第4話 距離と手紙
あの夜から、何かが変わった。
変わったのは事実ではない。二人は同じ貸間に住み、同じ台所で料理を作り、同じテーブルで食事をしている。
変わったのは、距離の意味だった。
台所は狭い。カタリーナが鍋に手を伸ばすとき、テレーゼの腕がすぐ隣にある。指先が触れる。ほんの一瞬。以前なら気づかなかった。今は、触れた箇所が熱い。
テレーゼの指は冷たかった。修道院の石壁の中で過ごした年月が、指先に残っている。その冷たさが、カタリーナの腕の内側を一瞬で走った。
カタリーナは手を引いた。テレーゼも手を引いた。
「すみません」
「いいえ」
二人とも、鍋から目を逸らさなかった。
*
夜。壁一枚を隔てて、寝台が二つある。
カタリーナは壁を見つめた。壁の向こう側に、テレーゼがいる。テレーゼが寝台の上で身じろぎする音が聞こえる。毛布が擦れる小さな音。
カタリーナは目を閉じた。眠れなかった。壁の向こうの人間の体温を、想像してしまう。
テレーゼは壁の向こうで、祈ろうとしていた。声を出すと、カタリーナに聞こえる。聞かれているときに自分の声が変わることが怖くて、今夜は声を出さなかった。
唇だけが動いた。祈りの途中で、唇が止まった。古聖語の音節の代わりに、カタリーナの名前が浮かんだ。
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カタリーナは月に一度、帝国の家族に手紙を書く。帝国語で書き、帝国式の封蝋で封をする。
十一月の手紙。
「住居は首都中央区の貸間です。同居人が一名おりますが、業務上の支障はありません」
ペンが止まった。
テレーゼのことを、「同居人が一名」で処理している。
帝国の父に、何と書けばいいのか。帝国語には、この先の文章を書くための語彙がなかった。
名前がないものは、書けない。
手紙を最後まで書いた。テレーゼのことは、「同居人が一名」のまま、封蝋の向こう側に閉じ込められた。
*
テレーゼも月に一度、報告書を聖都の修道院に送る。
「生活状況:外務局手配の貸間にて問題なく生活しております」
嘘ではない。本家国の規定上、何も問題はない。修道院の規律に照らせば——問題だらけだった。
行政語には「罪の告白」の語彙がない。行政語は事実を記述する言語であって、魂の状態を報告する言語ではない。
テレーゼは備考欄に何も書かなかった。封をして、駅伝に出した。
*
ある夕方。
カタリーナが帰宅すると、テレーゼが居間のテーブルで泣いていた。声は出していなかった。テーブルの上に、手紙が開かれていた。
「修道院から……返信が来たんです。任期の延長を打診したら、許可が出ました」
「それは……良いことでは」
「理由を聞かれました。『業務の継続性を確保するため』と答えました」
テレーゼは目を伏せた。
「嘘です。業務は一年で十分終わります。延長したいのは——ここにいたいからです」
カタリーナは黙った。
「修道院に嘘をついたのは、初めてです」
テレーゼの声が震えた。
カタリーナはテーブルの上に手を置いた。テレーゼの手のすぐ近く。
「私も、帝国に嘘をついている。手紙に、『同居人が一名』としか書いていない。省略と嘘の境界がどこにあるのか、もう分からない」
テレーゼの指がカタリーナの手に触れた。冷たかった。泣いた後の、冷たい指だった。
カタリーナはテレーゼの手を握った。
「テレーゼ。嘘でもいい。帝国への手紙が省略でも、修道院への報告書が嘘でも——ここにいてほしい」
テレーゼの指が、カタリーナの手の中で力を込めた。離さない、という意志が、指先にあった。
「います。ここに、います」
*
冬が深まった。暖炉の前で過ごす夜が増えた。
テレーゼがカタリーナの肩にもたれかかるようになった。
ある晩、テレーゼが目を閉じたまま言った。
「心臓の音、聞こえます」
「……聞こえるの」
「速いですね」
「……寒いから」
「嘘ですね」
「……嘘です」
テレーゼが笑った。カタリーナの肩に額を押しつけるようにして、小さく笑った。




