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第3話 規定にないもの

きっかけは、雨だった。


秋の終わり。首都に冷たい雨が降った日。


カタリーナは外務局の翻訳室から走って帰った。傘を持っていなかった。


貸間の階段を駆け上がり、ドアを開けた。髪も肩もびしょ濡れだった。


テレーゼが居間にいた。仕事から先に帰っていたらしい。


棚から布を取り出し、玄関に歩いてきた。布を持ったまま、カタリーナの髪に手を伸ばした。


指が髪に触れる直前で、止まった。


テレーゼの手が、空中で止まっていた。


修道院では、他者の身体に触れることに意味があった。病人の額に手を当てるとき——それは祈りの延長だった。今、テレーゼの手にあるのは祈りではなかった。


テレーゼは布をカタリーナの手に押しつけた。


「すみません。ご自分で……」


テレーゼは身を引き、自室に戻った。


カタリーナは濡れたまま立っていた。テレーゼの指が、髪に触れなかったこと。触れようとして、止めたこと。その意味がわかった。





その夜。テレーゼの祈りの時間。


古聖語の祈りの、最初の音節を口に出そうとした。出なかった。


唇が動いた。喉が震えた。でも、音にならなかった。


古聖語の代わりに、カタリーナの帝国語の独り言が頭の中で鳴っている。


テレーゼは理解した。これは、神権国が「罪」と呼ぶものだ。


でも本家国には、この感情を罪と呼ぶ規定がない。罰する機関もない。届け出る様式もない。





三日後の夜。


祈りが終わった後、二人が居間に残った。蝋燭がテーブルの上で揺れている。


カタリーナが先に口を開いた。行政語で。


「テレーゼ。一つ聞いていい?」


「はい」


「この国には、私たちのことを問題にする規定がある?」


テレーゼは少し息を止めた。


「……ないと思います」


「私も探した。なかった」


カタリーナは外務局の規定集を三日かけて読んだ。どこにも、なかった。


「帝国では——こういう感情は『無価値』なの。問題にされるんじゃない。存在しないものとして扱われる」


「……」


「神権国では?」


テレーゼは長い間、黙っていた。


「……罪、です」


声が小さかった。


「修道女は神に仕える身です。神以外の何かに心を向けることは——」


「ここでは」


カタリーナが言った。


「ここでは、何でもない」


「何でもない、というのは——許されている、ということですか」


「わからない。許すも許さないもない。規定がないから」


テレーゼは目を閉じた。


「規定がないものは——存在しないんですか。この国では」


カタリーナは首を振った。


「違う。この国では——規定がないものは、判断されない」


無価値とも言われない。罪とも言われない。ただ、判断されない。


テレーゼは目を開けた。蝋燭の灯りの中で、カタリーナを見た。


「カタリーナ」


「うん」


「私、今夜、祈りの言葉が出なかった」


「知っています。聞いていました」


「祈りの代わりに、あなたの声が聞こえていた」


「……」


「それは——罪なんだと思います。神権国では」


「ここは神権国じゃない」


「でも、私は修道女です。ここにいても」


カタリーナは手を伸ばした。テーブルの上に置かれたテレーゼの手に。指先が触れた。


テレーゼは手を引かなかった。


「帝国では、無価値。神権国では、罪。ここでは——」


「ここでは」


テレーゼの指が、カタリーナの指に絡んだ。


「何も言われない」





冬の初め。


カタリーナは外務局に行った。翻訳官としての契約更新手続き。


窓口の職員が事務的に確認した。


「同居人の有無」


「一名」


「同居人の氏名」


「テレーゼ。姓なし。宗教名」


「関係」


カタリーナは一瞬、止まった。


「……同居人」


職員はペンを走らせた。


それ以上の質問はなかった。


受理印が押された。

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