過去
アリアは、ルカの寝姿をみながら思い出していた。
二年前、彼女は監査役の長に呼び出されていた。王城の隣にある文官が詰めている建物の一室に監査役達の部屋がある。いつも、出払っていて誰もいない。
部屋に着くと扉をノックした。居残りの監査役の一人が出てきて、アリアを一瞥すると、長は屋上に居るとだけ告げて扉を閉めた。
今度、あいつを見たら平等に両頬を打ってやろう。
屋上に上がると、監査役の長がいた。女の給仕とテーブル、椅子が二脚おいてある。
爽やかな初夏の風が吹き、王城を見上げることが出来た。目を移すと、王都全体と広がる荒野が一望できた。
小さいが、他国からの技術移転で改良した大地で、青々とした野菜を蓄えた田園が見える。
長はグリンデルと言う。初老の男で、いつも眉間に深い皺がある。
グリンデルはアリアに椅子に掛けるように促した。給仕がお茶を注ぐ。隙がない。おそらく間者だろう。グリンデルと一緒のところをみると、位は高い。お茶は貴賓用のもので、高く深い香りがした。
グリンデルも椅子に座った。
アリアはお茶に手を付けづに「暇じゃないんだけど」と、優しく艶のある笑顔で言った。
美しく波打つ黒髪が、風になびく。
グリンデルは言った。「頼みがある。ルカの事だ」
ルカ。最年少の執行人。初仕事で序列二位の剣士を斬った少女だ。
アリアは「知らん」と微笑みながら言った。
グリンデルは続けた。
「彼女の父親は、私の友人で盟友だった。当時、同じ剣士であった私と、この国の剣士の名声を広げることを誓い合っていた。彼は派遣先の国で紛争が起こり、その平定に赴いて落命した。清廉で思いやりのある、優秀な剣士だった。妻と子供がいた。彼女の母も優秀な剣士だった。しかし、父親と違い、剣術の極みを求めて、戦いに貪欲だった。」
アリアは冷め始めたお茶を、黙って少し口にした。
「前任の長は彼女を執行人に任命した。それと同時に、彼女はルカに興味を失った。私はルカを引き取った。私は彼女を文官にしようと思ったが、血筋だろう。天性の剣士だった。一度、型をみれば、たやすく覚え、年上の剣士に引けを取らなかった。そして心優しく、奢らず誰にでも剣術を教えた」
「その噂を聞いた母親は、ルカを引き取りに来た。断る道理もなく、私は彼女を母に返した。そして間もなく私は王から監査役の長に任命された」
グリンデルは、別れ際にルカが泣いていたのを、思い出していた。
「ある時、母とルカは失踪した。何も罪のない剣士を、序列一位の剣士を二人斬ったのだ。追った連絡役や執行人は、皆、斬られた。そして、やっと見つけたとき、ルカは母の骸の隣で座り込んでいた。返り血を浴び、傷だらけだった。右ほほに深い傷が刻まれていた。母の骸は胴から胸にかけて切り裂かれていた。周りには血が飛び散り、苦しんで絶命したのか、這いずり回った跡があった」
「彼女は感情を失っていた。私は彼女を再び引き取ったが、何もできなくなっていた。しゃべること、笑う事、そして、指示をしなければ食べ物にすら手を付けない。」
アリアは、母との一緒の時間は、想像を絶するものだと思った。
「ようやく、身の回りの事ができるようになった頃、ルカが私に働きたいと言った。そして、剣しか私には無いと言った。派遣される剣士は、雇用主との関係を良好に保ち、時には自分の判断で行動しなければならない。彼女には無理だと思った私は、悩んだ挙句に彼女に執行人の職を与えた。」
ここまで、黙って聞いていたアリアは、笑顔を無くしていた。
「それで、私に何をしろと。」
「君は執行人の中で、唯一、家庭を持ち、母である。彼女の感情を取り戻し、別の道を行く選択肢を与えてほしい」
アリアはテーブルを叩き上げ席を立った。空の茶器がテーブルから落ち、床に砕け散った。
自分で執行人にして、都合よく笑顔の少女に戻せと言ってくる男に憤慨した。
給仕は黙って、床に散らばった茶器の破片を拾いながら言った。
「私にはルカの母の監視をしていた期間がありました。母は彼女の開花していく才能に歓喜し、剣を極めるように毎日、厳しい訓練を行っていました。そして、お前には剣しかないと。一振りの剣になれと言い聞かせていました。あの狂気に満ちた目は忘れられません」
新しき建国王の言葉。「一振りの剣」。こうして聞くと悪寒が走る。
「私は王の直轄です。王は彼女を危険人物とみています。序列一位の剣士を斬ったのは、彼女と疑いもしています」
報告次第では、少女は排除されるというのか。
アリアは踵を返して、その場を去った。
ルカ。会ってみたい。しかし、会ってどうする。私に何ができる。
アリアは自分の子供の事を思った。もし、わが子が「死」しかない道を歩むと言ったら。助けを求めていたら。私はどうする。
とりあえず、家に帰って息子の顔をみて癒されよう。今日は私が料理を振る舞おう。思いっきり抱きしめよう。