退避
リリスは女と宿に向かっていた。
雲が出ていて、月はおろか星も見えない。足元を照らすランプの灯は、薄暗い。
宿への道を歩きながら、女はリリスを見めていた。そして「あなたはルカの隣に常に居るんですね」と、女はいった。そして、笑顔で取引しようと言ってきた。
取引か。リリスはどうせ、断れないと思いながら、その内容を聞いた。
「あの子は鈍い。現に会う約束をした人を、すっかり忘れています。私も色々忙しい中、ルカの面倒をみるとなると、正直、憂鬱です。」
「だから、あなたに間に入ってほしいのです。」そう言いながらリリスを見つめて、うまが合いそうだしと、乏しい明かりのなかで、笑顔で言った。
この女は。私にルカを見張れと言っている。
リリスは、見返りはなんだと聞いた。
「あなた方の安全を保障しましょう」
「あなた方」ルカ以外だろう。ティファニア達が無事に帰ることが出来るなら、それに越したことはない。しかし、ルカはどうなる。
女は話を続けた。
「私は監視をするだけです。それに、剣に呑まれたあの子を相手をするつもりはありませんよ。斬られるのがオチです。正直、この仕事は私の手に余ります。」そして、仕立て屋を続けたい。女は自分の服の袖の刺繍を愛でながら言った。
薄緑の若草をかたどった見事な刺繍。控えめでいて、全体を際立たせている。
よくしゃべる。本当に人を捨てた者なのか。リリアは聞いてみた。
「どこの国の者だ。剣に呑まれるってなんだ。こっちも知らないと、取引に応じられない」
女は他愛もない会話をするように言った。
「私は西の国の者です。剣士の国ですよ。辺鄙な土地にあります。夏場の埃が酷いんですよ。洗濯が大変で、困ります。」
「私は王の直轄です。まさか、東で寝ていろと言われるとは、思いもしませんでしたが。だって、遠いでしょう。」
「ルカは天性の剣士です。十人とは言わず、二十人でも斬りますよ。でも、暴走して、もしや仲間も斬るのではと王は心配しているようです。」
そして、ため息交じりに言った。
「ほんとは、担当部署がやるんですけど、ほら、彼らは抜けているでしょう。だから、保険で私がたたき起こされたわけです。迷惑な話ですよ。」
西の国。剣士の国。確かに聞いたことがある。東と西とは交易は少なく、情報に乏しい。傭兵で成り立っている国があるのは聞いたことがある。ルカはその国の傭兵で、強いが暴走すると見境がない。だから監視をしている。そういうところか。
ではなぜ、ルカはここに居る。リリスは女に尋ねた。
「ルカは強すぎます。危険なんで、遠くに、そうですね、左遷ですよ。でも、当たりを引いて、国で行方を追えなかったならず者を見つけて、ちゃんと斬りました。」
「しかも、あと何人かいるとわかりました。大手柄ですよ。でも国はざわめています。ルカでいいのか。そこで私が、繰り返しますが、起こされた。本当に迷惑な話です。」
この女も左遷されたのだろうとリリスは思った。
しかし、領地の権力争いの次が、西の国のならず者探し。しかも、ルカはいつ暴走するか分からない。
リリスは、皆が相当に大きな厄介ごとの渦中にいると思った。
慎重に動かないと、全員が川に浮く羽目になる。
しかし、安全の保障は魅力的だ。リリアは条件付きで取引に応じると言った。それは、ルカには手を出さない事。
意外にも女は快諾した。自分は見ているだけで、手を出すつもりは全くないと。
ただし。個人間の取引だから、国がやることには、関知しないと付け加えた。
契約は成立した。
そして、リリスは気になっている事を聞いた。なぜ、私に全部話すのか。私が断ることを考えなかったのかと。
女は不思議そうに、リリスの顔を見つめた。黒い瞳にランプの灯がわずかに映る。
「断ったならなら消せばいいだけでしょ。」
「消せばいい」。そう言う女の目は、子供の様に純粋無垢だ。やはり人ではない。
ルカにも、似た感じがする。「斬ればいい」
リリスは、剣士の国とやらは、ろくでもない国だと思った。
宿の中で大きな音がした。
ガラスが割れる音、少なくとも人が倒れる音。そして、多くの人々が集まる音。
カイン。そしてガーランドの声が聞こえる。
ルカとミレイラは、一緒に部屋を出た。
物音を聞きつけて、騎士の老人もできた。
ミレイラは騎士の老人に母のそばに居るように言うと、下階に向かった。
騎士の老人はミレイラも、ティファニアの居室に居るように言うと、はっきりと言った。
私にはルカがいる。
ルカとミレイラが、人だかりの方へ行くと、カインは誰かと話している。宿に入る時に出迎えた男だった。男はなにか怒っている様子だ。
カインはルカとミレイラの姿を見ると、男との話を切り上げ、二人を人混みをかき分け廊下に連れ出した
カインは、飲み物に毒が入れられたと言った。そして、何か食べていないか、二人に確認した。
即効性なら、もう皆、倒れているはずだ。しかし、遅効性なら早く手を打たなくてはならない。
二人は何も口にしていないと言い、ミレイラは母のところに行ってくると言うと、階段を駆け上がった。
宿の主人が大声で言った。大したことではない。安心してくれと。そして、自室へ戻るように促した。
そして、カインに近づくと、この件は駐留兵に申し出でると言った。
まずい。事情聴取される。宿の主人もティファニアの事を口に出すだろう。
駐留兵がどこの手の者か分からない。毒を盛った連中は、騒ぎを起こすだけでも良かったのだ。
カインは、後手に回っていることに、苛立ちを覚えた。
目の前のルカは、相変わらずの無表情だ。こんな状況に疎い。ミレイラの護衛は務まるのか。
仕事を受けたのは安易すぎたか。
カインが眉間皺をよせて、悩んでいると、リリスが散歩から帰ってきた。
リリスは食堂を見渡すと、確かに散らかっているねと、つぶやいた。
そして、縄で拘束され、うなだれて座っている給仕と、壁に張り付いた料理人。
料理人は生きているようには見えない。
カインはリリスに事情を話した。給仕は駒で、料理人が毒を渡した。
毒は宿の主人に渡したが、少量、抜き取っている。そう言うと、紙の小さな袋をリリスに渡した。
それを懐に入れたリリスは、小声で、生け捕りと言っただろうとガーランドに詰め寄った
ガーランドは、毒を使う人間など生きる資格がないと、悪びれずに言い返した。
リリスは、あの女が言う通り、「大丈夫」だったが、騒ぎが大きすぎると思った。
そして、カインに言った。
安全な場所がある。ティファニアとミレイラだけ、そこに預ける。