゼが来るまで待つ。何か見つけても、独りで手出ししない。でしょ」

「ああ。なるべくわかりやすいところにいてくれよ。アスィカやエリスルなんかにも会いたいかもしれないが、合流するまでは待ってくれ」

「わかった。大丈夫。……レゼが来るまで、アークはわたしが守る」

 胸元を握り締めて、リヴィウィエラは強く頷いた。レゼもそれに笑顔を返し、光の強まっていく転位門から離れる。囀りに似た音で言葉を紡ぐゼアの声が、一際強く響き渡った。

<――認証を行います。リヴィウィエラ、コールを要求します>

「……了解。リヴィウィエラ=シェルル・リヴァ、コールを宣言する」

 光は最早、円の内側にいるリヴィウィエラにとっては、視界を灼く程のものになっていた。瞼をきつく閉じ、耳鳴りがする程の交界域の歪みを肌で感じながら、僅かに震える唇を開く。

「コール。これは命であり、盟約であり、希望である。存在する為の行動を母は咎めず、故に我は跳躍する」

<……ようし、コール掌握! 第5交界域、開きます。転位まで8秒、7、6、ご――……>

 今はもう目に見える程に歪んだ転位門の向こう、異なる位相の存在を感じながら、リヴィウィエラは右手で左の上腕をきつく掴んだ。大丈夫だ、だって一度、自分はあちらに行ったことがある。その時だって、何もなかった。だから今度も、大丈夫だ。器があるかないかの違いだけで、あの時と何も変わらない。

 たとえ、自分が――。






 その瞬間、大いなる水面を震わせる嘆きの悲鳴が響き渡った。







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