第3話 規定にないもの
きっかけは、雨だった。
秋の終わり。首都に冷たい雨が降った日。
カタリーナは外務局の翻訳室から走って帰った。傘を持っていなかった。
貸間の階段を駆け上がり、ドアを開けた。髪も肩もびしょ濡れだった。
テレーゼが居間にいた。仕事から先に帰っていたらしい。
棚から布を取り出し、玄関に歩いてきた。布を持ったまま、カタリーナの髪に手を伸ばした。
指が髪に触れる直前で、止まった。
テレーゼの手が、空中で止まっていた。
修道院では、他者の身体に触れることに意味があった。病人の額に手を当てるとき——それは祈りの延長だった。今、テレーゼの手にあるのは祈りではなかった。
テレーゼは布をカタリーナの手に押しつけた。
「すみません。ご自分で……」
テレーゼは身を引き、自室に戻った。
カタリーナは濡れたまま立っていた。テレーゼの指が、髪に触れなかったこと。触れようとして、止めたこと。その意味がわかった。
*
その夜。テレーゼの祈りの時間。
古聖語の祈りの、最初の音節を口に出そうとした。出なかった。
唇が動いた。喉が震えた。でも、音にならなかった。
古聖語の代わりに、カタリーナの帝国語の独り言が頭の中で鳴っている。
テレーゼは理解した。これは、神権国が「罪」と呼ぶものだ。
でも本家国には、この感情を罪と呼ぶ規定がない。罰する機関もない。届け出る様式もない。
*
三日後の夜。
祈りが終わった後、二人が居間に残った。蝋燭がテーブルの上で揺れている。
カタリーナが先に口を開いた。行政語で。
「テレーゼ。一つ聞いていい?」
「はい」
「この国には、私たちのことを問題にする規定がある?」
テレーゼは少し息を止めた。
「……ないと思います」
「私も探した。なかった」
カタリーナは外務局の規定集を三日かけて読んだ。どこにも、なかった。
「帝国では——こういう感情は『無価値』なの。問題にされるんじゃない。存在しないものとして扱われる」
「……」
「神権国では?」
テレーゼは長い間、黙っていた。
「……罪、です」
声が小さかった。
「修道女は神に仕える身です。神以外の何かに心を向けることは——」
「ここでは」
カタリーナが言った。
「ここでは、何でもない」
「何でもない、というのは——許されている、ということですか」
「わからない。許すも許さないもない。規定がないから」
テレーゼは目を閉じた。
「規定がないものは——存在しないんですか。この国では」
カタリーナは首を振った。
「違う。この国では——規定がないものは、判断されない」
無価値とも言われない。罪とも言われない。ただ、判断されない。
テレーゼは目を開けた。蝋燭の灯りの中で、カタリーナを見た。
「カタリーナ」
「うん」
「私、今夜、祈りの言葉が出なかった」
「知っています。聞いていました」
「祈りの代わりに、あなたの声が聞こえていた」
「……」
「それは——罪なんだと思います。神権国では」
「ここは神権国じゃない」
「でも、私は修道女です。ここにいても」
カタリーナは手を伸ばした。テーブルの上に置かれたテレーゼの手に。指先が触れた。
テレーゼは手を引かなかった。
「帝国では、無価値。神権国では、罪。ここでは——」
「ここでは」
テレーゼの指が、カタリーナの指に絡んだ。
「何も言われない」
*
冬の初め。
カタリーナは外務局に行った。翻訳官としての契約更新手続き。
窓口の職員が事務的に確認した。
「同居人の有無」
「一名」
「同居人の氏名」
「テレーゼ。姓なし。宗教名」
「関係」
カタリーナは一瞬、止まった。
「……同居人」
職員はペンを走らせた。
それ以上の質問はなかった。
受理印が押された。




