第5話 越えてしまう
春の夜。
テレーゼの祈りが終わった。
立ち上がり、蝋燭を持ったまま、カタリーナの方を見た。いつもより長く。
「今日、記録保管庫で古い文書の修復作業を手伝いました。紙が脆くなっていて、触ると崩れそうで」
「壊れなかった?」
「壊れませんでした。でも——帰り道、ずっと手が震えていて」
テレーゼがカタリーナの前に来た。
「文書が壊れそうだったから震えたんじゃなくて——壊したいのに壊せなかったから震えたんです。触りたかった。手袋を外して、素手で触りたかった。でも素手で触れば壊れる」
テレーゼの目が、カタリーナを見ていた。
「分かりますか」
カタリーナは分かっていた。テレーゼは文書の話をしていない。
「分かる」
カタリーナはテレーゼの手を引いた。前回より、強く。
テレーゼが前に倒れた。顔と顔の距離が、一気に縮まった。テレーゼの呼吸が、カタリーナの唇に当たった。
「手袋を外していい」
テレーゼの目が見開かれた。
「壊れるかもしれない」
「壊れてもいい」
カタリーナの右手がテレーゼの頭巾に触れた。ゆっくりと引いた。
頭巾が外れた。テレーゼの髪がこぼれた。茶色の、肩にかかるくらいの長さの髪。修道院に入ってから一度も人前で見せたことのない髪。
カタリーナの指が髪の中に入った。テレーゼの首筋に指が触れた。
テレーゼが息を呑んだ。
「怖い?」
「怖くない。怖いのは——戻れなくなることです」
「戻らなくていい」
カタリーナの手がテレーゼのうなじを引いた。
距離がなくなった。
唇が触れた。
*
テレーゼの唇は、冷たかった。祈りの後の、古聖語の残響が残っているような。
カタリーナの唇は温かかった。
冷たいものと温かいものが触れ合うと、境界が溶ける。
唇が離れたとき、テレーゼの目が濡れていた。
「泣いてるのは悲しいからじゃないです。これがどういうことか、分かっているから泣いているんです」
テレーゼはカタリーナの肩に額を押しつけた。
「二十五年間信じてきたものを——壊しました。今。でも、壊れた音がしなかった」
テレーゼが顔を上げた。涙が頬を伝っていたが、目は笑っていた。
「壊れたのに、音がしなかった。痛くもなかった。おかしいですよね」
「おかしくない」
「もう一度」
カタリーナはテレーゼの顔を両手で挟んだ。二度目は、一度目より深かった。
*
翌朝。
テレーゼの部屋の窓から、光が差し込んでいた。いつもと違ったのは、唇にまだテレーゼの温度が残っていたことだった。
居間で顔を合わせた。
「おはようございます」
「おはよう」
テレーゼが食前の祈りを——唱えなかった。
「……すみません。今日は——唱えられないかもしれません」
カタリーナは何も聞かなかった。
「いいよ。食べよう」
祈りのない朝食は、初めてだった。
その静けさの中で、テレーゼが言った。
「昨夜のこと——後悔していますか」
「していない」
「……私も。後悔していません。それが——一番怖いんです」
「後悔していないことが?」
「後悔していたら、懺悔できます。元に戻れる。でも後悔していない。ということは——戻れない」
カタリーナはテーブルの上に手を伸ばした。朝の光の中で。
「戻らなくていい」
テレーゼの目から涙が一筋、落ちた。朝食のパンの上に。
「……パンが濡れました」
「いいよ。食べられる」
テレーゼが笑った。涙を流しながら笑った。
朝の食卓で、二人は手を繋いだまま、パンを食べた。片手で食べるパンは、食べにくかった。
でも手は離さなかった。




