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午後四時のバターコーヒー

作者: あさい恵

《午後四時のバターコーヒー》

午後四時。

駅前のカフェの窓際席は、ちょうど陽が傾き始める頃合いだった。


私はいつものように、バターコーヒーを注文する。

最初は健康に良いと聞いて試しただけだった。けれど、そのほのかに油の浮いたコーヒーの味が、いまではすっかり身体に馴染んでしまっている。人間の舌というのは、意外と順応性が高いものだ。


今日もノートパソコンを開いて、仕事の続きをしていた。

退職して半年、今はフリーランスのライター兼広報として、中小企業や医療関係のWebメディアに記事を提供している。ライティングの合間にクライアントのSNS投稿案を整えたり、イベントの取材に出かけたり。自分のリズムで仕事ができるのはありがたいが、逆に言えば、仕事が終わる時間も自分次第ということでもある。


キーボードの音だけが、小さくカフェに響いていた。

外では誰かが犬のリードを引いて歩いている。

午後四時の空気には、どこかやさしい疲れが混じっている。


 


LINEが鳴ったのは、ちょうどそんなときだった。


「今日、午後6時、空いてる?」


送り主は森田くん。3つ年下の元・同僚。

営業部だった彼とは、よく社内の飲み会で顔を合わせていたけれど、特別仲が良かったというわけでもない。ただ、不思議と、彼との会話はいつも自然だった。


返信の手が止まる。

6時――悪くない時間だ。まだ原稿の一部は残っていたし、今日の私は会う人を想定していないカジュアルな格好だった。髪も朝のままで、口紅すら塗り直していない。


でも、指先はなぜか「空いてるよ」と打ち込んでいた。


そういうものなのだろう。

「会いたい」という強い気持ちがあるわけじゃない。けれど、「会いたくない」と断る理由も特にない。

恋でも、友情でもないその中間地点のような感情。年齢を重ねるごとに、そういう関係が増えていく。


 


午後6時、待ち合わせたカフェは、丸の内の雑居ビルに入っていた。

こぢんまりとした店内。テーブルには揺れるキャンドルライト。

森田くんはアイスティーを前に、スマホをいじっていた。


「久しぶりです」

「半年ぶりだね」


たったそれだけの会話で、空気がすっとなじんだ。

言葉がなくても、黙っていられる距離。そういう人は少ない。


「どうして今日、誘ったの?」

私が訊くと、森田くんはストローをくるくると回しながら言った。


「今日、駅前で変なカフェを見かけたんですよ。ビーガン対応の抹茶専門店とかいうやつで。なんか、先輩が興味ありそうだなって」


「そこじゃないんだ?」


「満席でした」


私たちは笑った。

変わらない、他愛のないやり取り。

でもそれが、今の私にはありがたかった。


 


「最近、どうしてるんですか?」と彼が訊いた。


「会社辞めて、フリーでやってるの。ライターとか、広報の仕事とか。今は記事の納品が少し残ってるんだけど……サボっちゃった」


「すごいですね、自分でやってくって」


「すごくはないよ。むしろ、逃げたのかもしれない」


「逃げた、って?」


私は、コップの水をひと口飲んだ。

氷がカランと鳴って、ほんの少しの間が空いた。


「決められた枠の中で、上手に生きるのが、もうできなくなっただけ。

でも、自由になったらなったで、孤独とか不安とか、そういうのもちゃんとついてくるのよ。全部、自分の責任って」


「それでも、なんか……いいですね。そういうの」


「何が?」


「自分で選んだ感じ。誰のせいにもしてない感じ」


彼の言葉に、少しだけ息をのんだ。

そういうふうに言われたのは初めてだったから。


 


帰り道、森田くんと一緒に駅まで歩いた。

駅の改札の前で、少し立ち止まる。

彼は言った。


「先輩、相変わらず、ちゃんとした人ですね」


「ちゃんとしてないよ」


「ちゃんとしてないところも、ちゃんとしてる感じです」


「なにそれ」


「……わかんないです」


ふたりして、笑った。


彼は改札を通り、手を軽く振って去っていった。

私はそのまま駅前のベンチに腰を下ろして、カバンからノートパソコンを取り出した。

原稿の続きを書くつもりだった。でも、しばらくはただ、タイピングした画面を眺めていた。


風が、ほんの少し、春の匂いを運んでいた。

そんな気がしただけかもしれないけれど、私はそれを信じてみることにした。


 


LINEがひとつ届いた。


「さっきの抹茶カフェ、また行きましょう。今度はちゃんと空いてる日に」


私は、スタンプで返した。

湯気の立つコーヒーカップのアイコン。それだけで、今はじゅうぶんだった。


恋ではないけれど、関係はここにある。

そんなぬるい温度が、いまの私にはちょうどいい。



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