第十五章 小さな令嬢の冬祭り ― 灯火に集う人々
一 冬の終わりを告げる知らせ
北境の冬は、まだ深い雪の中にあった。
山々の頂には白銀の雪が幾重にも積もり、森の木々は枝という枝に雪を抱いている。朝になると、凍りついた窓の向こうから淡い光が差し込み、城館の屋根からは細い氷柱が幾本も垂れ下がっていた。
それでも、日差しにはわずかな変化があった。
真冬の頃に比べれば、昼の光は少し長くなり、風の冷たさにも、どこか春を待つ気配が混じり始めている。
アリアは窓辺に立ち、白く染まった中庭を眺めていた。
「ミーナ。雪は、いつ頃なくなるの?」
背後で衣服を整えていたミーナ・ベルは、手を止めて窓の外を見た。
「山の雪がすっかり消えるのは、まだ先でございますね。けれど、平地の雪は少しずつ融け始めるでしょう。川の水も増えてまいります」
「春が近づいているのね」
「はい。ただ、北境の春は気まぐれです。暖かくなったと思えば、また雪が降ることもございます」
ミーナはそう言って、アリアの肩に柔らかな上着を掛けた。
「春が来る前に、村では冬祭りが行われるそうですよ」
「冬祭り?」
「厳しい冬を皆で越えられたことを祝い、春を迎える準備を始めるためのお祭りです。大きな町ではありませんから、豪華な催しではございません。村の皆様が食べ物や手仕事の品を持ち寄り、火を囲んで過ごすのです」
「どんなものを食べるの?」
「豆の煮込みや干し肉、焼きたてのパン。それから、蜂蜜を使ったお菓子もございます」
その言葉に、アリアの表情がふっと明るくなった。
「蜂蜜のお菓子……」
「ええ。奥様もお好きでしたね」
ミーナの声が、ほんの少しだけ優しくなる。
アリアの母、エレノアは蜂蜜を使った焼き菓子を好んでいた。甘い香りが厨房から漂うと、幼いアリアは母のそばへ寄り、焼き上がるのを待ったものだった。
母が亡くなってから、もう二年が過ぎている。
それでも、蜂蜜の香りを思い浮かべると、母の手の温もりまで思い出される気がした。
「お母様も、冬祭りに行ったの?」
「はい。奥様は、領内の村々を訪ねることがお好きでした。お祭りでは、村の子供たちと一緒に歌を聞かれたり、焼き菓子を分け合ったりしておられましたよ」
「私も行ってみたい」
ミーナはアリアの顔を見つめ、微笑んだ。
「きっと、皆様もお喜びになると思います」
その日の昼前、アリアは父の執務室へ向かった。
エドガーは、窓際の机で書類を確認していた。机の上には村々から届いた報告書や、冬の備蓄に関する帳簿が広げられている。
「父様、冬祭りに行ってもいい?」
エドガーは顔を上げた。
「ミーナから聞いたのか」
「うん。村の皆が集まって、お料理を持ち寄るんでしょう?」
「そうだ。冬を越せたことを祝い、春を迎えるための祭りだな」
「私も皆と一緒にお祝いしたいの」
エドガーは娘の目を見た。
七歳のアリアにとって、領地の村々はまだ知らないことの多い場所だった。これまで何度か村を訪れてはいるが、村人たちが自分たちの暮らしの中でどのように季節を迎え、何を大切にしているのか、まだすべてを知っているわけではない。
「分かった。領内の祭りの予定を確認しよう。村の人々の負担にならないよう、訪問する場所も相談して決める」
「ありがとう、父様」
「ただし、冬の外出だ。防寒の準備を怠ってはいけないぞ」
「はい」
エドガーは娘の頭を優しく撫でた。
そのとき、執務室の扉が開いた。
「父上、祭りの準備についての報告をお持ちしました」
入ってきたのは長兄のアルベルトだった。十五歳の彼は、最近では父の執務に同席する機会も増え、領地の収支や村々の状況を学んでいる。
その後ろから、次兄のレオンも姿を見せた。
「僕も戻りました。北の砦での訓練は、予定どおり終わりました」
十三歳のレオンは、外套についた雪を払いながら、アリアに笑顔を向けた。
「アリア、冬祭りに行くのか?」
「うん。レオン兄様も一緒?」
「もちろん。せっかく帰ってきたんだからな」
兄の言葉に、アリアは嬉しそうに頷いた。
冬は、まだ終わってはいない。
けれど、城館の中には、春を迎える前の小さな喜びが芽生え始めていた。
二 村人たちが支える祭り
冬祭りが開かれるのは、ヴァルデン領北部の森と牧草地に囲まれた小さな村、リュンネヴィーク村だった。
村の人口は多くない。農家や牧畜を営む家族、森で木を伐る者、狩人、木工職人などが暮らしている。近隣の集落からも人々が集まるため、祭りの日には普段より賑やかになるという。
祭りの準備は、村人たち自身の手で進められていた。
広場の雪を踏み固め、中央には大きな焚き火を設ける場所が作られる。周囲には木の長椅子が並べられ、料理を置くための台も組まれていた。
家々からは、保存していた薪や乾燥した木材が少しずつ運ばれてくる。
「この木は、祭りの火に使うんだ」
そう話していたのは、木工職人のハインリヒ・シュタインヴェルクだった。五十歳を少し過ぎた、肩幅の広い男である。彼の家は代々この村で木工を営み、農具の柄や椅子、荷車の部材などを作ってきた。
「祭りの火は、村の皆で囲むものだからな。誰か一人が用意するんじゃない」
彼は若い男たちに木材の積み方を教えながら、笑っていた。
その隣では、妻のイルマ・シュタインヴェルクが、布を敷いた台の上に木製の器を並べている。
「こちらは料理を置く場所です。熱い鍋を直接置くと木が傷みますから、下に厚い板を敷いてくださいね」
「分かりました、イルマさん」
若い女性が返事をし、器の位置を整える。
村の人々は、祭りを楽しみにしている一方で、決して無理をしているわけではなかった。
冬を越したばかりの家々には、まだ余裕があるとは言えない。食料や薪を使いすぎれば、春の農作業が始まるまでの暮らしに響く。
そのため、祭りに持ち寄るものは、各家庭の事情に合わせて決められていた。
干し豆を少し分ける家もあれば、保存していた根菜を鍋に入れる家もある。狩人は冬の狩りで得た肉を持ち寄り、牧畜を営む家は乳製品を用意する。
手仕事が得意な者は、木の匙や編み籠、毛糸で作った手袋などを並べる。
どれも大きな贈り物ではない。
それでも、一つひとつに人々の暮らしが込められていた。
「皆で少しずつ持ち寄るのね」
アリアは、ミーナと一緒に準備の様子を見ながら呟いた。
「はい。誰かに負担が偏らないよう、村の方々が相談して決めておられるのでしょう」
「お金を出して買うお祭りとは違うんだ」
「そうですね。もちろん、材料を買うこともありますが、できるだけ普段の暮らしの中で用意できるものを使うのです」
アリアは広場を見回した。
大きな建物も、華やかな飾りもない。
けれど、そこには人々が互いを気遣い、できることを持ち寄る姿があった。
「こういうお祭りも、素敵ね」
ミーナは、アリアの言葉に穏やかに頷いた。
「ええ。人々が無理なく続けられることが、一番大切なのだと思います」
三 冬の恵みを分け合う食卓
昼を過ぎると、広場の料理台に少しずつ食べ物が並び始めた。
大きな鍋では、豆と根菜を煮込んだ料理が温められている。塩漬けにした肉からは、長い時間をかけて煮出された旨味が溶け込み、香草の香りが湯気とともに立ち上っていた。
別の鍋には、乾燥させた茸と麦を入れた汁物が用意されている。
保存していた野菜は、冬の間に水分が抜けているものもあったが、煮込めば柔らかくなり、食卓を彩る大切な食材になる。
狩人たちが持ち寄った燻製肉は、薄く切られて木皿に盛られていた。
焼きたてのパンもある。
小麦を多く使った白いパンは少なかったが、大麦やライ麦を混ぜた素朴なパンが、籠いっぱいに並んでいた。
「いい匂い!」
アリアは、料理台の前で思わず声を上げた。
「お嬢様、まだ熱いですから、お気をつけくださいね」
ミーナが注意する。
「分かっているわ」
「本当に分かっていらっしゃいますか?」
「……少しだけ」
アリアが小さく笑うと、ミーナも笑みをこぼした。
村の女性が、木の匙を添えた器を差し出してくれた。
「アリア様、こちらは豆と根菜の煮込みです。よろしければ召し上がってください」
「ありがとう。いただきます」
器を受け取ると、アリアは湯気を吹き冷ましながら、ひと口食べた。
豆は柔らかく、根菜には甘みがある。塩漬け肉の風味が全体に広がり、身体の奥まで温めてくれるようだった。
「おいしい!」
「それはよかったです」
女性は嬉しそうに頭を下げた。
「この豆は、夏に収穫したものなの?」
「はい。よく乾かして、冬のために残しておいたものです。去年は雨が多くて、収穫が少なかったでしょう。だから、今年はいつもより気をつけて使いました」
その言葉に、アリアは器を持つ手を止めた。
昨年の長雨によって、領地全体の収穫は平年より少なかった。冬の備蓄も、種として残す分を差し引けば、決して豊富とは言えない。
村人たちが祭りのために食料を用意できたのは、日々の暮らしを考えながら、少しずつ準備してきたからなのだろう。
「大切な食べ物を、分けてくれてありがとう」
アリアがそう言うと、女性は少し驚いたように目を瞬かせた。
やがて、柔らかく微笑む。
「こちらこそ、食べていただけて嬉しいです。皆で作ったものですから」
少し離れた場所では、アルベルトが村長や年長の村人たちと話をしていた。
「祭りのために、備蓄を余分に使うことはなかったのですね」
「はい。家々で無理のない範囲を決めました。領からの支援を受けている家もありますので、そうした家には持ち寄りを求めておりません」
「それは大切なことですね。誰もが同じだけ出せるわけではありませんから」
アルベルトは、村人たちの話を聞きながら、手にした帳面に簡単な記録を残した。
祭りは楽しい催しである。
しかし、そこにも食料の管理や人々の事情への配慮がある。
領主家の後継者として、彼はそのことを少しずつ学んでいた。
一方、レオンは村の若者たちに囲まれ、冬の砦での訓練について話していた。
「雪の上では、足の置き方を間違えると転ぶんだ。坂道では特に気をつけないといけない」
「レオン様でも転ぶことがあるのですか?」
「ああ。何度もな」
若者たちが笑う。
「転んで覚えることもある。だが、崖の近くでは絶対に無理をするな。滑ったら、笑い話では済まないからな」
その言葉には、北境で訓練を重ねた少年らしい実感があった。
四 火を囲む歌と昔語り
日が傾き始めると、広場の中央に組まれた薪に火が灯された。
乾いた木がぱちぱちと音を立て、炎がゆっくりと大きくなる。
冬の夕暮れは早い。
山の向こうへ太陽が沈むと、空は淡い紫色から深い藍色へと変わり、雪に覆われた家々の輪郭が夜の中に溶け込んでいった。
それでも、広場には温かな光が満ちていた。
人々は火の周りに集まり、子供たちは少し離れた場所で雪を丸めたり、木の玩具を動かしたりして遊んでいる。
やがて、村の老人が小さな弦楽器を手にした。
「昔、この村にまだ大きな家もなかった頃の話をしようか」
老人の名は、オルヴァル・ニルセン。
七十歳を越えた彼は、若い頃には森で木を伐り、山道を歩いて暮らしていたという。今は村の若者たちに昔の道や森のことを伝えている。
「ずっと昔、冬が長く続いた年があった。雪は春になっても消えず、森の獣たちも姿を見せなかったそうだ」
子供たちは、老人の声に耳を傾ける。
「そのとき、村の人々はどうしたの?」
小さな男の子が尋ねた。
「持っている食べ物を、皆で分けたそうだ。薪も、家ごとに囲い込まず、病人や年寄りの家へ運んだ。誰かが倒れれば、別の誰かがその仕事を引き受けた」
老人は火を見つめた。
「冬は、一人で越えるには厳しい。だから昔の人々は、互いの火を絶やさないようにしたんだ」
「それで、春になったの?」
「そうだ。春は来た。けれど、春が来るまでに、皆で助け合ったことを忘れないために、こうして火を囲むようになったと言われている」
アリアは、老人の話を聞きながら、火の向こうにいる人々を見つめた。
この村の冬祭りは、ただ寒さを忘れるためのものではない。
誰かの助けがあったからこそ、今日まで暮らしをつないでこられた。そのことを確かめ合う時間なのだろう。
やがて、老人が弦を弾き始めた。
低く穏やかな旋律が、夜の空気に流れていく。
村の女性たちが歌を重ね、若者たちが手拍子を添えた。
歌詞は、山を越える風や、春を待つ草花、雪の下で眠る種のことを歌っていた。
アリアには、すべての言葉を理解できたわけではない。
それでも、旋律の中に込められた願いは伝わってきた。
寒い冬を越え、また皆で春を迎えたい。
それは、どの時代の人々にも共通する願いなのかもしれなかった。
五 蜂蜜の香りに蘇る母の記憶
祭りの料理がひと段落した頃、ミーナがアリアのそばへやってきた。
「お嬢様。そろそろ、あちらをご覧になってはいかがでしょう」
彼女が指し示した先には、小さな菓子台があった。
木の皿には、丸い焼き菓子がいくつも並べられている。表面には蜂蜜が薄く塗られ、火の明かりを受けて、淡い黄金色に輝いていた。
アリアは、思わず足を止めた。
「蜂蜜のお菓子……」
「村の方が焼いてくださったそうです。奥様がお好きだったものに、少し似ておりますね」
ミーナの声に、アリアは菓子を見つめた。
母エレノアが焼いてくれた蜂蜜菓子。
焼き上がるまで厨房の片隅で待ち、母が生地を混ぜる様子を眺めていたこと。焼きたての菓子を小さな皿に載せてもらい、熱いから気をつけるように言われたこと。
記憶の中の母は、いつも優しく微笑んでいた。
「お母様も、こういうお菓子を作っていたわ」
「はい。奥様は、蜂蜜を入れる量を少しずつ変えて、味を確かめておられました」
「私にも教えてくれた?」
「ええ。お嬢様がまだ小さかった頃、焼く前の生地を少しだけ分けてくださったことがありました」
ミーナは懐かしそうに目を細めた。
「お嬢様は、その生地を丸めるのがお好きでしたね。手にくっついてしまって、何度も洗いに行かれたものです」
「覚えているような、覚えていないような……」
アリアは小さく笑った。
母と過ごした時間は、幼い頃の記憶の奥にある。
前世の記憶を持つアリアにとって、今の人生の思い出は、ときに遠く感じられることもあった。それでも、母の声や手の温もりは、確かに自分の中に残っていた。
「ミーナは、お母様のことをよく覚えているのね」
「はい。奥様には、たくさんのことを教えていただきましたから」
ミーナは、菓子を一つ手に取った。
「お嬢様が寂しい思いをなさらないように、私にできることをしてほしいと、奥様から頼まれていたのです」
「そうだったの?」
「ええ。けれど、私は奥様の代わりにはなれません。ですから、私にできることを、毎日少しずつ続けてまいりました」
ミーナは菓子を皿に載せ、アリアへ差し出した。
「どうぞ。まずは召し上がってみてください」
アリアは両手で皿を受け取った。
ひと口かじる。
表面の蜂蜜はほのかに甘く、焼き菓子の中には穀物の香ばしさが残っていた。母の作ったものとは少し違う。それでも、どこか懐かしい味がした。
「おいしい」
「よかったですね」
「ねえ、ミーナ。今度、一緒に作ってくれる?」
「もちろんでございます。奥様が作っておられたものに近づけられるか、試してみましょう」
「私も手伝うわ」
「では、生地を丸めるところからお願いいたしますね」
「今度は、手にくっつけないようにするわ」
「それは楽しみでございます」
二人は顔を見合わせて笑った。
アリアは、母を思い出すことが悲しいだけではないと、少しずつ感じ始めていた。
思い出は、今を生きる人々との時間の中にも残していける。
そう思うと、胸の奥が温かくなった。
六 小さな贈り物、大きな感謝
祭りの広場では、子供たちが手作りの品を並べていた。
木の実を糸でつないだ飾り、木片を削って作った小さな動物、色の異なる毛糸を編んだ紐。どれも不揃いで、形も決して整ってはいない。
けれど、作った子供たちの表情には誇らしさがあった。
「アリア様、こちらをご覧ください」
声をかけてきたのは、十歳ほどの少女だった。
彼女の名は、エリン・スヴェンソン。父親は牧畜を営み、母親は毛糸を紡いでいるという。
少女の手には、白い毛糸で編まれた小さな狼があった。
「これは、狼なの?」
「はい。ヴァルデン家の紋章にある銀の狼を作ってみました。少し形が変になってしまいましたけれど」
エリンは、恥ずかしそうに狼の耳を直した。
「お嬢様に差し上げようと思って、母と一緒に作ったのです」
「私に?」
「はい。いつも父が、ヴァルデン家の方々が北境を守ってくださっていると話しています。だから、ありがとうの気持ちを込めました」
アリアは、小さな狼を両手で受け取った。
毛糸の編み目は少し不揃いで、片方の耳がわずかに傾いている。
それでも、丁寧に作られたことはよく分かった。
「ありがとう。とてもかわいいわ」
「本当ですか?」
「ええ。大切にするね」
エリンの顔が、ぱっと明るくなった。
その様子を見ていたレオンが、そっと近づいてきた。
「アリア、いいものをもらったな」
「うん。銀の狼よ」
「よくできている。俺の分も作ってもらえばよかったな」
「レオン兄様も欲しいの?」
「もちろんだ。俺だってヴァルデン家の一員だからな」
レオンが冗談めかして言うと、エリンは少し考えた後、顔を上げた。
「それなら、今度は騎士の狼を作ります」
「騎士の狼か。楽しみにしているよ」
アリアは、二人のやり取りを見ながら微笑んだ。
やがて、アルベルトも村人たちとの話を終えて戻ってきた。
「アリア、何をもらったんだ?」
「銀の狼よ。エリンが作ってくれたの」
「そうか。大切にしないとな」
アルベルトは、妹の手にある小さな編み物を見つめた。
「贈り物は、値段ではなく、込められた気持ちを大切にするものだ。そう教わったことがある」
「父様に?」
「いや。母上にだよ」
その言葉に、アリアは兄を見上げた。
アルベルトも、母エレノアとの思い出を持っている。
兄妹で同じ母を思い出しているのだと気づくと、アリアの胸に、静かな親しみが広がった。
「母上は、よく人の手仕事を褒めておられた。村で作られたものを見つけると、誰が作ったのか尋ねていたよ」
「お母様らしいわね」
「そうだな」
アルベルトは、穏やかに微笑んだ。
その後、エドガーも村人たちの輪に加わった。
領主として大きな挨拶をすることはなかった。村の年長者に声をかけ、冬の暮らしに困ったことはなかったか、春に向けて何が必要になるかを尋ねていた。
「薪の備蓄は足りていますか」
「はい。今のところは問題ありません。ただ、春先の道がぬかるむと、荷車が通りにくくなります」
「分かりました。雪解けの後に道の状態を確認させましょう」
「ありがとうございます」
領主と村人の間には、身分の違いがある。
しかし、こうして話を交わし、必要なことを確かめ合わなければ、領地を守ることはできない。
アリアは父の姿を見ながら、村人たちが贈り物に込めた感謝と、父が領民に向ける責任の意味を考えていた。
七 銀の狼が見守る夜
夜が更けるにつれ、祭りの広場には静けさが戻り始めた。
子供たちは家族に連れられて帰り、年長の者たちも、翌日の仕事に備えて少しずつ席を立っていく。
焚き火はまだ赤々と燃えていたが、薪の量は減り、炎も穏やかになっていた。
アリアは、エリンからもらった小さな毛糸の狼を胸元に抱いていた。
「楽しかった?」
隣に座ったエドガーが尋ねる。
「うん。おいしいものも食べたし、歌も聞いたし、かわいい狼ももらったわ」
「それはよかった」
「父様。冬祭りは、どうして毎年するの?」
エドガーは火を見つめた。
「冬を越えられたことを喜ぶためでもあるが、それだけではない。冬の間に助け合ったことを忘れないためでもあるのだろう」
「昔から?」
「村によって違うが、似たような習慣は古くからある。厳しい冬を一人で越えるのは難しい。だから人々は、家族や隣人と力を合わせてきた」
「ヴァルデン家も、皆を守るのね」
「そうだ。だが、我々だけで守っているわけではない」
エドガーは、広場の周囲を見回した。
「領地を守るのは、騎士や兵士だけではない。農民が作物を育て、職人が道具を作り、商人が物を運び、村人たちが互いを助ける。そうした人々の営みがあって、初めて領地は成り立つ」
アリアは、父の言葉を静かに聞いていた。
「銀の狼の紋章には、仲間と支え合う意味があるのだったわね」
「よく覚えていたな」
「一匹だけではなく、群れで生きるから?」
「そうだ。狼は仲間を守り、仲間に守られながら生きる。ヴァルデン家も同じだ。領主が領民を守るだけではない。領民の暮らしがあってこそ、我々もこの地を守り続けられる」
アリアは、小さな毛糸の狼を見つめた。
その耳は少し曲がっている。
けれど、作った少女の思いが込められていた。
「私も、皆のことをもっと知りたい」
「その気持ちは大切にしなさい。だが、知ることと、何かを変えることは違う。人々の暮らしには、それぞれの事情がある。よく話を聞き、考え、必要ならば時間をかけることだ」
「うん」
「アリアはまだ学んでいる途中だ。焦らなくていい」
エドガーの手が、娘の肩にそっと置かれた。
その向こうでは、アルベルトとレオンが村の若者たちに別れを告げていた。
アルベルトは、今日聞いた話を忘れないようにしようとしているのだろう。レオンは、次に砦へ戻ったときに村の若者たちへ話せることを考えているようだった。
兄たちもまた、それぞれの場所で成長していく。
アリアは、家族と村人たちの姿を見つめながら、静かに息を吐いた。
冬の夜空には、無数の星が輝いていた。
雪に覆われた大地は冷たい。
けれど、人々が集まる場所には、確かな温もりがあった。
八 春を待つ小さな願い
城館へ戻る馬車の中で、アリアは膝の上に小さな毛糸の狼を載せていた。
窓の外には、夜の雪原が広がっている。
遠くの村々では、まだ祭りの火が残っているのだろう。雪に反射する淡い光が、ところどころに小さく見えていた。
「アリア、眠くないか?」
向かいに座るレオンが尋ねた。
「少しだけ。でも、まだ起きていたいわ」
「今日はずいぶん楽しそうだったな」
「うん。レオン兄様も楽しそうだったわ」
「村の若者たちと話すのは面白かった。砦での訓練とは違うことも多いからな」
「どんなこと?」
「皆、それぞれ仕事を持っている。森で働く者もいれば、家畜を育てる者もいる。騎士になることだけが、村を守る方法ではないんだ」
レオンは窓の外を見た。
「俺は騎士になりたい。けれど、騎士になった後も、守るべき人たちの暮らしを知らなければならないんだと思った」
「レオン兄様なら、きっといい騎士になれるわ」
「そう簡単にはいかないさ。まだ覚えることがたくさんある」
その言葉に、隣のアルベルトが微笑んだ。
「それは僕も同じだよ。領地の帳簿を見ているだけでは、村の暮らしは分からない。今日の話を聞いて、改めてそう思った」
「アルベルト兄様も?」
「ああ。数字には表れないこともある。誰が困っているのか、どの家に余裕があるのか、村の人々が何を心配しているのか。帳簿だけで判断してはいけないね」
アリアは兄たちの言葉を聞きながら、今日見た光景を思い返した。
料理を持ち寄る人々。
歌を奏でる老人。
小さな狼を編んでくれた少女。
そして、互いの暮らしを気遣いながら冬を越してきた村人たち。
領地というものは、地図に描かれた境界線だけではない。
そこには、一人ひとりの生活がある。
家族があり、仕事があり、喜びがあり、ときには悲しみもある。
それらすべてが集まって、ヴァルデン領という一つの土地を形作っているのだ。
「私も、もっと勉強するわ」
アリアが言った。
「何を勉強したいんだ?」
アルベルトが尋ねる。
「いろいろ。村のことも、畑のことも、森のことも。魔石や魔道具のことも知りたい」
「ずいぶん多いな」
レオンが笑った。
「それに、春になったら川も見たいし、畑にも行ってみたいの」
「では、春の仕事が始まったら、父上に相談してみよう」
アルベルトがそう答えると、アリアは嬉しそうに頷いた。
やがて馬車は、雪に覆われた城館の門をくぐった。
玄関では、セバスチャン・ヴァルケンが帰りを待っていた。
「お帰りなさいませ、皆様。お疲れになったことでしょう」
「ただいま、セバスチャン」
アリアは馬車から降りると、抱えていた毛糸の狼を見せた。
「見て。村の女の子が作ってくれたの」
「それは見事な贈り物でございますね」
セバスチャンは、少し傾いた狼の耳を眺め、穏やかに目を細めた。
「大切になさってください。心のこもった贈り物は、何にも代えがたいものでございます」
「うん。私の部屋に飾るわ」
その夜、アリアは寝室の小さな棚に毛糸の狼を置いた。
窓の外では、雪が静かに降り続いている。
母エレノアの肖像画に目を向けると、アリアは小さく微笑んだ。
「お母様。今日、村のお祭りに行ってきたの。皆、とても優しかったわ」
返事はない。
けれど、母が好きだった蜂蜜の香りと、祭りの火を囲む人々の笑顔が、アリアの心の中に温かく残っていた。
彼女は毛布に包まり、目を閉じた。
冬は、まだ完全には終わっていない。
北の山々には雪が残り、森の奥には厳しい寒さが続いている。雪解けの水が川を満たすまでには、もう少し時間が必要だろう。
それでも、季節は確かに動いている。
雪の下では、春を待つ草木が眠り、土の中では新しい命が目覚める時を待っていた。
そして、ヴァルデン領の人々もまた、それぞれの暮らしの中で春を迎える準備を始めていた。
アリアの小さな部屋には、夜の静けさが満ちていく。
棚の上では、毛糸の銀狼が、まるで家族を見守るように静かに座っていた。




