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第1話「配属」

この作品は女性同士の恋愛を含みます。

※ 独立した作品として読めますが、「『判断しない』女王エリザベータ」シリーズと同じ世界観です。

※ エリザベータは登場しません。

カタリーナ・フォン・ヴェルナーが本家国の首都に到着したのは、秋の初めだった。


大帝国外務省の辞令には、こう書いてある。


「本家国駐在 帝国語・行政語間翻訳業務担当 任期一年(更新可)」


帝国語の原本には皇帝の印章が押されている。行政語の写しには、本家国外務局の受理印が押されている。二つの文書は同じ内容を述べているが、書式がまるで違った。帝国のものは装飾的で、署名者の官位が三行にわたって列挙されている。本家国のものは簡素で、受理番号と日付だけが機械的に記されていた。


カタリーナは二十二歳。帝国中級貴族ヴェルナー家の三女である。


長姉はノルドハイム王国の伯爵家に嫁いだ。次姉は帝国南部の軍閥家に嫁いだ。どちらも婚姻外交の駒として、父が手配した縁組だった。三女のカタリーナには、縁組の話が来なかった。


理由は簡単だ。


長姉は美しく、次姉は社交に長けていた。カタリーナは——帝国語と行政語ができた。


外務省の文書翻訳局に配属されたのは十八歳のとき。四年間、帝国語の外交文書を行政語に訳し、行政語の条約案を帝国語に戻す仕事をした。帝国にとって翻訳官は「必要だが重要ではない」職種である。行政語を「属国の言葉」と半ば見下す文化の中で、行政語ができることは技能であっても格ではなかった。


本家国への駐在辞令は、要するに「余っている翻訳官を置いておく」という判断の結果だった。





首都の外務局庁舎で、カタリーナは手続きを済ませた。


滞在許可証の発行。業務場所の通知。報酬の支払い方法。すべて行政語の様式で処理された。


最後に、住居の案内があった。


「外国派遣者向け住居斡旋の手続きです」


担当の職員が様式を一枚取り出した。


「現在、外務局管理の公務宿舎は満室です。民間の貸間を手配しますので、こちらにご署名ください」


「公務宿舎は満室、ですか」


「はい。条約交渉団が長期滞在しているため、空きが出るのは来春の見込みです」


カタリーナは帝国式の反応を飲み込んだ。帝国であれば、貴族の令嬢が民間の貸間に入るなど考えられない。しかしここは帝国ではない。


「貸間の場所は?」


「首都中央区、記録保管庫から徒歩十五分の物件です。二階建ての二階部分。寝室二つ、居間一つ、台所一つ」


「……二つの寝室ですか」


「はい。もう一名、外国派遣者が入居しています」


「もう一名」


「ラインハルト神権国から派遣された修道女です。宗教文書の目録整理業務で、国立記録保管庫に常駐しています」


カタリーナは少し黙った。


帝国の中級貴族の令嬢と、神権国の修道女。同じ屋根の下。帝国であれば、格式の問題として即座に異議を申し立てるところだ。


「住居に関する異議申し立ての様式はありますか」


「様式第四百三十二号『公務派遣者住居変更申請書』があります。ただし、変更先の空きがない場合は保留されます」


空きがないから貸間なのだ。変更先もない。


「……結構です。そのまま入居します」


「承知しました。鍵と住所はこちらです」





貸間は、石造りの古い建物の二階にあった。


一階は薬種商の店舗で、狭い階段を上がると二階の玄関がある。鍵を開けて入ると、短い廊下の左右に寝室が一つずつ。突き当たりに居間と台所。


居間は狭かった。テーブルと椅子が二脚。窓が一つ。壁に棚が二つ。


右側の寝室のドアが開いていた。


中に人がいた。


質素な修道服。白い頭巾。茶色の髪が少しだけ覗いている。二十代半ばに見える女性が、寝台の脇に跪いて、何かを唱えていた。


古聖語だった。


カタリーナは古聖語を知らない。ただ、その音が祈りであることはわかった。低く、一定の抑揚で繰り返される音節。


カタリーナは廊下に立ったまま、音が止まるのを待った。


一分ほどで、祈りが終わった。


女性が顔を上げ、廊下のカタリーナに気づいた。


「あ……」


女性は立ち上がり、少し慌てた様子で居間に出てきた。


「すみません。お祈りの時間だったので」


行政語だった。ぎこちないが、通じる。


「いえ、お邪魔しました」


カタリーナも行政語で答えた。


「カタリーナ・フォン・ヴェルナーです。大帝国から翻訳業務で参りました」


「テレーゼです」


「テレーゼ……」


「姓はありません。修道名です」


カタリーナは少し戸惑った。帝国では、名乗りの際に家名を告げるのが最低限の礼儀である。姓がないということは、格を確認する手段がないということだ。


——この人は、どの列に属するのだろう。


答えはすぐに出た。ここは帝国ではない。列がない。


「よろしくお願いします、テレーゼ」


「よろしくお願いします」


テレーゼは微笑んだ。控えめで、少しぎこちない微笑みだった。


カタリーナは左側の寝室に荷物を運び入れた。居間を通るとき、テレーゼの部屋が見えた。


寝台と、小さな木の十字架と、古聖語の祈祷書が一冊。


それだけだった。


カタリーナは自分の荷物の量を、初めて「多い」と思った。





最初の夜。


カタリーナは居間で、外務局からもらった書類を読んでいた。


テレーゼは自室に引っ込んでいた。


居間のテーブルに、一枚の紙が置いてあった。テレーゼが書いたらしい。行政語で、丁寧な字だが少しぎこちない筆致。


「台所の使い方について。水は一階の井戸から汲みます。薪は裏口の小屋にあります。食器は棚の上段です」


下に小さく書き添えてあった。


「朝のお祈りは日の出の頃です。音が聞こえたらすみません」


カタリーナはその紙を裏返し、行政語で書いた。


「ご案内ありがとうございます。お祈りの音は気になりません」


テーブルの上に戻した。


翌朝、紙はテレーゼの部屋に持ち帰られていた。





同居一週間目。


カタリーナは料理をしたことがなかった。


帝国のヴェルナー家では、台所は使用人の領域だった。食事は決まった時間に食堂に運ばれてくる。


本家国の貸間には使用人がいない。


最初の三日間、カタリーナは市場でパンとチーズを買い、それだけで食事を済ませた。


テレーゼは毎朝、毎晩、台所に立っていた。修道院では共同調理が日課だったらしい。質素な食事——スープ、パン、根菜の煮物——を一人分だけ、静かに作る。


四日目の夕方。


カタリーナが居間でパンをかじっていると、台所からスープの匂いがした。玉葱と、何かの豆と、少しの塩。


テレーゼが台所から出てきた。手に鍋を持っている。


「あの……よかったら」


テレーゼは少し迷った様子で、カタリーナを見た。


「少し多く作ってしまったので」


嘘だとカタリーナは思った。鍋の大きさを見ればわかる。最初から二人分作っている。


帝国の礼法が、一瞬、カタリーナの口を閉ざした。格下の者から食事を受けることの意味。施しへの感謝。恩の発生。


——ここは帝国ではない。


「いただきます」





スープは、質素だった。塩加減は控えめで、具は柔らかく煮崩れていた。


でも温かかった。四日ぶりの温かい食事だった。


「美味しいです」と言いたかった。言えなかった。帝国語では、「美味しい」を格下の者に向けるとき、それは「評価する」になる。


行政語にはその区別がない。「美味しい」は「美味しい」だ。


カタリーナはスープを飲み終え、器を置いた。


「……ごちそうさまでした」


「お粗末さまでした」


沈黙。二人とも、行政語では「食後の雑談」の仕方がわからなかった。


カタリーナが「私が片付けます」と言い、テレーゼが「いいえ、私が」と言い、結局二人で器を洗った。


台所は一人でやるには広すぎ、二人でやるには狭かった。





五日目。カタリーナは仕事の帰りに市場で野菜を買った。玉葱、人参、蕪。


帝国であれば、買い物は使用人の仕事だ。「夕食の材料を自分で選ぶ」のは初めてだった。


貸間に戻り、台所に食材を並べた。テレーゼが仕事から帰ってきた。台所の食材を見て、少し目を丸くした。


「カタリーナさんが?」


「市場で買ってきました。でも、切り方がよくわからなくて」


テレーゼはエプロンをつけた。


「こうです。蕪は四つに。人参は斜めに」


カタリーナは見よう見まねで蕪を切った。形はいびつだった。


「もう少し薄い方が、火が通りやすいです」


「こうですか」


「はい。そのくらいで」


帝国語で「ありがとう」が口から出た。カタリーナは一瞬止まり、行政語で言い直した。


「ありがとうございます」


テレーゼは手を止めた。


「今の、帝国語ですか」


「……はい。つい」


「きれいな響きですね」


カタリーナは驚いた。帝国語を「きれい」と言われたことがない。帝国では当たり前の言葉だから。


「そうですか」


「はい。音が、柔らかくて」


テレーゼは人参を刻みながら、少し考えるような顔をした。


「古聖語とは全然違います。古聖語は……もっと硬い音です」


「古聖語は聞いたことがありません。帝国では学ぶ機会がなかったので」


「お祈りのとき、聞こえていませんか」


「聞こえています。でも意味がわからないので……」


「意味は、私にも全部はわからないんです」


テレーゼは淡々と言った。


「音として覚えているだけで」


カタリーナはその言葉をそのまま受け取った。修道女が祈りの言葉の意味を「全部はわからない」と言うことが、どういう意味を持つのか。カタリーナはまだ知らなかった。





一週間目の終わり。


食事は、いつの間にか共同の作業になっていた。カタリーナが市場で食材を買い、テレーゼが調理し、カタリーナが下ごしらえを手伝う。食事は居間のテーブルで、向かい合って食べる。


帝国にいた頃の食事とは何もかも違った。品数は少ない。味付けは質素。給仕はいない。食前の祈りは、テレーゼだけが黙って唱え、カタリーナは黙って待つ。


でも、温かかった。


毎晩、温かかった。

スピンオフ元の作品です。スキマ時間にぜひ

「判断しない」女王エリザベータ 〜前例がないので規定を作ります。様式第1204号、発動〜

https://ncode.syosetu.com/n1932ls/

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