天高く肥ゆる秋≪前編≫
「あら?」
それは唐突な気づきでした。
ワンピースがきつい。
「そんなはずは……⁉」
慌てて姿見の前に立ち、自分の姿を見てみます。そこにはいつも通りの私がいます。しかしながらそれは現実から目を背けているとも知っていました。
毎日鏡を見ていれば、それはいつだっていつも通りでしょう。そう簡単に見目が劇的に変化することはありません。
ですがラクスボルンにいた頃と比べてどうでしょう。
確実に丸くなっています。
顔の輪郭は丸に近く、二の腕はふにふにと柔らかい。そして何よりお腹周りが確実に太ましくなっています。
戦慄を覚えながら恐る恐る腹回りに手を伸ばします。
「……っ!」
つまめます。結構しっかりと。
これは皮膚、という言い訳はあまりに苦しいものでした。明確に如実に、ここに贅肉が鎮座ましましています。
思わず膝から崩れ落ちそうになりますが、今日は出勤日。サボるわけにはいきません。
項垂れるメンタルはそのままにてきぱきと身体は動いて出勤の支度を進めていきます。
“出勤する”ということが日常となり早2年。公爵令嬢という身分から離れ、一国民として平民として生きるわたくしには公爵令嬢であったころの責務は何もありません。
厳しい勉強も、マナーもダンスもありません。
そう、厳しい食事制限も。
コルセットから解放されたわたくしは“食”という楽しみを知りました。
春夏秋冬、各季節に旬を迎える食材。ダーゲンヘルムの伝わる古くからの料理から巷で流行りのスイーツ。大通りのパン屋さんの焼き立てパン、陛下が連れて行ってくださる大衆食堂の料理、アイリーンさんが連れて行ってくださるおしゃれなカフェ。
食だけが娯楽ではありません。食事をすることもまたコミュニケーションであり、同じものを食べ、同じものを感じることで得られる幸福もあります。
もっとも、腹回りの贅肉を前にすればどれもこれも苦しい言い訳にしかなりません。
罪悪感を胸にせっせと働いているとすぐに昼12時の鐘が鳴りました。
普段なら一息つきつつワクワクとお昼ご飯を広げるのですが、今日ばかりはそんな気持ちにもなれませんでした。包みから顔を出すサンドイッチも、心なしかわたくしのことを責めているように見えます。
「あら、どうしたのシルフ。元気ないじゃない」
「アイリーンさん……」
「私のガトーショコラ一切れあげるわ。元気だして」
「アイリーンさん……!」
差し出されたおいしそうなガトーショコラに今度こそ頭を抱えました。しかしながらどこまでも正直なお腹は、お腹が空いたと言わんばかりに音を鳴らします。
ちらり、と視線をあげて前に座るアイリーンさんを盗み見ます。
顔の輪郭はシャープで首もほっそりとしていますし、ウエストもきれいに締まっています。テーブルにはクロワッサンとハムのサラダ、それからガトーショコラ。
「なあに、あんまりじろじろ見ないでよ。恥ずかしい」
「も、申し訳ありません。その、アイリーンさんは今日も美しくいらっしゃるので……!」
「何よ急に。ガトーショコラもう一切れあげちゃう」
「そうじゃ、そうじゃないんです……! わたくしはこれ以上まるまるとするわけには……!」
「まるまる?」
目を丸くしたアイリーンさんに今朝気づいてしまった衝撃の事実について説明することとあいなりました。
わたくしの悲壮感溢れる語り口とは対極に、彼女は盛大に吹き出し笑い飛ばしました。
「い、今更過ぎるわ……!」
「今更!? 待ってください! 以前から丸々としていたとお思いだったんですか!?」
なぜ教えてくれなかったのかとショックを受けますが、アイリーンさんはまるで気にした風でもなく穏やかに微笑みます。
「だって最初のあなた、すっごく痩せてたんだもの。顔はお人形みたいに白くて、手足は少し叩いたら折れちゃいそうなくらい華奢。肩は骨、お腹は内臓が入っているか心配になるくらい」
「そこまででは……」
「それほどなの。だから私、あなたがおいしそうに食べるのも、少しずつふっくらしてるいのも好きよ。昔のあなたに何があったかは知らないわ。でもきっと今の方が幸せなはず。違う?」
細められた目が、あまりにも優しいせいで、どこか気恥ずかしくなってしまい、まだ手を付けていなかったサンドイッチに齧り付きました。昨日の夜のうちに準備しておいた、自分で作ったサンドイッチです。
ただの栄養補給ではなく、おいしいと味わう食事。おいしいと、誰かと分かち合う時間。用意されたものをただ食べるのではなく、自分で選んだ食材で、自分のために作る食事。
それはどこをとっても幸福なものでした。
ラクスボルンにいた時と比べれば、どれも廉価であったり質素なものでしょう。けれど高価であることが幸福そのものというわけではないことはもうよくわかっていました。
「そ、それはそう、ですが。……節制できず、食べ過ぎることは怠惰で、罪深いことです。太ることはその証左でしょう」
「誰かに、そう言われたの?」
「え?」
怒っているわけでもなく、けれどどこか淡々とした言葉に顔をあげます。
言われたことがあったかもしれない。けれど具体的には思い出せませんでした。
そう言われたのか、そう言われてしまうと言われたのか。
サイズが合わなくなったドレス。
苦しく締め付けるコルセット。
どれも、わたくしを責めているように思えました。
美しくあるべきと、そうあるべきと。
言われたのでしょうか、あるいはそう言い聞かせていたのでしょうか。
「あのね、私最近あなたと話をするときに決めてたことがあったの」
「な、なんですか?」
急に話が変わったことについていけなくなったわたくしを置いて、アイリーンさんはゆっくり言葉を選ぶように口を開きました。
「あなたに教示するようなことは極力しない」
「教示、ですか?」
「ええ、余計なお世話だとわかりつつ、つい説教臭くなっちゃうの。嫌になっちゃうわ。だからそうしないように気を付けてたの」
「そんなことありません! アイリーンさんにはいろいろ教えてもらっていて、とても感謝しています」
「そういうところよ」
アイリーンさんはどこか呆れたようにクロワッサンを小さくちぎりました。
「あなたはまっさら。きっと私が教えたことはなんだって飲み込むわ。上質な紙にインクが染み込むように、あなたはそれを学ぶでしょう。でもね、正解がそれだけって思って欲しくないの。私はこんな性格だから、なんでも自信満々に言い切っちゃう。でもそれが正解とは限らない。私が間違っていることもあるし、そもそも正解がないことも多いわ」
そんなことない、と言おうとして口を閉じました。その言葉こそ、アイリーンさんが危惧していることなのです。
「それでも、今いくつか言わせてちょうだい」
「はい?」
「本当に自信のある、常識的なことだから教えてあげる」
遠回しに相も変わらず常識がないと言われてしまいました。
「いいこと? 人の体形や見た目に口出しするのはとんでもなく、無礼で非常識なことよ。値踏みするように見ることも、それも口に出すことも、下劣で品性の欠片もないわ。あれこれ言ってくるような奴がいたらそいつのことは無視なさい。意味も価値もない、ただの音の羅列よ」
「は、はい!」
「それから、あなたが太ってるか太ってないかと言えば太ってないわ! 最初が不健康なまでに痩せてたのよ! そうでなくても、健康に害することがない限り、太ってるかどうかなんて気にしなくていいの。もちろん、太ることが良いとは言わないわ。でも痩せてることが絶対正義でもない。あなたが幸せに、ストレスなく健康的に過ごせるのが一番なの」
焦った心に沁み込むように、彼女の言葉がスルスルと自分の中に入っていくようでした。
少なくとも、今のわたくしは誰にも痩せていることも、美しくいることも求められてはいません。そこに責務もなければ、気遣う相手もいません。貴族令嬢なんだから、王太子妃なのだからなどと、美しくなければならない理由も何もありません。
ただシルフとして生きていけることこそが、このダーゲンヘルムでの喜びの一つであったのに、わたくしはそれを失念していたようでした。ただのシルフであることに、美しさなど誰も求めてはいないでしょう。わたくしがそれに、捕らわれていただけで。
「じゃあシルフ、ガトーショコラはいる?」
「た、食べます! いただきます!」
「それからあとでほっぺをもちもちさせて」
「はい! ……え、もちもち?」
「あなたのもちもちは癒しなの。太ってないわ。若くて健康的でとても可愛らしいわ。もちもちさせて」
「もちもち……?」
勢いでわたくしをもちもちさせる約束をしてしまいましたが、どういう意味かもよくわからないまま疑問符を浮かべているとカウンターからフィアーバさんの声が聞こえてきました。
「アイリーンさん、君にお客さんが来ているけど、通して良いかい?」
「ええ、どうぞ。どうせアコニートでしょう」
「どうせとはなんだ、どうせとは」
聞き覚えのあるどこか不機嫌そうな声色に背筋が伸びます。
「こんにちは、アコニートさん!」