生きようとする
広間の男は何も言わずに、後退する剣士に目もくれずにルカに正対した。
細身の件はランプの灯りさえ眩く反射する。
一目で幾度も鍛えられ、研ぎ澄まされた剣と分かる。
男は黒髪に黒目がちの目をルカに向けていいる。
そして、抜いた剣を構えようとしない。
ルカは剣を正中に構えた。相手から圧力を感じる。
動けば必ず剣に捕らえられる。
最初の一手が思い浮かばない。
強い。そして誘い込もうとしている。
ルカの中に喜びの感覚が芽生える。男を斬り裂き、自分が斬り裂かれる姿が頭を過る。
リリスにミレイラの事を頼んだ時。
その時からこの感覚はあった。
剣を握る手が黒く染まっていく。それが全身に広がってゆく。
まるで獣になりゆく私。黒い私。
ルカの心が黒く染まった瞬間、大きく踏み込んだ。
相手の剣はルカの腕を切り落とす軌道描きながら振りあがられた。
ルカの視界には相手の心臓を貫く自らの切先しか見えない。
ほんの一瞬だけルカが速かった。
男は半身になってルカの剣をかわすが、胸の皮を斬り込まれた。
ルカは男の剣をかわさない。
男がかわした分だけ、腕に深い傷を刻まれる。
ルカは斬られた感覚を覚えず、その場で踏みとどまると力任せに相手の首を狙う。
踏み込む力が体を捻じ曲げ体中から軋む音がする。
男は身をかがめると、大きく飛んでルカの剣をかわすが、背中にまた一筋の傷を入れられる。
また一歩、ルカは男を追いように剣を振り上げる。
男はルカの懐に飛び、剣を打ち払うと剣を返して首に剣を振り抜く。
ルカは構わず打ち払われた剣を男に胴に斬り込む。
男がかわした分だけルカの首からずれた剣が肩を切り裂く。
ルカの戦い方ではない。
目に入る相手の急所を目掛けて剣を叩きつける。
斬られても怯まず剣を振り続ける。
ルカの中の黒い者が、その身を斬られるのと同じように、相手を斬っていけることに歓喜している。
だが、ルカは知っていた。
男の圧力を上回る剣撃で剣を振り続ける。それがルカの黒い者の役目。
男は次々と打ってくる剣を弾き、女の皮膚を肉を斬り裂き、自らも斬ら裂かれる中で冷静に女の隙を伺っていた。
動きはいいが所詮は獣だ。いつか我を見失い隙が出来る。
ルカと男の斬り合いは続く。
剣の打ち合い。鉄同士がぶつかり合う鈍い音だけが響き渡る。
打ち合う時間が長く長く続く。剣の打ち合いの音は、まるで鉄の棒を交互にぶつけ合うような音に代わっている。
男は思った。この女は獣ではない。
何か得体のしれない何かだ。自らの命を顧みない剣技ではない。
深く暗い情念が剣を覆ている。
ルカは心の中で静かにたたずみ、目を閉じている。
自身が斬り裂かれながらも男を追っている姿が見える。
きっと、私だったら初めに斬られていた。
この子が血路を開いて、初めて斬り合いが始まった。
この子は、こうして舞台を自分で作って命果てるまで踊り続ける。
ルカは目を開くと、もう一人の自分が目の前にみた。
剣を鞘に収め、ルカを無言で見つめている。
白い私だ。
彼女は黒いルカを見た後、ルカに向きなおり見つめる。
ルカは自分の姿をみた。
腕に足に胸に傷を負い、服は血で染まっている。
白い私が、隣を通り過ぎる。
彼女は黒いルカの背後に付くと、剣の柄に手を添え静かに構えた。
男は獣に隙が生まれない事に焦り始めた。いつまでも斬り合ってはいられない。
互いに傷を負って、当たりには血しぶきが広がってゆく。
こんなはずではない。
誘い込もうとしても、それ以上に踏み込んできて致命傷を与えられない。
それは相手もそうだ。しかし、女は誘い込みなどしない。只々、剣を振るうだけだ。
男は幾人もの剣士や剣豪と言われる者を斬って来た。
剣の理想を追求して極める為に、追われる身となってなお、ここに居て剣を振るっている。
立ち合い勝利しても、理想への欲求は満たされず、切った者の血は心の渇きを潤すことは無かった。
理想の国家など、そうでもいい。剣の道をひたすらに歩みたい。
しかし、この女との斬り合いは、それを忘れさせる。
剣を初めて手にした時のような、青く幼い感情。
私は剣に呑まれていたのか。
女の傷がまた増えれゆく、構うことなく、ひるむことなく、血を拭うことなく打ち込んでくる。
男は隙が出来るのを待つことをやめた。
命を捨てる一撃で、生への活路を見出す。男は自らの命の為に女の剣を絶ち、血肉を絶つことを選んだ。
そして、その時は来た。
一瞬、ほんの一瞬だが男が速く斬り抜くように踏み込んだ。
男は女の剣を打ち払うと、次の剣が来るのを躱さず首元に一閃を放とうとした。
しかし、男を食らおうとしていた獣は幻のように消えている。
打ち払ったはずの剣は何処にもない。
そして、目の前には静かに、一本の線を空間に描くように剣を振り抜く女がいた。
その線は男の首に続いている。
剣は正確に、その線をたどり男の首に近づいて行く。
何が起こっている。
ルカは白い自分が、剣を振るい男の首落とすのをずっと見ていた。
男の瞳を覗き込む。
男はこれまで対峙した剣士とは違う瞳をしている。
それは、剣に呑まれて血を渇望する者のそれではなく、生きる事を選んだ者の瞳だ。
瞳の奥には生への渇望が宿り、そして剣には純粋な生きようと意思がまとわりついている。
もうすぐ男の首と胴の間に剣が横一線に走り抜く。
同じ剣に呑まれようとした私と、目の前の男。
生きる事を選んだのに、この世に残るか否かは紙一重だったのか。
斬りたくない。ルカは男の最後を見る事を拒むように目を閉じた。
ルカの意識が、白い自分と黒い自分を引き連れて、まるで深い水の底から浮き上がるようにして目覚めた。
ルカはあたりを見渡した。
辺りにはルカと男の血が混ざり合い、飛び散っている。
頭を失った男の体は、自分の頭を探すかのように床に崩れ落ちている。
後には男の血で濡れた頭だけが転がっている。
ルカは男の頭を拾い上げると、瞳を覗き込んだ。
そこには斬り合いから生きて逃れようとした残滓があった。
ルカは男の頭を床に置くと、血で染まった自らの手のひらを見つめた。