第2話 祈りと名前
テレーゼは毎晩、就寝前に祈る。
修道院にいた頃と同じ時間に。同じ古聖語の祈りを。居間のテーブルに蝋燭を一本灯して、椅子には座らず、床に跪いて。
目を閉じ、両手を組み、古聖語の音節を低く唱える。
聖都の修道院では、同じ時刻に百人以上の修道女が同じ言葉を唱えていた。声が重なり、建物の石壁に反響し、一つの大きな音になった。
ここでは、テレーゼの声だけが、小さな居間に落ちる。
*
同居の最初の数日間、カタリーナは祈りの時間には自室に引っ込んでいた。
ある夜、喉が渇いて居間に出た。テレーゼが祈っていた。蝋燭の灯りが、修道服の白い頭巾を淡く照らしている。
カタリーナは水を取りに行けなかった。台所は居間を横切らなければ届かない。壁際に立ったまま、聞いていた。
古聖語の音は、帝国語とも行政語とも違っていた。母音が深く、子音が硬く、一定の律動で繰り返される。
次の晩も、カタリーナは居間に出た。水はまだあった。喉も渇いていなかった。
テレーゼは気づいていた。カタリーナの足音が廊下で止まるのが、祈りの最中に聞こえていた。でも祈りを止めなかった。
四日目の夜、テレーゼは自分の声が微かに変わっていることに気づいた。音節の一つ一つを、少し長く、少し明瞭に発音している。
——これは、誰のための祈りだろう。
テレーゼは目を閉じたまま、その問いを押しのけた。
*
五日目の夜。祈りが終わった。
テレーゼは立ち上がり、蝋燭を持ったまま、壁際のカタリーナを見た。
「聞いていたんですか」
「……はい」
「意味はわかりません」
「それは知っています」
テレーゼは少し微笑んだ。
「意味がわからないのに、聞くんですか」
「音が……落ち着くんです。ここは静かで、あなたの祈りの音だけが聞こえて……安心する、のかもしれません」
テレーゼは黙った。それから、静かに言った。
「意味は、私にも全部はわからないんです」
「前にも、そう言っていましたね」
「古聖語は、神権国では聖職者だけが意味を知ることになっています。修道女は……唱えるだけです。音として覚えて、音として唱える」
「意味を知らなくても、祈りになるんですか」
「……なります。なるはずです」
テレーゼの声が、少しだけ揺れた。
「聖都では、そう教わりました」
カタリーナはそれ以上聞かなかった。踏み込んではいけない領域がある。
「おやすみなさい、テレーゼ」
「おやすみなさい」
*
ある夕方。
カタリーナが翻訳の仕事を持ち帰った。テレーゼもたまたま目録カードの整理を持ち帰っていた。居間のテーブルの向かい側に、二人が座っている。
カタリーナが帝国語の原文に詰まり、無意識に帝国語で呟いた。
「……これじゃ、全然違う」
テレーゼが顔を上げた。
「今の、何と言ったんですか」
「……『全然違う』と言いました。翻訳がうまくいかなくて」
「もう一度、言ってもらえますか」
カタリーナは少し戸惑いながら、帝国語で繰り返した。
「音が、行政語と全然違いますね。行政語は平たい感じがします。帝国語は、もっと……上下がある」
「抑揚ですね。帝国語は強勢の位置で意味が変わるので」
「古聖語にも、似たものがあります」
テレーゼが古聖語の一節を唱えた。祈りとは違う調子で。
そこから、互いの言語を少しずつ教え合うようになった。
カタリーナがテレーゼに「おはよう」「おやすみ」「ありがとう」を帝国語で教えた。テレーゼの発音はひどかった。強勢の位置がどうしてもずれる。
テレーゼがカタリーナに古聖語の祈りの冒頭を教えた。カタリーナの発音もひどかった。喉の奥で出す音が、帝国語にはない。
二人とも笑った。
台所で一緒に料理を作るより、もっと近い距離だった。音を共有するということは、台所を共有するより親密な行為だった。
*
ある夜。
食事が終わり、片付けが終わり、テレーゼの祈りが終わった後。
カタリーナが自室に向かおうとしたとき、テレーゼが言った。
帝国語で。
「おやすみ、カタリーナ」
発音はまだぎこちなかった。強勢の位置が少しずれていた。
でも名前は正確だった。
帝国語で名前を呼ばれたのは、本家国に来てから初めてだった。帝国では、名前を呼ぶこと自体が親密さの表現だ。テレーゼはそれを知らない。
カタリーナの胸の奥で、何かが動いた。小さな、温かい、名前のない振動。
「おやすみ、テレーゼ」
カタリーナは行政語で返した。帝国語で返す勇気は、まだなかった。
自室に戻り、寝台に腰を下ろした。
胸の振動が消えない。
カタリーナはそれが何であるか知っていた。
帝国語には、この感情に名前がある。そして帝国は、この名前を「無価値」と分類している。家に子を残さない感情。血統を繋がない関係。帝国の序列の中に、置き場がない。
問題にされるのではない。存在しないものとして扱われる。
目を閉じると、テレーゼの帝国語が耳に残っていた。ぎこちない発音の、自分の名前。




