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千億の財産目当てで従弟と手を組み、私を『死んだ犬』と罵る悪妻

作者: 熾星
掲載日:2026/06/29

 


 プロローグ



 匿名掲示板を眺めていたとき、ありふれたタイトルの投稿が目に入った。


「もし、あなたのパートナーが突然寝たきりになって、一生介護が必要になったら、面倒を見られますか?」


 その下にあった一つの回答を読んだ瞬間、僕の指は止まった。


「見られますよ。だって、それが今の私の楽しみなんです。夫は自分が本当に麻痺し始めていると思っていますけど、実は私が毎晩ホットミルクに少しずつ混ぜているんです。罪悪感から、夫は高額な生命保険の受取人を私に変更してくれました。完全に動けなくなったら、あとはちょっとした事故に見せかければいい。誰にも疑われませんよ。今、介護しているのは病人じゃありません。これから先、一生困らずに暮らすための切符です。そう思えば、少しもつらくありません」


 僕はその数行を見つめたまま、指先が冷たくなっていくのを感じた。


 すぐにそのアカウントのページを開いた。いったいどんな人間なら、夫を殺そうとしていることを日常の愚痴みたいに書けるのか、確かめたかった。


 けれど、そこで見つけたものは、僕の想像をはるかに超えていた。


 その投稿で夫への加害を誇らしげに語っていた人物は、僕の妻だった。


 そして僕は、毎晩その妻が差し出すホットミルクを飲んでいた。



 1.完璧な妻の仮面


 その瞬間、体中の血が静かに冷えていった。


 スマートフォンの光が顔に落ち、目の奥が痛む。ユーザー名は「てるてる坊主」。プロフィールには生活写真がいくつも載っていた。ほとんどの写真には加工が入っていたが、僕にはすぐにわかった。


 ある写真に写っていた男性用の腕時計は、僕が先月買ったばかりのパテック・フィリップだった。別の写真に半分だけ写り込んでいた男の顎には、小さなほくろがあった。僕と同じ場所にあるものだ。


 決定的だったのは、あのマグカップだった。


 縁に細い欠けがある白いカップ。昨日、莉乃が洗い物をしているときにぶつけてしまったものだ。彼女はそのとき僕の腕に甘えるようにしがみつき、必ず新しいものを買うと言った。


 僕は笑って、こう答えていた。


「莉乃が淹れてくれるミルクなら、どんなカップでも甘く感じるよ」


 今思い返すと、吐き気がするほど愚かな言葉だった。


 僕は久我怜央。三十歳。東京で投資会社を立ち上げ、久我家の事業の一部も引き継いでいる。外では「久我社長」と呼ばれ、冷静で、判断が早く、近寄りがたい人間だと思われている。


 けれど家では、ただの妻に甘い夫だった。


 久我莉乃――旧姓は白石。大学の後輩だった彼女は、清楚で、声が柔らかく、人前で何かを奪いにいくようなタイプには見えなかった。結婚して三年、莉乃は完璧な妻を演じ続けていた。


 弁当を作り、僕が残業で疲れて帰る日には必ず起きて待っていた。そして毎晩、寝る前にホットミルクを差し出した。


「よく眠れるから」


 僕はそれを、愛情だと思っていた。


 けれど本当は、あれは彼女が僕に差し出していた毒だった。



 2.書斎に運ばれてきたホットミルク


 僕はスマートフォンを伏せた。


 指先はまだわずかに震えていた。怖かったからではない。怒りで、身体の奥が冷え切っていた。


 やがて、廊下から小さな足音が聞こえた。莉乃が扉を開けて入ってくる。手には見慣れたトレー。白いマグカップから湯気が立ち、甘ったるいミルクの匂いが書斎に広がった。


「怜央、まだ仕事? ミルク飲んで、今日はもう休んだほうがいいよ」


 その声はいつもどおり優しかった。顔には、かつて僕が何より好きだった穏やかな笑みが浮かんでいる。


 あの投稿を見ていなければ、僕はきっと、今日も彼女を天使みたいに思っていた。


 今は違う。人の皮をかぶった何かにしか見えなかった。


 僕は何事もなかったようにスマートフォンの画面を消し、顔を上げた。できるだけ普段どおりの声を出す。


「今日は少し遅かったね」


 莉乃は机のそばまで来て、カップを置いた。それから何気ない仕草で僕の肩を揉む。


「さっき匿名掲示板を見てたの。面白い投稿があって、つい読み込んじゃった。ごめんね」


 面白い投稿。


 それは、僕を寝たきりにしていく過程を他人に語ることか。それとも、知らない誰かと一緒に、夫が壊れていくのを笑うことか。


 僕はカップを手に取った。陶器越しに伝わる温度は温かいはずなのに、掌に刺さるようだった。


 莉乃は僕の横に立ったまま、カップの縁をじっと見つめている。


 以前なら、僕はその視線を心配だと思った。今ならわかる。あれは期待だ。獲物が罠にかかる瞬間を待つ猟師の目だった。


「どうしたの? 冷めたらおいしくなくなるよ」


 莉乃がやわらかく促す。肩に置かれた指先に、ほんの少し力がこもった。


 僕は目を伏せ、心の中で冷たく笑った。


 ここ半年、確かに体調は悪かった。疲労感が抜けず、眠気が異常に強い。ときどき足がつり、指先に力が入らないこともあった。


 病院で検査をしても、大きな異常は見つからなかった。医師には、過労とストレスが原因だろう、しばらく休むようにと言われただけだった。


 本当の原因は、ここにあったのだ。



 3.一杯目は割れ、二杯目は拒めない


 僕はカップを持ち上げ、ゆっくり口元へ近づけた。


 莉乃の呼吸が、一瞬だけ止まった。


 唇がミルクに触れそうになったところで、僕は手首の力を抜いた。カップは床に落ち、鋭い音を立てて砕ける。白い液体が床に飛び散り、莉乃のスカートの裾にもかかった。


「きゃっ」


 莉乃が一歩後ろへ下がる。


 僕は疲れ切ったように椅子の背にもたれ、自分の右手を見下ろした。それから、かすかに指を動かす。


「ごめん。手が滑った。最近、指に力が入らなくて……本当に疲れてるのかもしれない」


 莉乃の目に、一瞬だけ苛立ちが走った。


 けれどそれはすぐに押し殺される。彼女はしゃがみ込み、床の破片を拾い始めた。


「大丈夫。もう一杯温めてくるね」


「いいよ。もう遅いし、今日は飲まない」


 破片を拾う手が止まった。


 莉乃が顔を上げる。その目の奥に、冷たいものがかすかに光った。


「だめだよ、怜央。ミルクを飲まないと、また眠れなくなるでしょ」


 彼女は立ち上がり、ぞっとするほど優しい笑みを浮かべた。


「すぐ作ってくるから。ね、いい子にしてて」


 その背中を見送りながら、僕は静かに拳を握りしめた。


 そこまで飲ませたいのなら、今夜の一杯には相当な量が入っているのだろう。


 二杯目のホットミルクは、すぐに戻ってきた。


 今度の莉乃は、カップを机に置かなかった。僕の口元まで直接運んでくる。笑顔だけ見れば、夫を気遣う献身的な妻そのものだった。


「はい、私が飲ませてあげる。さっきみたいに落としたら、火傷しちゃうかもしれないから」


 ここで拒めば、彼女は必ず不審に思う。僕にはまだ証拠が足りない。今、騒ぎを起こすわけにはいかなかった。


 僕はカップの中の白い液体を見つめ、口を開けた。


 ひと口、飲み込む。


 莉乃の目が、わずかに輝いた。


 僕は吐き気をこらえながら、さらに数口飲んだ。そして咳き込むふりをして、口の中に残した分を掌のハンカチに吐き出した。


 そのハンカチは、莉乃がミルクを作り直しに行った隙に用意しておいたものだ。


「もういい。これ以上は飲めない」


 僕は彼女の手をそっと押し返した。


 莉乃は満足げにカップを置き、ティッシュを取って僕の口元を拭った。


「えらいね」


 その声は、夫に向けるものではなかった。


 ようやく言うことを聞いた犬を褒める声だった。



 4.半分は本当、半分は演技


 僕はベッドに横になり、眠ったふりをした。


 莉乃は洗面を終えると、僕の隣に入ってきた。けれどすぐには寝ない。布団の中でスマートフォンを取り出す。


 僕はほんの少しだけ目を開けた。画面の光が、彼女の整った顔を照らしている。その目には、歪んだ高揚が浮かんでいた。


 匿名掲示板のあの投稿に、新しい返信が追加されていた。


「今日は彼、危うくミルクをこぼしそうになったんです。でも最後はちゃんと飲みました。どんどん弱っていく姿を見ると、本当に興奮します。この調子なら、完全に動けなくなるのもすぐですね」


 胸の奥が凍りついた。


 莉乃にとって、僕はもう夫ではない。彼女が金と自由を手に入れるための足場でしかなかった。


 翌朝、僕は強い脱力感で目を覚ました。


 寝返りを打とうとしても、手足がひどく重い。これはすべて演技ではなかった。昨夜のミルクは全量ではなかったにせよ、少しは身体に入ってしまった。


 その作用は、僕の想像以上だった。


 莉乃はすでに起きて、ドレッサーの前で化粧をしていた。僕が目を開けたのに気づくと、口紅を置いてベッドに近づいてくる。


「怜央、起きて。今日は午前中に取締役会があるんじゃなかった?」


 僕は足を動かそうとした。


 力が入らない。


「莉乃……体が、動かない」


 かすれた声に、ちょうどいい恐怖を混ぜた。七割は演技だった。けれど三割は本物だ。


「動かないって、どういうこと? 昨日、無理しすぎたのかな」


 莉乃は驚いた顔をした。けれどその目の奥には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。


 彼女は布団をめくり、僕の太ももを強くつねった。


 痛い。


 けれど僕は、何の反応もしなかった。


「感じないの?」


「少ししびれてる。力が入らないんだ」


 莉乃は口元を押さえ、すぐに取り乱したような表情を作った。


「どうしよう、怜央。怖いよ。すぐ救急車を呼ぶね」



 5.外とのつながりを断たれる


 莉乃はスマートフォンを手に取り、画面を何度かタップした。


 けれど僕にはわかっていた。彼女はどこにも電話をかけていない。


 しばらくして、莉乃はスマートフォンを下ろした。泣きそうな声を出す。


「怜央、救急の電話が全然つながらないの。どうしよう」


「田村に……連絡して」


 僕は苦しげに言葉を絞り出した。


 田村は僕専属の運転手で、長年そばにいてくれた人間だ。


「わかった。すぐ電話する」


 莉乃は寝室を出ていった。


 廊下で、彼女が声をひそめて電話するのが聞こえた。


「田村さん、怜央が今日は体調を崩していて、会社には行けません。ええ、来なくて大丈夫です。私がついていますから」


 胸が沈んだ。


 莉乃は助けを呼んでいるのではない。僕と外の世界を切り離している。


 しばらくして戻ってきた莉乃は、手に粥の入った碗を持っていた。


「怜央、田村さんは車の調子が悪いみたい。少し時間がかかるって。先に何か食べて。落ち着いたら、私が病院に連れていくから」


 彼女はベッドの端に腰かけ、粥をひとさじすくう。息を吹きかけてから、僕の口元へ運んだ。


「ほら、口を開けて」


 僕は碗を見つめたまま、固く口を閉じて首を横に振った。


「いらない……病院に行きたい」


 莉乃の笑みが薄くなった。


「食べないと病院にも行けないでしょ。いいから、少しだけ」


 彼女はスプーンを無理やり僕の口に押し込んだ。


 粥は熱かった。思わず顔をしかめ、吐き出しそうになる。



 6.剥がれた本性


 その瞬間、莉乃の手が飛んだ。


 乾いた音が寝室に響き、僕の顔は横を向いた。あまりに突然のことで、しばらく反応できなかった。


 結婚して三年、莉乃が僕の前でここまで感情をむき出しにしたことはなかった。大きな声すら、ほとんど出したことがない。


 莉乃自身も、自分の本性が表に出たことに気づいたのだろう。すぐに痛ましげな顔に戻り、僕の頬をそっと撫でた。


「ごめんね、怜央。私、焦ってしまって……お願いだから、言うことを聞いて。これを食べたら、ちゃんと病院に行こう」


 その目には、病的な執着が宿っていた。


 僕が食べなければ、彼女は諦めない。


 僕は屈辱を飲み込み、粥を口にした。


 食べ終える頃には、身体の脱力感はさらに強くなっていた。まぶたが重く、意識が少しずつ遠のいていく。


 完全に眠りに落ちる直前、莉乃の笑い声が聞こえた。


「本当に、いい子」


 次に目を覚ましたとき、外はもう暗かった。


 部屋には薄暗いスタンドライトだけがついている。僕はベッドに横たわったまま、自分の体がほとんど自分のものではないように感じた。


 眼球は動く。首もわずかに動かせる。けれど四肢は鉛のように重く、まともに力が入らなかった。


 莉乃はそばのソファに座っていた。手には赤ワインのグラス。誰かとビデオ通話をしている。


「本当に? 完全に動けないのか?」


 スマートフォンから聞こえてきた男の声には、聞き覚えがあった。


 莉乃はグラスを軽く揺らし、楽しそうに笑う。


「ええ。泥みたいにベッドに沈んでる。さっき試したけど、どんな刺激にも反応しなかったわ」


「さすがだな、莉乃」


「私たちの未来のためだもの。これくらい、どうってことない」


 莉乃は画面に向かって、軽くキスを投げた。


「薬はまだ続けるの?」


「もちろん。完全に寝たきりにしないと意味がない。医者のほうは手配してある。明日、個人クリニックに連れていって、神経系の異常と長期療養が必要だという診断書を書かせる。そうすれば、会社は俺たちのものだ」



 7.従弟の正体


 その声を、僕はようやくはっきり思い出した。


 久我将吾。


 僕の従弟で、家族の反対を押し切って会社に入れた人間だ。僕が手を引き、取締役兼執行役員にまで引き上げた。


 信じていた妻と、目をかけていた従弟。


 二人はとっくに手を組み、僕を地獄へ突き落とそうとしていた。


 僕は莉乃の背中を睨みつけた。


「そういえば、起きてるみたいだぞ」


 画面の向こうで、将吾がそう言った。


 莉乃が振り返る。僕と目が合った。


 彼女は通話を切らなかった。むしろスマートフォンを持ったまま、ベッドのそばまで歩いてくる。


「怜央、起きたの?」


 莉乃はカメラを僕に向けた。画面の中で、将吾が面白がるように笑っている。


「よお、怜央さん。気分はどうだ?」


 僕は口を開こうとした。


 けれど声が出ない。喉がひどく渇き、何かで塞がれているようだった。


 莉乃が笑いながら、僕の頬を軽く叩いた。


「何か言いたいの? 残念。今のあなたじゃ、まともに話すこともできないわね」


 彼女はスマートフォンをベッドサイドテーブルに立て、将吾から僕の姿がよく見えるようにした。


 それから彼女は、将吾の見ている前で僕の布団をめくった。顔には露骨な嫌悪が浮かんでいる。


「見て、将吾。今の怜央、笑えるでしょう? 昔は自分が特別だと思ってたのよ。東京中が自分の顔色をうかがっているみたいな顔をして。今はどう? ベッドの上で死にかけの犬みたい」


 将吾が画面の中で大笑いした。


「莉乃さん、怜央さんの世話はちゃんとしてくれよ。あの人の株と資産、まだ全部はこっちに移ってないからな」


「安心して。生かしておくわ」


 莉乃は身をかがめ、僕の耳元で囁いた。


「怜央、知ってる? あなたに抱かれているとき、私が考えていたのはいつも将吾のことだった。あなたって退屈なの。真面目で、重くて、お金を稼ぐことしかできない機械みたい。これでやっと、触られずに済む」



 8.死より耐えがたい屈辱


 怒りで全身が震えた。


 けれど指一本、持ち上げることができない。悔しさが込み上げ、涙が目尻を伝った。


 莉乃はその涙を指先で拭った。


「泣かないで。まだ始まったばかりよ」


 彼女は立ち上がると、棚から大人用のおむつを取り出した。


「はい、替えてあげる。これからは、これがあなたの下着」


 莉乃は乱暴に僕のズボンを脱がせ、おむつを着けた。


 その瞬間の屈辱は、死ぬことよりも耐えがたかった。


 画面の向こうで、将吾は楽しそうに見ている。


「かつての久我社長も、今じゃおむつか。これを会社のグループチャットに流したら、盛り上がるだろうな」


「焦らないで。そのうち機会はあるわ」


 莉乃は布団を戻し、軽やかに笑った。


「じゃあ、怜央。おとなしく寝ていてね。今夜は将吾が来るの。隣の部屋で少し仕事の話をするから、寂しかったら心の中で羊でも数えていて」


 彼女は通話を切り、鼻歌まじりに部屋を出ていった。


 ほどなくして玄関の開く音がした。将吾と莉乃の笑い声。足音は遠ざかり、やがて隣の主寝室で止まった。


 壁の遮音性は高くない。聞きたくもない声が、少しずつこちらへ流れてくる。


 彼らがここまで無警戒なのは、本当に僕が終わったと思っているからだ。


 僕がもう二度と立ち上がれないと思っている。


 だが、忘れるな。


 僕は久我怜央だ。


 最底辺からここまで這い上がってきた、久我怜央だ。


 こんな薬で、僕はまだ死なない。



 9.署名させられた書類


 それから数日間は、地獄だった。


 莉乃は毎日、例の薬を僕に飲ませた。もう隠しもしない。僕の目の前で白い粉末を水に溶かし、鼻をつまんで無理やり流し込んでくる。


「飲みなさい。あなたの命をつなぐ水よ」


 僕はむせ返った。水は喉から襟元へ流れていったが、莉乃は拭こうともしない。ただ僕の惨めな姿を眺めていた。


 将吾もたびたび家に来た。


 あるときは会社の書類を持ち込み、僕に署名と押印をさせようとした。あるときは、ただ僕を辱めるためだけに来た。


 彼は僕の顔に煙草の灰を落とし、靴底で僕の手を踏みつけた。


「怜央さん、この手で昔は何十億円もの契約にサインしてたよな。今はどうだ? 俺の灰皿代わりだ」


 焼けるような痛みが走る。


 僕は声を上げなかった。ただ将吾を睨みつけた。


 その目に苛立ったのか、将吾が身をかがめて脅す。


「まだそんな目をするのか。次は目も開けられないようにしてやろうか」


 莉乃が彼を止めた。


「壊さないで。目は残しておいたほうが面白いでしょう? 私たちが彼のお金を使うところを、ちゃんと見せてあげたいもの」


 二人は僕の前で、資産をどう移すか、会社をどう空洞化させるか、僕の母を遠方の療養施設に送るにはどうすればいいかを話し合った。


 僕はその一言一句を、頭に刻み込んだ。


 五日目、莉乃が一人の男を連れてきた。


 会社の法務部にいる佐野だった。慎重で忠実な男だと思っていた。少なくとも会社を裏切る人間ではないと信じていた。


 その佐野が、彼らの側についていた。


 佐野は書類をベッドの上に並べた。


「奥様、こちらが株式譲渡契約書、財産贈与契約書、それから代表取締役変更登記に関する書類です。久我社長の署名と実印があれば、あとの手続きはこちらで進めます」


 莉乃は僕の実印を取り出した。


 その印鑑は普段、金庫にしまっていた。暗証番号を知っているのは僕だけのはずだった。


 今思えば、彼女はとっくに必要なものを盗み出していたのだ。実印、印鑑カード、印鑑登録証明書。さらに佐野は、取締役会議事録まで用意しているようだった。


 莉乃は優しく、そして残酷に笑った。


「恨まないでね、怜央。あなたがあまりにもお金持ちで、あまりにも鈍かっただけ」


 彼女は僕の手を取り、指を押さえ込む。僕の名前を、書類に書かせようとしていた。


 必死に抵抗しようとした。


 けれど身体は、言うことを聞かない。ペン先が紙に近づいていく。


 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。



 10.母が異変に気づく


 莉乃の動きが止まった。


「こんな時間に、誰?」


 声には苛立ちが混じっていた。


 将吾が玄関へ向かう。すぐに、驚いた声が聞こえた。


「伯母さん? どうしてここに」


 その呼び方を聞いた瞬間、胸の奥にわずかな希望が灯った。


 母だ。


 久我千鶴子。若い頃から父とともに家業を支えてきた人で、気が強く、人を見る目も鋭い。


 母なら、僕の異常に気づくかもしれない。


「怜央の様子を見に来たの。体調を崩したと聞いたわ。取締役会のオンライン会議にも出なかったそうじゃない」


 母の声が近づいてくる。足取りは早かった。


 莉乃の顔色が変わる。彼女は慌てて書類を布団の下に隠し、悲しげな表情を作った。


「お義母様、いらしていたんですね。怜央は……」


 母は部屋に駆け込み、ベッドの上の僕を見た瞬間、顔色を変えた。僕の手を握り、目を真っ赤にする。


「怜央、どうしたの。どうしてこんなことに……」


 僕は必死に瞬きをした。


 母さん、助けてくれ。


 莉乃がやった。


 将吾もだ。


 母は、僕の目から何かを読み取ったようだった。莉乃へ顔を向ける。その視線が一気に冷たくなる。


「説明して。健康だった人間が、どうして急にここまで動けなくなるの」


 莉乃は涙を拭い、いかにも可哀想な妻の顔をした。


「私にもわかりません。医師には、神経系の異常か、長年の過労かもしれないと言われました。お義母様、私だって怖いんです」


 母は騙されなかった。


「どこの医師? 診断書は? 検査結果は?」


 莉乃の表情がわずかにこわばる。


「山下クリニックです。検査の書類は下に……」


「そんな個人クリニックの診断だけでは信用できない。今すぐ救急車を呼ぶわ。大学病院で精密検査を受けさせます」


 母は冷ややかに言い、スマートフォンを取り出した。



 11.母まで閉じ込められる


 莉乃と将吾が目を合わせた。


 二人の目に、同時に殺意に似たものが走った。


 次の瞬間、将吾が前に出て、母のスマートフォンを奪い取った。


「伯母さん、そこまでしなくてもいいでしょう。莉乃さんがちゃんと看ているんですから」


「将吾、何をするの。返しなさい」


 将吾は冷たく笑った。


 顔から、最後に残っていた敬意が消える。


「せっかく来たんですから、帰らなくていいですよ。ちょうど家族がそろいますしね」


 彼が片手を上げると、廊下から黒いスーツの男が二人入ってきた。


「客室へ連れていけ。見張っておけ。余計なことをさせるな」


 母は抵抗した。けれど二人がかりの男にかなうはずもない。彼女は部屋から引きずり出されていく。


「久我莉乃! 久我将吾! あなたたち、これは犯罪よ!」


 扉が閉まり、母の声が遮断された。


 僕の胸の中の希望も、ゆっくり沈んでいった。


 莉乃は胸に手を当て、安堵したように息を吐いた。


「驚いた。どうして急に来たのかしら」


 将吾は母のスマートフォンを手の中で弄び、軽い口調で言う。


「来てくれてよかったじゃないか。あとで始末を考える手間が省けた。先に必要な書類を全部終わらせよう。時間を置くほど面倒になる」


 彼はベッドの書類に目を向けた。


 莉乃はうなずき、再び僕の手を取った。


 今度は、誰も邪魔しなかった。


 莉乃は僕の手を握りしめ、一枚、また一枚と書類に名前を書かせた。さらに僕の実印を押していく。


 赤い朱肉の跡が、紙の上に残る。


 一つ、二つ、三つ。


 すべての書類に、署名と押印が終わった。



 12.二人は仮面を脱ぎ捨てる


 莉乃は書類を手に取り、一枚ずつ確認した。


 やがて満足そうに笑う。


「ようやく、全部私のものね」


 彼女はその書類の束にキスをし、ベッドの上の僕を見下ろした。そこにもう、優しい妻の仮面はなかった。


 あるのは、むき出しの嫌悪だけだった。


「久我怜央、私がどれだけ我慢してきたかわかる? 毎日あなたの顔を見て、愛しているふりをするの、本当に吐きそうだった」


 将吾が莉乃の腰を抱く。


「莉乃、今夜はどう祝う?」


「シャンパンを開けましょう。怜央が大事にしていたヴィンテージのやつ」


 将吾は彼女の唇に軽くキスをした。


「明日は?」


「明日はまだ療養施設には送らない。港区のホテルでパーティーを開くの。表向きは怜央の回復を祈る会。ついでに取引先へ知らせるわ。これから久我グループを動かすのは誰なのか」


 二人は肩を寄せ合って部屋を出ていった。


 残されたのは、僕だけだった。


 本当に、これで終わりなのか。


 僕はこのまま、療養施設で死ぬのか。


 違う。


 そんな終わり方だけは、絶対に認めない。


 翌日、莉乃はすぐに僕を移そうとはしなかった。


 彼女にはやることがあった。東京・港区の高級ホテルで、宴を開くことだ。


 名目は、長期療養に入る僕の回復を願う会。実際には、莉乃が権力を手に入れたことを見せつけるための最初の舞台だった。


 彼女は多くの財界関係者を招き、会社の幹部や取引先の代表にも声をかけた。


 久我怜央は倒れた。


 これからの久我グループは、自分が握る。


 そう宣言するために。


 僕は黒いスーツに着替えさせられ、車椅子に座らされて宴会場の隅へ押し込まれた。


 まるで置物だった。


 いや、莉乃と将吾が勝利を誇るための戦利品だった。


 会場には明るい照明が降り注ぎ、シャンパンと笑い声が交差していた。客たちは僕の不幸を形だけ悼みながら、すぐに莉乃と将吾の機嫌を取るために動く。


 莉乃は赤いイブニングドレスを着て、将吾の腕に手を添えていた。


 人々の間を歩く彼女は、勝ち誇った顔をしていた。



 13.宴席での屈辱


 見覚えのある男が、こちらへ歩いてきた。


 榊原グループの社長だった。かつての最大の競争相手で、僕にいくつもの重要案件を奪われ、資金調達の道を断たれたこともある男だ。


 彼はグラスを片手に、僕の前で足を止めた。


 腰をかがめ、いやらしく笑う。


「久我社長、まさかこんな姿になるとはね。昔はずいぶん強かったじゃないですか。会議の席で私を追い詰めていたあの頃の勢いは、どこへ行ったんです?」


 彼はグラスの中の酒を、僕のスーツに注いだ。


 冷たい液体が布地を伝って落ちていく。


「何か言ってみたらどうです。声も出ないんですか?」


 僕は表情を変えず、ただ彼を見ていた。


 榊原はつまらなそうに鼻で笑い、背を向けて去っていく。


 その背中を見ながら、怒りよりも先に、ひどく滑稽だと思った。


 人が倒れたとき、真っ先に足で踏みつけてくるのは、必ずしも敵だけではない。かつてこちらに頭を下げ、笑顔を作っていた者たちも同じなのだ。


 やがて、会場の照明が落ちた。


 舞台の上にスポットライトが当たる。莉乃がマイクを手にして、招待客の前へ立った。


「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。怜央が突然倒れたことは、私にとって本当に大きな衝撃でした。でも私は、彼の代わりにこの家を守り、会社も守っていくつもりです」


 声は震えているように聞こえた。表情も、悲しみに耐える妻として完璧だった。


 客席から拍手が起こる。


 将吾は莉乃の隣に立っていた。まるで自分がこの家の男主人になったかのような顔で。


 莉乃は彼を見つめ、やわらかく微笑んだ。


「このつらい時期、私を支え、励ましてくれたのは将吾さんでした」


 会場の一部から冷やかすような声が上がる。莉乃は恥じらうように笑った。


「今この場で言うべきことではないかもしれません。けれど会社の安定のためにも、怜央に安心して療養してもらうためにも、私は怜央と離婚するつもりです」


 彼女は一拍置いた。


「そして、将吾さんと婚約します」



 14.スクリーンが点いた


 会場がざわめいた。


 夫がまだ車椅子に座っている前で、その妻が夫の従弟との婚約を宣言する。


 もはや厚顔という言葉では足りない。狂気に近かった。


 それでも、誰も前に出て止めようとはしない。彼らの目には、莉乃がすでに久我グループの実権を握ったように見えていたからだ。


 やがて拍手が起こった。


 さっきよりも大きく、熱のこもった拍手だった。


 将吾が片膝をつき、指輪の箱を開ける。


 中にあったのは、僕が莉乃に贈った婚約指輪だった。


 僕が彼女の指にはめたその指輪を、将吾は今、僕の妻への求婚に使っていた。


「莉乃、結婚してくれ」


 莉乃は口元を押さえ、感動したように涙ぐんだ。


「もちろん。喜んで」


 二人は舞台の中央で口づけを交わした。


 照明は華やかで、音楽は甘い。


 会場の隅に、車椅子の僕さえいなければ、美しい場面に見えたかもしれない。


 その二人が離れがたそうに唇を重ねているときだった。


 宴会場の大型スクリーンが、突然明るくなった。


 画面が一瞬白く光り、すぐに映像が流れ始める。


 そこに映っていたのは、久我家のキッチンだった。


 莉乃が、小さな袋から白い粉末をホットミルクに入れている。粉を落としながら、低い声でつぶやいていた。


「飲んで。飲めば、おとなしくなる。完全に動けなくなれば、お金も会社も私のもの」


 会場が一瞬で静まり返った。


 音楽が途切れる。


 莉乃と将吾は慌てて体を離し、恐怖に歪んだ顔でスクリーンを見上げた。


「何なの、これ!」


 莉乃が叫ぶ。


 けれど映像は止まらなかった。



 15.僕は立ち上がった


 画面が切り替わる。


 寝室で、莉乃と将吾が身を寄せ合っていた。


「怜央さん、隣で聞いてるんだよな」


 将吾が笑う。


「書類に全部サインさせたら、療養施設へ送る。あそこで死んでも、誰も疑わない」


 莉乃は将吾の腕の中で、毒のような笑みを浮かべていた。


「すぐに死なせるのはもったいないわ。私たちが彼のお金をどう使うか、ちゃんと見せてあげたいの」


 二人の声は、会場中にはっきり響いた。


 誰もが呆然としていた。


 これは回復祈願の会ではない。


 公開処刑の場になっていた。


「止めろ! 早く止めろ!」


 将吾が狂ったように操作卓へ走る。何度ボタンを押しても、スクリーンの映像は流れ続けた。


 莉乃は床に座り込み、顔を真っ青にしている。


「違う……違うの。これは本物じゃない。合成よ。誰かが私を陥れようとしているの」


 誰も信じなかった。


 映像はあまりにも鮮明だった。彼女の顔の歪みも、声の震えも、逃げ場がないほど明確に映っていた。


 そのとき、会場の隅から声が響いた。


「陥れる? 莉乃、僕がそんなことをする必要があると思うか」


 低く、静かな声だった。


 長いあいだ押し殺してきた怒りが、その奥に沈んでいた。


 全員が振り返る。


 人々は会場の隅を見た。


 車椅子に座り、もう動けないと思われていた男を見た。


 僕は車椅子の肘掛けを掴み、ゆっくりと立ち上がった。


 宴会場は、水を打ったように静まり返った。


 全員が幽霊でも見たような顔で僕を見ている。特に莉乃と将吾は、目が裂けそうなほど見開かれていた。


「どうして……どうして動けるの? あなた、もう麻痺していたはずじゃ……」


 莉乃が震える指で僕を指した。



 16.僕は最初から知っていた


 僕はまっすぐ立ち、酒で濡れたスーツの襟を整えた。


 動作はゆっくりだった。けれど、五日間寝たきりだった人間には見えないほど落ち着いていたはずだ。


 僕は舞台へ向かって歩き出した。


 革靴が床を打つ音が、宴会場にはっきり響く。


 一歩ごとに、莉乃と将吾の心臓を踏みつけているようだった。


 莉乃は後ずさりした。声が震えている。


「ありえない……私はあなたが飲むのを見たのに。あんなもの、効かないはずがないのに」


 僕は彼女の前で足を止め、見下ろした。


「効いたよ。だからこの数日、楽ではなかった」


 ポケットから透明な証拠袋を取り出す。中には白い粉末が入っていた。


 僕はそれを、莉乃の足元へ落とした。


「君が僕に飲ませていたものだ。あの匿名投稿を見つけた瞬間から、僕は君が何をしようとしているのか知っていた」


 莉乃の顔から血の気が引いた。


「最初から、知っていたの……?」


 僕は固まった肩を動かす。


「そうだ。一杯目のミルクは、わざと落とした。二杯目は少しだけ飲んで、残りはハンカチに吐き出した。その後、君が水や粥に混ぜたものも、できる限りサンプルとして残した。あの数日の脱力は、半分は本当で、半分は演技だった」


「ずっと、演じていたの……?」


 僕は小さく笑い、彼女を見下ろした。


「本気で演じなければ、君たちの尻尾を全部出させられないだろう」



 17.警察が来た


 この数日は、決して楽なものではなかった。


 僕は悟られないよう、常に身体の反応を制御しなければならなかった。針で刺されても動かない。煙草の灰で熱くても避けない。将吾に指を踏まれても、声を出さない。


 その苦痛は、普通なら耐えられないものだった。


 それでも耐えた。


 僕が望んだのは、ただ彼らを暴くことではない。二人を社会的に終わらせることだった。


 彼らの周りに集まっていた人間全員に、その醜さを見せる必要があった。


 将吾はようやく我に返ったようだった。顔を怒りで赤黒くする。


「久我怜央、お前はどこまで陰険なんだ!」


 僕は声を出して笑った。


「陰険? 夫に薬を盛り、財産を奪おうとし、僕の母を監禁し、療養施設で死ぬのを待とうとした人間が言う言葉か。僕の妻に手を出し、兄のように支えてくれた人間を裏切り、書類を偽造し、会社を食い物にしようとした。陰険なのはどちらだ、将吾」


 母のことを出すと、将吾の顔色が変わった。


「お前……伯母さんの居場所を知っているのか」


「当然だ」


 僕が軽く手を叩くと、宴会場の扉が再び開いた。


 警視庁の捜査員たちが一斉に入ってくる。その先頭にいたのは、母、久我千鶴子だった。


 少しやつれてはいたが、足取りはしっかりしている。


「怜央……!」


 僕が立っている姿を見た瞬間、母の目に涙が浮かんだ。


「母さん、怖い思いをさせてごめん」


 実のところ、前日の夜にはもう動いていた。


 莉乃と将吾が隣の部屋で酒を飲んで浮かれていた隙に、僕はベッドの下に隠してあった予備のスマートフォンを取り出した。


 あの端末は、商業上の誘拐や脅迫に備えて用意していたものだ。まさか自宅で使うことになるとは思ってもいなかった。


 僕はその端末から腹心の秘書に連絡し、警察にも通報させた。母が閉じ込められている部屋も、すぐに確認された。


 さっきのスクリーン映像も、秘書がホテル側に事情を説明し、会場スタッフの協力を得て切り替えたものだ。


 すべて、僕の計画どおりだった。



 18.書類は効力を争われる


「連れていってください」


 捜査員たちが動き、莉乃と将吾を押さえ込んだ。


 莉乃は必死にもがいた。髪は乱れ、赤いドレスは見る影もなく崩れている。


「離して! 私はまだ怜央と結婚しているの! 私を捕まえるなんておかしいでしょう!」


 彼女は僕を見上げた。涙が一気にこぼれる。


「怜央、ごめんなさい。私、本当にどうかしていたの。愛しているのはあなたなの」


 体を震わせて泣く姿は、かつて僕が守りたいと思った莉乃に少し似ていた。


 けれどもう、何も響かなかった。


 僕は彼女の前にしゃがむ。


「愛している? 莉乃、君の愛は重すぎる。僕には到底受け止められない。それに、言っていたじゃないか。僕は退屈な機械で、気持ち悪いんだろう」


 莉乃の顔がこわばった。


 僕は立ち上がる。


「留置場でゆっくり考えるといい。そこなら時間だけはある」


 許されないと悟ったのか、莉乃は最後の仮面まで捨てた。


「久我怜央! あんたなんか絶対に許さない!」


 将吾にも手錠がかけられていた。彼は僕を睨みつけ、歯を食いしばる。


「勝ったつもりか。あの書類はお前自身が署名して、実印を押したんだ。会社はまだ俺のものだ」


「そう思うなら、好きに主張すればいい」


 僕は懐から小型の録音機を取り出した。


「これは君たちが僕に署名押印を強要した一部始終の録音だ。それから佐野だが、彼はすでに警視庁で事情を話している」


 将吾の顔色が変わった。


 僕は少し身をかがめ、静かに言う。


「薬物で正常な判断ができない状態で、しかも強迫されて署名押印した書類だ。効力を争う余地はいくらでもある。加えて、殺人未遂、傷害、監禁、強要、私文書偽造、会社法上の特別背任。将吾、もう二度と取締役会の席に座れると思うな」


 将吾はその場に崩れ落ちた。


 ようやく、自分が終わったことを理解したのだろう。



 19.自由の匂い


 莉乃と将吾は連れていかれた。


 茶番のような宴も終わり、客たちは一人、また一人と逃げるように会場を後にした。


 帰り際、彼らはまた見慣れた媚びた顔を作り、僕に頭を下げた。自分たちは騙されていただけだと、口々に言い訳をした。


 僕は何も答えなかった。


 この一件で、あまりにも多くの人間の顔が見えたからだ。


 母は僕を抱きしめ、長いあいだ泣いていた。


「怜央、ごめんなさい。あの子との結婚を許すべきじゃなかった」


 僕は母の背中を軽く叩いた。


「母さんのせいじゃない」


 空になっていく宴会場を見つめながら、僕は勝利の味を探した。


 けれど、そこにあったのは爽快感ではなかった。


 ただ疲れていた。


 もっとも近い場所にいた人間に裏切られたあと、心がすっかり冷え切ってしまったようだった。


 その後、僕は会社を立て直した。


 将吾が送り込んだ人間はすべて排除し、佐野も警察へ引き渡された。久我グループの支配権は、再び僕の手に戻った。


 数か月後、裁判が始まった。


 僕は被害者として法廷に立った。


 被告人席に座る莉乃は、顔色が悪く、目には以前の輝きがなかった。あの柔らかく美しい妻の面影は、もうどこにもない。


 将吾は隣に座り、無精ひげを伸ばし、十歳は老けたように見えた。


 証拠はそろっていた。


 二人は言い逃れできなかった。


 判決が言い渡されたその瞬間、莉乃がふいに僕を見た。


 かすれた声で、僕の名前を呼ぶ。


「怜央……」


 僕は振り返らなかった。


 そのまま法廷を出た。


 外の陽射しは眩しく、少し目に痛かった。


 けれど温かかった。


 僕は深く息を吸う。


 そこにはもう、甘ったるいミルクの匂いはなかった。


 ただ、自由の匂いだけがした。



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