明けの明星
とある大病院の診察室、1組の患者と担当医が向かい合って座ってた。
「先生・・・悠ちゃんはどうでした・・・・・。家でも相変わらずな感じで・・・・」
「引き続き異常は見られませんね。決定的な治療法が未だ見つからず一同大変申し訳なく思っております。」
「やはり幼い頃何かしらのショックみたいなものが今の精神に影響を・・・」
「精神的な問題も勿論考えていますが脳の状態もなんら正常ですし、現段階で確実な事は何も・・・。今後急な発症も考えられますし、まだ安心はできないですね。」
「・・・・・はい・・・・・。」
上島悠華は17歳で隣町の高校に通う女子高生である。彼女は幼少期から失感情症や失語症のような症状を患っており、周囲と意思交換が取れずに暮らしてきた。表情の変化が一切確認できないため扁桃体や言語中枢の問題が懸念されたが目立った外傷は無く、これまで多くの医者たちを悩ませてきた。幸いな事に植物状態とはならず外部からの一方的な意思疎通は可能でそれに応じた行動を取ることができる。指示は通るということで特別支援学校や要介護の環境に身を置く事はなく通常の進学校に通っている。治療の一環としてできるだけ自然な学校生活を送らせた方がいいという医者の指示である。ただ両親の心労は尋常ではなかった。
「悠ちゃん、今日も疲れたでしょう・・・。」
「・・・・・・・・・」
「今日の夕飯はどうしようかしら。途中スーパーに寄らせてちょうだいね。家に食材が無かったはずだから。」
上島恭子は上島悠華の母親である。当時孤児院に預けられていた悠華を彼女が引き取ったのである。子宮系に問題があった恭子は出産を諦めていたが、子育てを長年夢見てきた恭子はどうしても妥協したくなかったのだった。そこで里親としてマッチングしたのが悠華である。自らと同じように障害を抱えている悠華に強い同情を抱き里親として迎え入れる事になったのだった。長年憧れてきた子育てに在り付けた彼女だったが育児の大変さを痛感し、旦那と協力しながらなんとかここまで悠華を育て上げてきたのだった。
「悠ちゃん・・・私は買い物してくるけど一緒に行く?それとも待ってる?」
「・・・・・・・・・」
当然悠華から反応は無い。しかし恭子はあえて質問をした。そうすることで仮にも会話している気持ちになれるからである。
「じゃあちょっと行ってくるからね。すぐ戻ってくるから。何かあったらすぐに呼ぶのよ。」
恭子はそう言って悠華の親指にボタンを添わせるようにポケットベルを渡し、何度か車のロックを確認して去っていった。道中一貫して外を眺めていた悠華は、診察の疲労もあり静かに目を閉じた・・・・・・
「やあ・・・・・。」
「あなたは・・・この前の・・・・・」
「見てごらん。向こうの森があんなに小さい。」
「・・・・・・・・・うん・・・・・・」
悠華は少々戸惑っていた。数時間前、病院の検査室で麻酔によって眠っていた最中見た夢と同様の光景が目の前に在るからである。普段彼女が見る夢で場所や登場キャラクターは不規則で、連続して同様の場面が現れることはほぼない。まして同じ場所、配置、人物が揃う確率は連続してロイヤルストレートフラッシュを引き当てるようなものだ。考え込む彼女にはお構いなしで少年は話しかけてきた。
「1人で退屈してたけど君のお陰で違う感情が手に入ったよ。」
回りくどい言い回しに些か疑問を持つ悠華だったが、そんな思いはすぐに消えてしまった。
「私よく夢を見るの。色んな夢。ただ、そこにヒトは出てこないんだ。何だかよく分からない生き物?なら見た事あるけれど会話はできないの。だから今すごく驚いてる。驚いてるし、感動してる。上手く伝えられない・・・。」
少年は終始微笑んで話を聞いていた。なんとも愛らしい表情だ。モテる男子っていうのはこんなんだろうなと悠華は思った。
「そうだ、あなたのことなんて呼べばいいのかな。あ、わたしは悠華っていいます。」
「優しい名前だね。ごめんね、僕は名前、持ってないんだ。」
「え?」
「正確には分からないんだ。僕はどうしてここにいるのかな。」
困惑する悠華とは対照的に少年は相変わらず微笑ましい表情を保ち一点の曇りもない。
「君はこころの存在を信じるかい?君も僕もこころは持ってるのかな。」
「前も同じようなこと言ってたね。心って漠然としたものだから誰もはっきりと分からないと思う。ただ私は心って素敵なものでみんなそれぞれ持っていると思うよ。」
少年は肯定とも否定とも取れない表情を浮かべて微笑んだ。悠華はその掴みどころの無い少年の振る舞いになんとも言い難い感情を抱いていた。
「君の考えが聞けてうれしいよ。僕1人だと永遠に分からないからね。」
少年は続けて言った。
「前にと言っていたけれど、僕とは初めましてじゃないんだね。」
悠華は一瞬驚いたがすぐに冷静さを取り戻した。所詮は夢の中での出来事、自分以外は単なる夢の構成要素でしかないと分かっていたからだ。しかし今までこの抽象的な世界で誰かと会話の経験が無かった彼女にとって、少年との出会いは狂喜乱舞の出来事だった。そのため少年もこれまで同様に虚像であると分かるや否や落胆を隠しきれなかった。悠華は気を取り直して話題を変えた。
「そういえば、私たちって似てない?」
「どんなところだい」
「例えばこの髪とか。お互いに白髪まみれよ。若いくせにね。」
「お互い苦労してるんだね。」
悠華は冗談を言ったつもりだったが少年は歯牙にも掛けず切り返した。この話題についてもう少し話したかった悠華だったが、喉まで言葉が出かかって止めた。
「あなた名前がないなら、今新しく考えない?」
「それはいいね。」
空振り続きの発言が初めて少年に響いた気がして悠華は嬉しかった。
「何がいいかな・・・・・どんな名前がいいと思う?」
「僕は知識がないから君が考えておくれよ。君は頭がよさそうだから。」
率直な賞賛で悠華は少々照れくさくなった。こんな風に誰かに褒めてもらうのは初めてだった。
「そうだな〜〜・・・・・。私も考えるけどあなたも考えてね。」
「もちろん。」
あれやこれやと2人で考え込んでいると悠華が話し始めた。
「わたしね、あなたと初めて会ったとき気持ちが晴れていくのを感じたの。まるで春が来たみたいだった。」
「それはよかったね。」
「他人事みたいに言ってるけど本当のことだからね。あなたは私に春を連れてきた。だから春渡っていうのはどうかな。春を渡す人・・・」
「素敵な名前だね。大事にするよ。」
少年は満足そうな笑みを浮かべている。悠華は自分の話した内容が、後からまるで告白のように思えてきて恥ずかしくなった。別の相手であったならば大いに冷やかされていたかもしれない。
「じゃ、じゃあよろしくね。春渡くん。」
「春渡でいいよ。よろしく悠華。」
「お待たせ〜〜〜。」
お互い挨拶を交わしたところで突然空から恭子の声が聞こえた。恭子の言葉が次第に大きなって頭の中に響いてきた。
「お待たせ、悠華ちゃん。色々見てたら遅くなっちゃった。」
重そうな買い物袋を両手に下げて急いで戻ってきた恭子は後部座席に荷物を入れながら悠華に話しかけた。運転中に買い物袋が崩れ落ちないように上手く配置している。運転席に座る頃には駆け足の反動による息切れも落ち着いていた。
「じゃあ帰りますか。今日はお父さん当直で帰れないみたいだから2人でご飯食べようね。」
家に着いた恭子は先ほど仕入れてきた惣菜をメインに素早く料理を済ませ、21時には2人とも夕飯を食べ終えていた。先に入浴を済ませていた悠華は自分のベッドに着くと目を閉じた。夕方仮眠を取ったせいかすぐには入眠できなかったが、15分もかからず眠りについた。
悠華は目を覚ました。そこには部屋の天井ではなく青空が広がっている。
「やあ。来客かな。」
振り返るとそこには見慣れた少年が腰掛けている。
「こんにちは。私は悠華。あなたは春渡。」