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短編 55 そらがけ 最終回

作者: にょこっち


 ようやっと最終回じゃけぇ。最初のプロットからあんまり離れてないのに大変な事になったもんじゃけぇ。

 

 あれ? もしかして合計で十万文字越えてない? 短編なんだよね? 




 六月に入った。


 湿気の増える時期である。


 そして何故かスポーツの大会が沢山開催される時期でもある。


 寸胴鍋と相変わらず格闘する日々を送るひーちゃんは六月の夕焼けを見てこう思っていた。


『だからトンコツは臭いんだってばよ』


 今回のラーメン祭りはトンコツラーメンとなった。アンケートの結果、そうなったのだ。


 骨から煮込む本格スープである。それも寸胴鍋を15個。


 あまりにも規模が大きいので食堂の外にテントを立てて、そこでスープ作りを行う事になった。調理場でやるには臭すぎる。なのでトンコツラーメンの為に仮設キッチンをわざわざ作ったのだ。


 テントではあるが、ちゃんと法令基準を満たした建物扱いになる。仮設病院のようにきっちりと外と中を分けられるので食品の衛生上も問題はない。


 中は猛烈に暑くなるし、すさまじく臭うが、それも我慢すれば大丈夫。


 一人のデブを生け贄にして、この学校の者達はトンコツラーメンを心待ちにしているのだ。


『……なんか体重が減った気がする』


 六月の夕焼けを見ながらテントの外で涼むひーちゃんは激やせしていた。


 なんと三キロも減っていたのだ。


 デブに見えて実は筋肉の塊であるひーちゃんである。その肉体に無駄な部分はあんまりない。


 その『余裕』の部分がトンコツスープ作りでガツガツと削られていったのだ。


 今のひーちゃんはかつての彼とは似ても似つかない顔つきをしていた。


「あ、マスクドヒダーノだ! お疲れっす!」


「トンコツってこんなに臭うんすね。お疲れっす」


「……おお。でもそろそろ臭いは落ち着いて来るから……まぁラーメンになるのはもうちょいだよ」


「おおー! トンコツラーメン! トンコツラーメン!」


 通りすがりの部活男子たちに話し掛けられたひーちゃん。トンコツコールに沸く男子達を見ながら彼は思うのだ。


『なんやねん。マスクドヒダーノって』


 今の彼は料理人、マスクドヒダーノである。


 派手な覆面を被ったデブ、それこそがみんなのラーメン職人『マスクドヒダーノ』なのである。


 ラーメンテントは灼熱の地獄である。汗もすごい出る。スープに汗が入るのは勿論厳禁。どうしようかなーとおばあちゃん達に相談したら渡されたのだ。


 レスラー用の派手な覆面を。


 そしてその日からひーちゃんは『マスクドヒダーノ』へと変身することが出来るようになったのであった。


 覆面レスラーだけど服はちゃんと着てる。パンツ一丁で寸胴鍋を混ぜているわけではないのだ。


 覆面も12枚ある。


 全てが異なるデザインでカラフルなマスク達である。


 大徳寺高校に新たな名物が生まれていた。

 

『だからなんやねん。マスクドヒダーノって』


 ひーちゃんは夕焼けを見て黄昏る。自分も本来ならトンコツラーメンに沸く男子達と同じ立ち位置なのになぁと。


 六月に入ったが特に学生生活に変化はない。授業はサクサクと進み、学校生活でも問題は特に起きていない。


 平和である。


 自分はトンコツ地獄だけど。


 ひーちゃんだけは、そう思う。


 そら部の改造も順調に進んでいる。まっ平らだった『フォトン回廊』も今では起伏に富んだスラロームコースに変化していた。


 乙女達からは『酔う』として不評だが、まだ『そらがけ』の改造は始まったばかり。マスクドヒダーノはマスクの下でほくそ笑むのだ。


 だが、忘れてはならない。そら部は部活であるということを。普通の学生も参加している健全なスポーツであることを。




 六月の休日。その日に『そらがけ』の公式試合が予定されていた。試合と銘打っているがレースである。それも出来レース。


 エア靴の性能によって結果の八割が決まる出来レースである。


 大会組織委員会。組織なのか委員会なのか意味の分からないこの委員会は今度の大会のレギュレーションについて協議していた。


 高いエア靴を用意できる学校が基本的に上位に来る。つまり私立が圧倒的に強い。それはスポーツの公平性として如何なものなのか、という議題である。


 委員会の長はおじいちゃん先生であった。スポーツとは汗である! と昔は豪語していた熱血漢……だったおじいちゃんである。


 このおじいちゃんだけではなく、委員会の他のメンバーからも同意見が多数出された。


 『そらがけ』ってのはスポーツではなくて『パンチラ』観戦だろ、そんなことをみんな思っているが、それは大人として黙っていた。


 文部科学省推薦。それが『そらがけ』という競技なのだから。


 大会組織委員会は大会に参加する学校の責任者を集めて聞き取り調査を行った。聞き取り調査という形にしかならないのは委員会として歯痒い思いであるが仕方無し。


『今度の大会、ルール変えへん?』


 大筋でそんなことを委員会は提案した。聞き取り調査という形をギリギリ残した上での提案だった。


 これには多くの学校が反発した。委員会がびっくりするほどに反発があったのだ。


『高いエア靴を使うのは公式で認められたルールである』


 彼らの主張はこの一点張りであった。


『だからそのルールを変えへんか?』


 委員会としては全ての学校が同じ性能のエア靴でレースをするのが一番公平性が保たれると考えていた。


『エア靴の選択は全ての人間に認められた自由とルールに明記されている』


『それは自由とちゃうで。資金力の問題やがな』


『自分達は公式ルールに則っている』


 最後はこの一点張りで会議は終わった。


 そらがけ競技の強豪校はどれも金だけはある学校。歴史も実績も微妙な学校ばかりである。


 委員会の長であるおじいちゃんも分かってはいた。こうなるだろうと。しかし動かずにはいられなかったのだ。


『スポォツとは青春である!』


 パンチラも良いけどそれは女子の競技のみ。男子の競技は本当に見ててつまらないのだ。


 かつての熱血漢は、しかし、どうにもならずに大会を迎えることになってしまったのである。


 金のある学校が勝つ。


 そんな悲しい大会が六月に開かれる事になった。



 


 ここはひーちゃんのお部屋。食堂の休憩室だった和室である。畳の部屋にはちゃぶ台が置かれ、そこには湯飲みが五つ置かれていた。


「トンコツ~。ヘイヘイ! トンコツ~。ブヒッブヒ!」


「まだ掛かるから。もうちょい掛かるから」


「こんなにトンコツ好きがいるとは思わなかったわ」


「私もです」


「……みんなー。トンコツに夢中なのは分かるけど、先生のお話を聞いてくれるかなー」


 この日、放課後をまったりと過ごしていたそら部の面々。


 大空ひかるはトンコツソングを口ずさみ。


 マスクを外すのが面倒になり常時マスクドヒダーノとなったひーちゃんは新たなレシピを書きながら。


 天海海月は柔軟体操をしつつ。


 委員長は眼鏡を拭きながら、まったりと放課後の一時を過ごしていた。


 女教師からこんな提案があるまでは。



「えっとー。実は今週の休日に『そらがけ』の大会があることが判明しましたー」


「へー」


「……パンチラですな?」


 緩い返事のひかると違い、マスクドヒダーノは鋭い視線を女教師に向けていた。公式試合……つまりパンチラ! そらがけといえばパンチラである。


「ひーちゃん!」


「またスカートの刑にしますよ!」


「ご褒美ですぞ?」


「はいはい、とりあえず聞けー! あいつら土壇場になって知らせて来やがったのよ。ほら、一応うちらもそら部でしょ? だから応援に来て欲しいとか言ってんのよねー。天海さん目当てなのがバレバレなんだけど」


 湯飲みを掴んでぐびりと中身を一気する女教師美和子。中身はなんとミルクセーキである。


「ぷはー! そんなわけで……どうしようか。ひーちゃんに天海さんの格好させて代打でもいいと思うのよね」


「……本気っすか?」


 ひーちゃんドン引き。覆面を被ったひーちゃんもドン引きである。


「天海さんが大会なんかに行ったらどうなると思ってんのよ! 大混乱になるに決まってるでしょ! ラッコよ、ラッコ!」


 美和子はまだラッコから抜け出せていない。六月になったのにラッコのダンスは未だ見えているのだ。


「青いかつらで何とかなりそうだねー。身長はほとんど同じだし」


「厚みが違うでしょ!? というか全然違うじゃないの!」


「天海さんが覆面を着けて、ダーリンがかつらを被れば……誤魔化せない事もないかも?」


 真面目な委員長すらそう言う始末。六月になって彼女達は少し変わっていた。変わらないはずがないのだ。愛しい男と共に過ごす日々は少しずつ愛が深まっていくのだから。


 とりあえず委員長は旦那様呼びからダーリン呼びに変化した。あんまり変わらない気もするが多分気のせいである。


「……海月ちゃんや。大会行きたい?」


 この男も少し変わった。この部屋にいる時に限り、乙女達を下の名前で呼ぶようになったのだ。


 だがしかし。


 ひーちゃんは見た目が覆面になったので名前呼びはあんまりインパクトが無かった。


 覆面が強すぎたのだ。似合い過ぎていたのもある。


「ううっ……ひーちゃんがまた甘やかしてくるぅ……行きたいけど……ううっ」


 天海海月はくねくねと畳の上をのたうった。大柄な彼女である。可愛いというよりは大きな蛇のようである。放課後はみんなジャージに着替えるのでパンチラはない。マスクドヒダーノは少し残念そうにそれを見ていた。


「天海さんは普通の学生生活に弱いですよねぇ」


「先生は分かってて提案したんだね! ワルだね!」


「そこは『大人』と言って欲しいわ。ひーちゃんはどうかしら?」


 女教師美和子。その顔には余裕の笑みが浮かんでいた。でもミルクセーキの泡が髭のように付いているので全て台無しである。


「拒否権はないですやん! まぁそれでも騒ぎにはなりますか。覆面はまだあるので、みんな覆面で応援に行きますか? やるならとことんやった方がバレないものです。まぁバレるとは思いますが」


「……ひーちゃん。それって間接覆面だよ? エッチだよ?」


「……えっち……かな?」


 その場の全員が頭を傾げた。


 マスクドヒダーノも困惑する天然娘大空ひかる。こいつもこいつで六月に入り『乙女』になっていた。


 ただの『乙女』ではない。


 なんとも『微妙な乙女』である。


 マスクドヒダーノの使用済みパンツを平気で履くようなアホ娘である。大空ひかるは変な所で乙女に覚醒してしまったのだ。


「なら、ひかるは覆面はパスね。私はひーちゃんの服を一式着て行くのよね。うふふ」


 タッパは同じ。なので着れるには着れる。ブカブカだけど。


 合法的に着て歩けるこのチャンスを天海海月は逃さない。


 非合法ではみんなやってるけど、それは乙女の秘密なのだ。


「ぬぐぐぐぐ。ひーちゃん! パンツ脱いで!」


「脱がねぇよ!? なんでそこから始めるのかな!?」


 この日のそら部も賑やかに過ぎていく。『そらがけ』は? そんなことを考える者はもうこの部屋にはいない。


 ひとまず大会には変装して応援に行くことが決定した。


 大会が目的ではない。大会会場で、とある幼女と会う事が、そら部の目的となったのだ。


 今も熊のひーちゃんと文通を続けている幼女。ブルジョワ幼女と大会会場で待ち合わせである。手紙で知らせたら『会うのですー!』と速達で届いたのだ。そこはメールでもいい気がするが、マスクドヒダーノの拘りがそこにはあった。


『幼女と文通。良いよね』


 何故かこれはみんなが賛同した。


 こうして幼女に会うために、そら部の面々は仮装して大会に行くことが決まったのだ。


 天海海月はやる気に満ちていた。


 誰よりも燃えていた。


 彼女ほど幼女が好きな女も中々いない。


 まだその日まで日にちがあるというのに彼女の『幼女焔火』は陰ることなく燃え盛っていた。


 日中の授業中ですら、彼女は燃え続けていた。この様子を伝え聞いた『旧そら部』の部員達は興奮しきりだったという。あの天海海月が大会を、つまりは自分達の応援を楽しみしていると。


 あまりにも痛い勘違いなのだが、それも青春である。


 旧そら部と表記したが、一応ちゃんとした部活である。


 新そら部が適当過ぎるだけで。


 そして……その日はやって来た。やって来てしまったのである。





「トッンコツッ! トッンコツッ!」


 トンコツラーメンの日である。奇しくも大会前日にトンコツラーメン祭りは開催されるのであった。


 寸胴鍋は煮詰まった影響で13個に減っていた。


 生徒達は嘆き悲しんだ。


 マスクドヒダーノは更にニキロ体重が落ちていた。


 生徒達は特に気にしなかった。


 でも感謝はしていた。


 このスープは彼の命。


 みんなマスクドヒダーノに感謝してトンコツラーメンを啜ることに相成った。


 作るのにおよそ一週間。無くなるのは一時間も掛からなかった。トンコツラーメンはお代わりが乱れ飛ぶ大盛況であったのだ。


 そしてトンコツラーメンに満足した生徒達は六月の夕焼けを浴びる黄昏マスクドヒダーノを目撃したという。


 食堂の外。


 寸胴に寄りかかり真っ白に燃え尽きて座り込む彼の姿を。


 そして側を通りかかった者は呟きも聞いた。


『来週はナポリタン……まじでー?』


 マスクドヒダーノ、ナポリ遠征の開始である。ナポリにナポリタンは無いけれど。


 まさかの和風イタリアン。


 外に調理場を増設までしたのに……ナポリタン。


 マスクドヒダーノは黄昏ながらそう思っていた。だがここは大徳寺高校である。


 調理場のおばあちゃん達がとんでもない事を企んでいる事を彼はまだ知らなかったのだ。


 でもそれはまた後日の話である。マスクドヒダーノは寸胴鍋を洗い終わると食堂の休憩室に消えていった。


 明日は幼女で癒されよう。


 その大きな背中にはそんな意思が見えたという。


 そして翌日。


 肥田野君のお部屋は大変な事になっていた。


「……みなさん? 朝ですよ?」


「ぐふっ」


「けふっ」


「かふっ」


「んあっ……今度は三つ子を孕みましたぁ」


「妄想ですぞ!? それは妄想ですぞ!?」


 肥田野君のお部屋は大変な事になっていた。大切なので二回言う。


 その大変になった部屋で肥田野君は覆面を手に取った。


「……装着!」


 肥田野君は今日もマスクドヒダーノに変身した。


 そして部屋の惨状を確認。


 血の海である。


 マスクドヒダーノは昨日、ひさしぶりにマスクを外したのだ。毎日ちょこちょこ取り替えているが、長時間外すのはひさしぶりとなる。


 トンコツが佳境に入ってからは、ほぼ常時マスクドヒダーノであったのだ。それはお風呂の時でも変わらない。


 何となく貫きたくなったのだ。マスクマンを。


 トンコツに打ち勝つその時まで、おれはマスクを外さない。そんな気持ちになっていたのだ。謎の漢魂である。


 昨日は乙女達もひさしぶりに素顔の肥田野君と対面したのだ。覆面のマスクドヒダーノならほぼいつも対面しているので問題ない。


 問題は肥田野君の素顔にあったのだ。


「ほらほら、今日は約束があったでしょー。みんな起きてー。そして鼻血を拭いてくれー」


 今日は珍しくマスクドヒダーノも休日である。朝のバイトは入っていない。


「うぐー」


「はうー」


「ぬぐー」


「あはぁ……赤ちゃんがうごいたぁ」


「美鈴ぅぅぅ! 妄想にしては顔がヤバイからぁぁぁぁ!」


 マスクドヒダーノ。今日は朝から血の海退治と相成った。




 都心の大きな体育館、ここを貸しきって『そらがけ』の公式試合は行われる。男子部門、女子部門、そして混合リレーが主な種目となる。


 この公式試合は誰でも観戦可能なのだが体育館に入る際には入場料を取られる事になっている。


 それも座席指定。


 選手のパンチラを近くで見たい場合はものすごく高いお金を払う必要があるのだ。


 表向きは『大会運営費用に充てる』として徴収されるが、大部分が『天宮工業』とその献金相手にお金が流れる事になっている。公然の秘密、とされるダーティーマネーである。


 それでも『そらがけ』の公式試合には満員御礼に近い人が観戦に訪れる。その大半がスケベじじいなのはお約束であろう。


 競技会場の体育館前には開場前だと言うのに黒山の人だかりが出来ていた。スケベじじいの群れ、という訳ではない。それも何割か入ってはいるが。


 今回競技場に押し寄せた者達は、とあるアイドルのファンである。そう、あの超人気アイドルのファン達が競技場に集まっていたのだ。


 天海海月のパンチラを求めて。


 どこかで情報が流れたのだろう。


 そしてどこかで情報が混線したのだろう。


 天海海月は選手として出場しないのだ。でもファン達は集まった。彼女のパンチラを一目見るために。


 クズである。


 紛う事なきクズ共である。


 だが、そんなクズ共に奇跡が起きた。


 競技場となる体育館の前に青い髪を揺らす180センチの人影が現れたのだ。


 青い髪なんて普通の人には生えてない。すわ! 天海海月だー!


 とファン達は人影に近寄った。そして固まった。崩れ落ちた。


 青い髪を揺らしていたのはパンツ一丁にブーツを履いた覆面レスラーだった。こいつが覆面の上から青い髪のかつらを被っていやがったのだ。


 その筋肉は鋼の如し。


 その筋肉は膨らみすぎたカップケーキの如し。


 男達は等しく打ち倒された。


 ポージングし続ける青髪かつらの覆面レスラーによって。


 だがここからが本当の地獄であった。


『私、天海海月なの! きゃは!』


 覆面レスラーは裏声でそう言いながら競技場の前に列をなしていたスケベ共の間を駆け抜けた。その姿、風神の如し。尋常ではない速度に誰も反応が出来なかった。


『うっふん! セクシービーム!』


『私の肉体美に惚れなさーい!』


『もうっ! 海月ちゃんは乙女なんだぞっ! うふっ!』


 裏声が響く度に死人が出た。


 体育館の前は死人が織り成すデスパレードと相成った。


 台詞と共に一時停止してセクシーなポージングを取る筋肉の化け物。あまりにも異様すぎて、逆に目が離せない。そして死ぬ。


 体育館の前を埋め尽くほどのスケベじじいと熱烈なファンは半時と経たず全滅していた。


『あたし天海海月なの! スーパーアイドルなんだからねっ! きゃは!』


 最後にとびっきりのセクシーポーズを取って筋肉の化け物は体育館へと入っていった。


 ……説明は要るまい。つまりはそういうことである。


 表で騒いでいる間に本命がこっそりと体育館に入る。変装と陽動。ダブルの策である。


 まだ大会は始まっていない。だからこその策である。もっともあと一時間もせずに大会は始まるのだが。


 続々と体育館に到着する選手、生徒達は死屍累々たる会場前の光景にドン引きしつつも何とか会場入りを果たすのであった。





 そして関係者用控え室にて。


「ひーちゃん! 何よあれは!」


「……昔の海月ちゃん」


 正座して陳謝するマスクドヒダーノがそこに居た。服は着ている。かつらも取った。でも正座。固い床にジャージ姿の覆面レスラーが正座である。


「……え、昔の海月ちゃんって本当にあんな感じだったの?」


 ここにはみんな揃っていた。そら部のメンバー勢揃いである。みんな覆面を被っているので奇妙な集団にしか見えない。体育館の事務員が無言でここに案内してくれたのだ。多分隔離である。


 そして覆面をしていても、アホの娘ひかるはひかるであった。


「海月ちゃんは自分で生意気だったって言ってたけど……あれは問題児だよ?」


 お前にだけは!


 言われたくない!


 みんなそう思った。


 この人以外は。


「ち! 違くも……ないけれど! 何よあれは! なんであのポーズも知ってるのよ!? あれはオーディションでしか見せなかったやつよ!?」


 天海海月はテンパっていた。いわゆる彼女の黒歴史に触れていたのだ。


「……親父に無理矢理連れてかれたオーディションで見ました。自分、一次選考で落ちたっす」


「いたの!? あれ、女の子のみのオーディションよ!?」


「審査員の前でズボン脱いでやったぜ。へへっ」


「おばかー! 何してるのよー!」


 天海海月と天宮翔。意外な所でニアミスしていたことがこの時判明した。そして天宮少年はやはり天宮少年であることも証明された。


「むー。ひーちゃんと海月ちゃんは共通する思い出があって羨ましいなぁ」


「……う、羨ましいですか?」


「……わたしに聞かないで。さて! 何とか会場に侵入は出来たわね。なんか隔離されてる気もするけど」


 覆面女教師美和子は気を取り直して辺りを見渡した。普通に倉庫に見える。多分倉庫だ。ホワイトボードとか沢山置いてあるし。


「覆面レスラーの巡業と思われたのでしょう。このままでいいと思われますぞ。下手に顔を晒すと面倒ですからな」


 筋肉爆発中のマスクドヒダーノは口調が変わっていた。彼の中で何か基準があるのだろう。いつもはジャストフィットするジャージがはち切れんばかりに盛り上がっているが、これでもかなり縮んだ状態である。トンコツショックで減った体重はこんなところに現れていた。


「……これで待ち合わせかぁ」


 嘆く委員長も今日は覆面女子である。今日の乙女達はみんながジャージである。制服は目立ちすぎるのでジャージとなったのだ。覆面をしている時点で極限マックスまで目立っている気もするが不思議とマスクドヒダーノの隣にいると違和感は無い。


「これならすぐに見つけてもらえそうだね!」


 覆面をまるで気にせぬひかるはすごく元気である。今日はブルジョワ幼女と会う日である。この体育館で待ち合わせをしたのだが、ここは巨大な体育館である。一応今日は文明の利器を使って連絡を取り合うつもりなので準備は万全となっている。


 だから目立つ必要は皆無なのだ。アホの娘は、やはりアホの娘なのである。


「入場料取られるのは納得いかないけどね。入り口のロビーで……待てる格好でもないわねぇ」


 美和子の視線の先には四人のマスクマン、マスクガールである。そして自分も同じマスクガール。多分また職員会議で怒られるんだろうなぁ。でも今回は私の責任じゃなくて『旧そら部』の顧問に全責任が行くのよねぇ。うふふ。


 美和子は知らず、悪い笑みを浮かべていた。


「ぬぬ? 先生殿はご存じないのですかな? 女性の場合入場料を取らないと先日決まったそうですぞ。なんか悪質な結婚紹介所みたいな感じですが」


「……うわぁ」


「最低ですね」


「じ、自分はなにもしてないでありますよ!?」


 何故か女性陣から責めるような視線を受けるマスクドヒダーノ。酷い誤解である。でも誤解とも言い切れないのがこの男の業である。


「はぁ。まあいいわ、じゃあ会場に移動するとしましょうか。いい? 絶対に! 問題は! ……起こしてもいいけど、ほどほどにね!」


 女教師美和子。今日は悪女であった。


「おー!」


「……ひかる」


「……いつものひかるさんですね」


 こうして覆面軍団は移動を開始した。何故かドアに鍵が掛かっていたが、マスクドヒダーノがトアノブを回してぐぐっと押すとドアは開いた。すごく破壊的な音も聞こえたが一行は気にせず会場に向かうこととなった。




 そらがけ。


 それは宙に浮かんだ光の道をエア靴によって運ばれるという退屈な競技である。


 これはやる方もつまらないが、見ている方もつまらない。


 基本的なルールはスピードスケートと同じ。レーンを周回して早さを競う競技である。


 でもその実態は微妙なものである。


「……うわぁ」


 体育館には公式試合用の光の道『フォトン回廊』が浮かんでいた。そしてその上には『そらがけ』の選手達がいた。まだ試合前の練習時間である。多くの選手が光の道を運ばれていた。


 滑るのではない。


 運ばれるのだ。


 スケートのように足を蹴りだす事もない。ただ光の道に立っているだけ。下手に動くとスピードが落ちる。


 なのでその運ばれる光景を端から見るとすごいのだ。棒立ちしている人間がすすーっと光の道を静かに滑っていく。


 それがずっとである。


 選手はずっと棒立ちでなにもしない。レーンを曲がるのもオートである。


 それを二階にある観客席から見下ろす四人のマスクガールと一人の覆面プロレスラー。ここだけ空間がねじ曲がって見えるのはきっと気のせいではない。


「大会もこんな感じなんだね。これは……そらがけじゃないね」


 空にあこがれ、空を跳ぶために大徳寺高校へとやって来た大空ひかる。


 その彼女はこの『そらがけ』を『そらがけ』と認めるわけにはいかないのだ。


「これは男子の練習だからな。女子の試合が『そらがけ』だ。パンチラがない『そらがけ』は『そらがけ』ではない。大空さんも分かって来たじゃないか」


「むー! そういう意味じゃないのー!」


「はっはっは。でも本当にくだらねぇな」


 それは何気ない会話だった。でもマスクガール達はそのマスクの下で血相を変えることになる。


 マスクドヒダーノの肉体からとんでもない熱が出ていた。


 それは怒り。純粋な怒りである。


「……ふぅ。やっぱり駄目だ。見てるだけで怒りが止まらん。場所を変えよう」


「う、うん」


 怒れる覆面レスラーと覆面ガールズはそそくさと観客席から抜け出していった。まだ会場に観客はいない。学校関係者は専用のエリアが観客席ではない場所に用意されている。


 だから被害者は少なくて済んだ。


 たまたま側にいた大会の撮影班や会場設営の人達は腰を抜かして震えが止まらなくなっていた。


 鬼。


 鬼が現れたのだ。


 覆面をした鬼が。

 

 おぞましいほどの存在感を感じ、目が勝手にそっちを向いたのだ。


 『早く見ろ、さもなくば喰われるぞ』と本能が警鐘を鳴らした。


 そして見た。


 そして呑まれた。


 鬼が消えても彼らは立てないままだった。様子を見に来た他のスタッフに助けられるまで彼らは震え続けることになる。


 そして怪訝な顔をする者たちに歯をカチカチ鳴らしながら呟いたのだ。


 鬼が出た、と。




 で、その鬼であるマスクドヒダーノのその後である。


 彼は体育館の選手用通路で『旧そら部』のメンバーと挨拶をしていた。


 大会に出場する選手に割り当てられるスペースはここ、選手用の通路である。選手用の通路と言うが、つまるところバックヤードである。観客ではなく選手が利用する通路。ただの通路である。


 ここに選手達は自分達の荷物を置いたり、出番が来るまで待機して休んだりするのだ。普通に通路である。冷たい床の通路である。


「……随分と扱いが酷いな」


 鬼となっていた肥田野君が素になるレベルである。あまりにも粗末というか……扱いが雑である。大徳寺高校だけがこの扱いと言うわけではない。全ての学校が同じように選手用の通路を利用して荷物置き場にしたり休憩スペースとしているのだ。


「……あの、マスクドヒダーノさん? なんか体が膨れてませんか?」


「ん、いや、俺の事はどうでもいい。マットも貸してもらえないのか」


 覆面とジャージ。それといつもよりも絶対に大きくなっている肥田野君に恐怖を抱くのは部員の一人である。


 他の部員達は応援に駆け付けた……という事になっている女子達と会話中である。


 この哀れな子羊はじゃんけんで負けたのだ。そしてマスクドヒダーノの担当とされたのだ。


「事務所に頼んでマットの一枚くらいは手配してもらえないのか?」


「あ、いや、そういうのはダメらしくて」


 会話の内容としてはまともである。しかし会話の相手は覆面を被っててジャージがはち切れんばかりの筋骨隆々の大男である。


「マスクドヒダーノさん? やっぱり大きくなってますよね? 具体的に言うとマッチョですよね?」


「気にするな。問題ない」


 気になるよ!


 問題しかねぇよ!


 何で更に巨大化してんだよ!


 意味がわかんねぇよ!


 男子部員は心の中でシャウトしまくっていた。青春である。


「あ、ハイエナ確認ー!」


 ここで女子の一人が声を上げた。内容は意味が分からないが、とにかく明るい声である。


「む! ではこれにて」


 そう言うなり覆面レスラーマスクドヒダーノは腕を振り回して通路をずんどこ進んでいった。他校の生徒が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。


「じゃ、みんな怪我しないようにねー」


 覆面レスラーの後を覆面をつけた女子達が追いかけていく。


 それはあっという間の出来事だった。


 女子達と話していた他の部員もポカンとした表情である。


 何しに来たの?


 そんな疑問がみんなの頭に浮かんでいた。




 そしてずんどこ進む覆面レスラーに視点は戻る。


 レスラーは思った。


『……他校の生徒は女子のレベルが低いだとっ!?』


 道を切り開く為に腕を振り回して進むマスクドヒダーノ。他校の生徒は勝手に逃げていく。絡まれても面倒なので最初から威嚇して進もうとみんなで相談した結果である。


 女教師美和子の策でもある。


「ぐわはははははは」


「きゃー!」


 マスクドヒダーノは何となく笑ってみた。そしたらガチの悲鳴が上がった。黄色い歓声ではない。


 大丈夫。責任は全て『旧そら部』の顧問に行く。でも少し悲しくもある。なして笑っただけで悲鳴が上がるのか。


「どぅひひひひひひひひ」


「ひぃぎゃぁぁぁぁ!」


 笑いかたを変えてみた。今度は男子が悲鳴を上げて気絶した。


 何故だ。


 特殊な周波数でも出ていたのだろうか。


 マスクドヒダーノは少し楽しくなってきた。


「おばかー! やり過ぎよー!」


 怒られたのでマスクドヒダーノは泣いてみた。


「おーいおいおいおい」


「ひぃぃぃぃ! ぷぎゃ」


 何故だ。駆け付けてきた警備員が全員気絶した。


 自分の泣き声にはそんな効果があったのか。


 マスクドヒダーノは、ちょっと怖くなった。


「……撤退よ! 今すぐに撤退するわ!」


「らじゃー」


 そういう事になった。





「くまさんですー! 今日は会えてうれしいのですー!」


「がおー」


 ここは体育館から少し離れた場所にあるファミリーレストラン『ポナパン』である。何処かで聞いたような名前なのは仕方無い。仕方無いのだ。


「すいません。体育館に居られなくなってしまいまして」


「……いいんざます。きっとそうなると思ってたざます」


 ここには幼女だけでなく幼女ママも来ていた。そしてこの人も来ていた。


「あらあら、翔ちゃんは覆面レスラーになったのねぇ。少し痩せた?」

 

「がお」


「あら、そんなに?」


 親子だからだろうか、マスクドヒダーノベアーと肥田野ママは会話が成立していた。


 今日は幼女との再会ということで、どうせならみんなで集まりましょう、ということになっていた。予定は狂ったが、何となくこうなる気もしていたので大人達は涼しい顔である。


 だが覆面レスラーと覆面ガールズがファミリーレストランにいる光景というのは中々に凄まじいものである。


 だがだがここは都会のど真ん中。奇人変人の巣窟なのが大都会。この程度のハプニングなら店員も慣れたものである。


「お客様、ご注文はお困りですか? 何で覆面レスラーなの?」


 店員も慣れたものである。本音と建前が同時に出た。店員は困っていたのだ。


「がおー」


「……タンドリーチキンですね。はい」


 覆面レスラーは指でメニューを指していた。店員はとりあえず仕事に集中することにした。


「わたしはですねー……これなのです?」


「はい、若鶏のみぞれ煮御膳ですねー。可愛いですねー。犯罪ですよ?」


「がお!?」


 覆面レスラーは店員の流れるような警告にびくんとした。膝の上に乗った幼女は確かに可愛いらしい。今日もおめかしして『夏のお嬢様イン避暑地』というような格好である。


「がおがお?」


「はいー。可愛いですよねー」


 何故か店員はマスクドヒダーノベアーと会話が出来ていた。やはり都会のファミレスは魔境である。


「うーん。ラーメンは無いんだねぇ」


「ファミレスにラーメンは無いわよ?」


「パスタならありますけどね」


「きびなごのサラダとほうれん草のソテーと……あとは唐揚げとポテトと……」


 熊が一人と、あとは全てが女子である。


 女子会(熊付き)の始まりであった。




「では、幼女ちゃんとの再会を祝して……かんぱーい」


「かんぱーい」


 ファミレスなので少し声を落としての女子会はこうして幕を開けた。


「くまさん。わたしはくまさんのおかげでこうして元気になりました。ありがとうございます」


「がおがお」


「ふにゃー!」


 頭を下げる幼女を優しく抱き締める覆面レスラー。今日の彼は全力全開のムッキムキである。その筋肉の熱さに幼女は驚いた。


 お姉さんたちはそれを見て微笑んでいた。羨ましいなぁと思いながら。


 やっと幼女はお礼を言えたのだ。この人が居たから今の自分はこうしていられる。幼女の想いは『感謝』そのものだった。


「次はお姉ちゃんのお膝にカモンよ!」


「はいなのですー!」


「がお!?」


 熊、振られる。


 捨てられるの早かったなぁ。そんな哀愁を漂わせるマスクドヒダーノベアー。


 幼女ちゃんは一人っ子。沢山のお姉ちゃんが出来て大興奮なのである。


 その様子を見て懐かしむのは肥田野ママである。


「いいわねー。翔ちゃんも昔はあんな感じだったのよねー」


「……がお?」


「お義母様、その辺詳しく」


 マスクド委員長が食い付いた。


「昔は翔ちゃんも可愛いお人形さんのようだったのよー。でもあの事件のせいで翔ちゃんは……あの可愛い翔ちゃんは変わってしまったのよ、およよよよ」


「がおー」


「あら、翔ちゃんは満更でもない感じだったわよ?」


「がお?」


「あらあらー。そんなことはないのよ?」


 親子の『がお会話』は続く。何となく分かるけど何となく分からない。そんな会話である。


 天海海月のトラウマ直撃な話題であるが、今の彼女はひかると共に幼女に溺れていて気付かない。


 幼女とはそういうものなのだ。


 そして幼女に溺れていない委員長と女教師美和子はこっちでお話しである。


「……なんで会話出来てるんでしょうか」


「親子だからじゃないかしら。ひーちゃん、もうくまさんは大丈夫よ?」


「……がお」


「あらあらー。またお嫁さんが増えちゃうのねー」


 なんざます!? 


 そんな驚きの気配が幼女ママから放たれた。娘はまだ幼女である。どうか真っ当な人と一緒になってもらいたい。そんな望みを持つのは親として当然だろう。だが断れない。断るのが怖い。娘も懐いているし。


 幼女ママは今日も汗が止まらない。滝のような汗がだらだらである。


「翔ちゃんは昔から女の子に……優しくはなかったわねぇ。なのにどうしてモテるのかしらー?」


「がおがお」


「そうなの? 今の女の子は大胆なのねー」


「がお!」


 親子の『がお会話』にファミレスの店員も遠い目をして眺めている状況である。


『今の子はそんなに進んでるんですね』


 店員は何故か『くま語』を理解していた。そしてジェネレーションギャップを受けていた。


 まだお昼には早すぎる時間である。客もまばら。店員は否応なくこの奇妙な団体から目が離せなくなっていた。


 特に覆面くまレスラー。


 入店させて良かったのか今も悩み続けている店員である。だがその視線は分厚い肉体から離れない。


『良い体、してますねぇ』


 ほぅ、と熱い吐息を吐いてしまう。店員も女の子である。大学に通いながらアルバイトに精を出す勤労学生である。


 男遊びなんてしている余裕も暇もない。だからこそ筋肉の塊、マスクドヒダーノベアーから目が離せなくなっていた。


『あの肉体に触りたい』


 乙女の欲望は決して弱くはない。むしろ男よりも強いのだ。


 無意識のうちに店員はマスクドヒダーノの側にまで近寄っていた。夏の夜、光に集う虫のように。


「……お客様。念のためボディチェックをしてもよろしいでしょうか」


 店員は動いていた。彼女はもう、止まれない。


「がお? がおっ」


「では……」


 許しを得た店員。覆面の乙女達にガン見されながらも彼女は怯まない。この程度の視線はアルバイトで慣れっこである。


 そして彼女の手がマスクドヒダーノの背中に触れた。


『熱い! なんという熱さなの!?』


 店員の全身に稲妻が走った。


 ジャージ越しというのに手に伝わる熱波はまるでホットプレートのよう。決して素手で触るものではない。


『これは駄目になる! この人に溺れてしまう!』


 店員は急いで手を離した。彼女の理性はギリギリでその指令を受け入れた。


 でも体は理性を無視してマスクドヒダーノに抱き付いていた。


「ふにゃぁぁぁぁ!」


「わたしもやるですー!」


「……うわぁ」


 女子会は意外とすぐに終わることになった。店長からの苦情である。


 頼んだものは全てテイクアウトということになり、乙女とレスラーは体育館へと戻ることになったのであった。





「……館内で飲食が出来て良かったわね」


「そうですね」


 ファミレス『ポナパン』で閉会された女子会は体育館の観客席で再開された。二階の一番端の席に陣取ったので周りに人気はない。競技は始まっていたが、午前は男子の部なので観客席も全体的にガラガラである。


「みんなでご飯なのですー!」


「がお」


 幼女はくまの膝に乗ってご飯である。ノリノリである。


 くまはその間、飲食は控えていた。 


 幼女である。


 幼女が幸せそうに若鶏のみぞれ煮弁当を食べているのだ。膝の上で。


「がお」


 良い。


 マスクドヒダーノベアーからは目に見えるほどの幸せオーラが発せられていた。


 それを眩しげに見やるのは彼らの母親達である。


「……旦那さんは大丈夫かしらー?」


「……夫は娘が元気になったら早速接待ゴルフに行きました。先輩の息子さんと一緒にいる方が娘の為にもなると思います。だから先輩。くれぐれも! くれぐれもっ!」


 幼女ママは必死に懇願した。しかも二回である。


 やはりこの二人には浅からぬ因縁がある模様。しかしどうでも良い事でもある。


 大切なのは幼女の笑顔、それのみである。


「お客様、お飲み物はいかがですか?」


「あいー!」


「……がお」


「ではどうぞー」


 どうでも良いことはまだあった。


 何故かここにもファミレスの店員がいた。彼女は着いて来たのだ。マスクドヒダーノベアーに。ファミレス『ポナパン』の制服のまま、着いてきてしまったのだ。


 一応注文した数々をお持ち帰りというかデリバリーということで、この店員がここまで運んでくれたという理由はある。


 だがだが、彼女は帰らずそのまま居着いてマスクドヒダーノベアーと幼女のお世話をしていた。


 カオスである。


 あまりにもカオスである。むしろケィオスと称すべきであろうか。


 ここは観客席の端の端であっても消しきれないケィオス空間となっていた。そしてこのケィオスはとんでもない影響を体育館全体に与えていた。


 そらがけの公式試合では滅多に転倒は起きない。選手は棒立ちで運ばれるだけである。転ぶ理由もない。


 しかしこの日は転倒者が続出した。これにより大判狂わせも起きた。


 弱小校が上位に食い込んだのである。


 体育館には彼らの歓喜の雄叫びが木霊した。


 なお、大徳寺高校の男子生徒も転倒して結果は散々となった。なまじ知り合いだったのが悪かった。男子生徒は派手に噴いて転倒した。それに巻き込まれた者達も多数いたが勝敗は覆らなかった。そういうルールである。


 そんな熱狂と絶叫が木霊する体育館の観客席。その端にいるマスクドヒダーノは幼女で癒されつつ、ポナパンの店員にお世話をされていた。


 まるで王公貴族のような扱いである。


 いつもならひーちゃん大好き乙女達が鬼のように騒ぎそうなものだが、今の彼女達はこれで良いと思っていた。


 あの怒りのひーちゃんは見たくない。


 それが乙女達の共通認識である。


 幼女とポナパンでひーちゃんは大人しくなる。かなりヤキモキしているが、乙女達は自分達の気持ちを飲み込んだのである。


 全ては愛する人のため。


 愛する人にはいつも和やかでいて欲しい。


 肥田野ママはそれを見て微笑んでいた。


 幼女ママはそんな肥田野ママを見て怯えていた。


 この二人は過去に一体何があったのだろうか。やっぱりどうでも良いので視点は幼女に戻る。


「はわー。あれがそらがけなのですかー。空を滑ってますよー。不思議ですー」


 幼女は初めてみる『そらがけ』に目をキラキラと輝かしていた。空を飛ぶ。それとは少し違うが、人間が空に浮かんでいる、というのは、やっぱりインパクトが大きいのだ。


「がおがお」


「まぁ、そうなんですか? あの選手は同じ学校の生徒さんなんだそうですよ。転んじゃいましたけど」


 何故か通訳はポナパンである。


「はわー! 大丈夫なのですか?」


「がお」


「下にクッションが敷き詰められているので余程の事がない限り大丈夫だそうですよ」


「そうなのですねー。くまさんは物知りさんなのですー」


「がおがお」


「まぁ、ご謙遜を。自分はまだまだ未熟者だと、くまさんは申しておりますわ」

 

 乙女達はぴくんと反応した。このポナパンの店員……意外と危険かも知れないと。


 マスクドヒダーノベアーにここまで食い付くとはただ者ではあるまい。そこはかとなく醸される気品、滲み出る乙女の欲情。もしやこのポナパン……名のある乙女ではなかろうか。


 そんなわけもなく。


「あ、今度はお姉さん達のレースなのですー。うわぁみんなスカートなのですよ?」


「ポナパン! 目隠しを!」


 指示したのは女教師だった。


「かしこまりましたー」


「くまっ!? くっくま! くまー!」


 マスクドヒダーノベアーはポナパンによって目隠しされた。彼が一番楽しみにしていた『そらがけ』がこれから始まるというのに。


 しかし後ろからポナパンの手を使っての目隠しをされたマスクドヒダーノベアーは驚愕していた。後頭部に当たる幸せのクッションがあまりにもフッカフカだったのだ。その幸せの感触でマスクドヒダーノベアーは鳴き方が変化していたのだ。


 ポナパン、意外とボインである。


「……くまさん。わたしのパンツならいくら見てもかまわないのです。だからあんなお姉さん達のパンツは見ないでほしいです……」


 幼女は悲しげに懇願した。目を潰されたマスクドヒダーノベアーの心にその言葉が染み込んでいく。


 一瞬、後頭部の温もりと柔らかさを忘れる程である。


 悲しみにジャージが張り裂けそうになったマスクドヒダーノベアー完全体。悲しみを知り、完全体となった彼に囁く者がいた。


「わたくしのおパンツもお付け致しますか?」


「がおっ!」


 耳元でポナパンからこっそりと囁かれたベアーは即答していた。


『わしゃあ、男じゃけのう。女子からの誘いは基本受けるんじゃけぇのう。パンチラうぇーい!』


 遠くのパンチラより近くの幼女とポナパン。


 マスクドヒダーノベアー完全体はこの世の春を知ったのだ。極楽浄土はここにあり。彼はここに桃源郷を見つけたのだ。彼はここに超越完全体としてマスクドヒダーノベアーブラインドとして生まれ変わったのである。


 だがしかし。


 桃源郷とはあの世を示す単語でもある。天国と地獄は表裏一体。容易く入れ替わるものでもある。


「翔ちゃん? 少しお母さんとお話、しましょうか」


「……え、なんでかーちゃん、怒ってはるの?」


 このあとマスクドヒダーノベアー完全体は母親によって叩きのめされる事になった。


 知り合ってすぐの女性との触れあいはアウトらしい。


 体育館には鈍い音と炸裂音が交互に響き渡り、当然の事ながら体育館で行われていた女子のレースも転倒者が続出した。


 だがルール上、問題はない。観客席でどれだけ騒ごうが、実際に妨害行為が無ければ勝敗は覆らない。『そらがけ』とはそういうスポーツなのである。


 女子のレースでも大判狂わせが起きた。強豪が軒並み敗退。弱小校が栄光を掴んだのだ。


 この日の大会はいつもとは違う。そういう雰囲気がいつしか生まれていた。


 そしてあとは午後の男女混合リレーを残すのみとなった。


 さて、いくらなんでもケィオス過ぎる展開なのだが、勿論それには理由がある。


 観客席で騒いでる者がいれば、それを摘まみ出そうとするのが当然の流れである。


 それが摘まめる相手ならば、であるが。


「かーちゃん、許してけれー」


「私はあなたをそんな破廉恥な息子に育てた覚えはありません! 歯ぁ食いしばれぇぇぇ!」


 ドゴォォン!


「ごふぅぅぅぅ!? かーちゃん! それはボディだよ!?」


「やかましい! ならば腹筋を引き絞れぇぇぇぇ!」


 バチーン!


「あべし! かーちゃん! 今度はビンタじゃん!?」


 こんなのが観客席にいるのだ。警備員達も怯えながら遠巻きに見るのがやっとである。


 警備員達は自分達を声だけで気絶させた化け物をサンドバッグにしている女性を見て足が動かなかったのだ。


 こうして大会は佳境へと向かっていくことになる。


「ふわー! すごいのですー! わたしも強い女になりたいのですー!」


「ダメざます! あれを見本にしちゃいけないざますー!」


 幼女ママもクライマックスを迎えていた。子育ては反抗期がマックスである。頑張れお母さん。


 今日の試合は絶対におかしい。大徳寺高校の選手達はそう感じていた。お腹に妙な違和感を感じる。絶対に何かおかしい。


 そう。


 それは確かに正しかったのだ。


 


 試合会場はお昼の時間になっていた。女子のレースを終えると丁度お昼の時間となったのだ。選手には運営からお弁当が配布されお茶も配布された。海苔弁当とペットボトルのお茶を一本である。


 そらがけの試合は大体このメニューである。大会組織委員会も『もっと豪勢なお弁当でええやん。お茶も美味しいのに変えたってや』と運営に懇願しているのだが、なしのつぶてである。


 この大会組織委員会と運営は別の組織となる。


 委員会の方はお飾りで、ほぼ全権を持っているのが運営となる。


 金銭面を牛耳るのが運営。大会の進行を担うのが委員会と考えれば良い。


 一応委員会の方が上になるのだが、運営が大人しく委員会の意見を聞いた試しは無い。


『そらがけ』の運営は金儲けしか考えない『天宮工業』の出先機関でもあるのだから。


 大会の『フォトン回廊』はこの運営が全て管理する。勿論体育館の入場料も彼らに全て流れていく。金が絡むことは全てこの運営が取り仕切るのだ。


 一方、大会組織委員会の委員は基本的にボランティアとなる。何せ『そらがけ』は文部科学省推薦の競技になるのだから。委員になって得られるのは肩書きだけ。名誉職である。


 超ドケチでがめつい。


 それが教育界における『天宮工業』の評価となるのだ。


 大会の参加費をガッポリ取って置きながら選手達に配布するのは一番安価な海苔弁当である。そして不味いお茶を一本。


 大会に参加する学校の多くは自前で食事を用意する。そして安い海苔弁当とお茶は廃棄される。それがいつもの事になる。それほどに不味いご飯なのだ。びっくりするほど不味いのだ。海苔弁当なのに。


 だが世の中には『お残しは許しまへん!』と教えられて育った子供達もいる。立派な教育である。


 でもそれが裏目に出ることも、ままあるのだ。


 



 午後になった。


 大会は男女混合リレー競技を残すのみとなる。


 これは四人のリレー競技で、最低でも三人は女子が入ってないといけない、というルールが定められている。


 つまり男は必然的に一人のみである。あまりにも露骨過ぎるルールだが、これを決めたのは運営で、それを順守させるのが大会組織委員会のお仕事なのだ。


 女子は基本的にスカート着用が義務となる。やむを得ない場合のみズボンを許すとルールブックにはある。なお、男子にそんな規定は存在しない。


 何故こんなのが『文部科学省推薦』とされているのか。


 みんな知ってるけどパンチラは正義も理屈も吹き飛ばすのだ。


 そんなわけで大徳寺高校の生徒達も午後のレースに備えて準備をしていた。


 そのお腹に猛烈な違和感を感じながら。




 それは突然の連絡であった。


「大変です! 大徳寺高校の選手達が食中毒でみんな病院に搬送されました!」


 大会委員会の事務員が息せき切って観客席にいた女教師美和子に知らせてきたのだ。


「なんですって!? 何か拾い食いしたのかしら」


「いえ、配布されたお弁当を食べたみたいです」


「なんですって!? あれを食べたの!?」


 驚愕する美和子。大会の弁当……それはあまりにも不味くて有名なのだ。

 

 女教師美和子に連絡が入ったのは生徒と顧問が病院に搬送されてすぐの事である。


 マスクドヒダーノベアー完全体がぼろ雑巾になってすぐの事でもある。事務員は床に転がる赤い物体に震えていた。


 美和子はすぐに学校に知らせた。大徳寺高校。ここには食の鬼がいる。食中毒関連は即、彼女達に知らせなければならない事案である。


 かつて起きた悲劇がそういう絶対規則を作ったのだ。


 そして残されたのは彼女達である。


「……食中毒って大丈夫なんですか?」


「他の学校の人も危ないよー! みんなトイレで紙が無くなっちゃうよ!」


「いつかやるとは思ってたけど、まさかこのタイミングでやらかすなんて」


 今は六月。湿気の増える季節である。食中毒も増える季節であった。


 女教師美和子は関係各所に連絡を取っている最中。


 肥田野君はぼろ雑巾。


 肥田野ママは汗をかいて少し色気を増し、幼女ママはガタガタと震えていた。


 覆面の乙女達は特にやることもないので幼女と戯れていた矢先の連絡であった。


「他の学校は多分平気よ。だからトイレも大丈夫。紙の心配は無いわ」


「よかったー! 紙が無いと大変だもんね。なんとかなるけど」


「……」


 幼女は無言で委員長を見上げた。その顔には本気で心配する彼女の瞳があった。


「……」


 委員長も無言で幼女の瞳を受け止めた。大丈夫。お姉ちゃんもすごく心配だから。こんな女の子になっちゃダメよ?


 そんな無言の会話が続く。


 ここでようやく女教師美和子が乙女達に声を掛けてきた。今までずっと電話で連絡を取り続けていたのだ。それが一段落した。


「……今、病院の先生から容態について連絡があったわ。みんな酷い状態だけど命に別状は無さそうよ」


 女教師美和子も明らかにほっとしていた。一応面倒を見ている生徒である。心配するのも当然といえた。


「あらあら、良かったわねー。食中毒は怖いのよ?」


「……あの、あの方は命に関わるのでは?」


 ファミレス店員ポナパンがガタガタと震えながら指を差す先。血溜まりに沈む巨体が時おりピクリと動く。


 ポナパンは食中毒よりもこっちの方が明らかに致命傷ではないかと感じていた。何せ母親による折檻は息子が逃げながらも二時間は続いたのだ。その間に女子のレースは終わり、昼の時間が過ぎたのだ。


 ポナパンは後悔していた。この事態を引き起こしたのは自分である。この惨状の責任の一端は自分にあるのだと。


 だから責任取らせてもらおうかなーとか普通に考えていた。ポナパンも強かな乙女なのだ。


「翔ちゃんなら三分もすれば動けるようになるわ」


 ポナパン、この発言に驚愕。少したじろいだ。


「お義母さん、やりすぎです。でも三分なら大丈夫かしら」


 覆面女教師美和子。ここで乙女達に視線を向けた。いつもの酔っぱらい美和子ではない。


 大徳寺高校。女教師美和子がそこにいた。


「そら部の部員、並びに顧問から嘆願要請。『自分達の代わりにリレーに出て大徳寺の名を残してくれ』だそうよ」


 公立にして唯一と言われる『そらがけ』の強豪校。旧そら部の部員達にはその自負があった。たとえエア靴の性能でほとんどが決まる競技とはいえ彼らはそれを誇りに思っていた。


 そうでなければ毎日退屈な練習を出来るわけがない。靴の性能以外で努力出来ることは全てしてきた。その成果が『公立にして強豪』という大徳寺高校の実績だったのだ。


 しかし今日の成果は男女共に最悪である。


 せめてリレーで挽回を、そう思っていたところに食中毒である。


 彼らも泣くに泣けないのだ。


 アイドル天海海月がせっかく応援に来てくれたのに良いとこ無しで、しかも戦うことすら出来なくなった。


 無念である。


 無念すぎるのだ。


 その無念。この男にはびんびんに届いていた。


「承った」


 血溜まりからのそりと起き上がる一人の男。母親によって全身をいい感じに叩かれて肉質を柔らかくされた『超完全体肥田野翔』である。


 全身から血が出ているが、これは彼の得意技『なんちゃって吐血』による擬装である。本当に血なのだが見た目ほどのダメージは彼にはない。


 母親によって服はズタボロ、覆面も半分以上が千切れているが、替えの覆面ならまだある。


「翔ちゃん。いいの?」


「……」


 母親からの確認に血まみれ肥田野君は無言で天を仰ぐ。


「……空を取り戻す」


 そしてはっきりとそう告げた。


 かつて空を自由に駆けた少年は翼をもがれて地に堕ちた。そして地を這う事を余儀なくされた。


 空は汚され自由に空を飛ぶものは居なくなった。


 それを何より歯がゆい思いで見ていたのは、かつて空を自由に駆けた彼であった。


 人々に空の素晴らしさを伝えた彼であったのだ。


「……いや、ひーちゃんはとりあえず血を拭きなさい。格好つけてる場合じゃないでしょ? 床にも血がこんなに……」

 

「らじゃー……」


 でもせめて人らしい格好をしないと相手にもしてもらえないのが人間の社会である。世知辛いが、そういうものなのだ。




 大徳寺高校、食中毒による選手交替。この知らせは大会組織委員会にすぐに入ってきた。それはルール上問題ない。だがルール外で問題だらけであった。


 まず代わりの選手が全て覆面を被っていること。ルールではそれを禁ずるものはない。必ず顔を晒せとも、覆面禁止とも書かれていない。ゴーグルを付ける選手も普通にいるので覆面でも文句は言えない。


 委員会はこれを認めた。


 次、女子がみんなジャージであること。これは急遽代打で選手になるので問題ない。


 委員会はこれを認めた。


 更に次。代打選手の一人がスーパーアイドルだった。当然ルールでアイドル禁止とは書いてない。


 委員会はこれを認めた。


 とどめ。代打の男子生徒がマッチョな巨漢であること。巨漢を禁ずるルールはない。しかしここで他の学校から物言いが入った。


『それは生徒じゃねぇだろ!』


 委員会もそう思って大徳寺高校に確認したところ本当に現役高校生であることが証明された。


 委員会はとりあえず認めた。


 こうして大徳寺高校は代打のメンバーでレースに挑むことになったのである。


 しかしここでまたしても物言いが入った。


 他人のエア靴を使うのは如何なものかと突如他の学校が言い出したのだ。


 エア靴を貸し借りするのはどの学校でも普通にする事である。何せエア靴は高いのだ。みんなで共有するのがむしろ普通である。


 委員会の長、熱血おじいちゃんは物言いしてきた学校の顧問にドロップキックをかまそうと助走をとった。


 嫌がらせにしても悪質すぎる。成敗じゃ!


 しかしおじいちゃんが駆け出す前に大徳寺高校がそれを受けいれた。丁度この時、大徳寺高校から代打メンバーのエア靴が一式届いたのだ。


 それは使い込んだ旧い型のエア靴であった。


 それを見た、いちゃもん学校の顧問は物言いを取り下げた。これなら絶対に勝てると確信したのだ。


 でも委員会は取り下げを許さなかった。他人のエア靴使用禁止。これをリレーのルールとしたのだ。


 これによりエア靴の確認作業が生まれた。レースが始まるまでその確認作業で一時間。予期せぬ猶予時間が大会に生まれたのであった。


 選手達は大変な騒ぎになっていた。いちゃもんを言い出した学校も大変な騒ぎになっていた。ここも普通にエア靴の共有をしていたのだ。


 ただ一校、大徳寺高校だけは静かだった。ここのメンバーには特に問題ないルールである。そのはずだったのだが……乙女達は焦っていた。

 

「ひーちゃん」


「柔軟体操は軽めにしとこうか。他の人間にみんなの痴態を見せたくない」


 一時間の猶予はむしろ柔軟体操に使えるとして肥田野君は替えのジャージを体に馴染ませるように準備体操をしていた。新たな覆面も彩り鮮やかである。


「はうっ! ……そうじゃなくて!」


「ひーちゃんのエア靴って……」


「壊れてたよね?」


「うん。壊れてるぞ」


 肥田野君、壊れたエア靴で戦う事が確定である。


 乙女達はとりあえず覆面レスラーをポコスカ叩くことにした。

 



 そらがけ男女混合リレー。


 これは普通にリレーである。四校が同時に走ってその早さを競う競技となる。順位ではなくタイムが勝利条件のタイムアタックである。


 つまりエア靴の性能で全てが決まる競技となる。


 乱戦になることはない。ライン取りはほぼオートである。動けぬ事もないのだが最初から微動だにせずエア靴に運ばれるのが最速を生み出すコツである。


 ただ、これは最初の走者限定の話。二番目の走者は最初の走者にお尻をタッチされて走り出す仕組みになっている。バトンタッチではなくヒップタッチである。


 この仕組み故に最終走者は大抵、男になる。


 ハイライトは序盤、中盤であり、最後は誰も見てくれない悲しい競技なのだ。


 女の子が女の子のお尻をタッチする。スケベじじい達が高い金を払ってでも競技場に来るわけである。


 このヒップタッチも卓越した技術が求められることは決してない。尻を触ることを介して第二走者のフォトン回路が活性化する仕組みである。


 なのでこの競技の肝はこうなる。


 女の子のお尻ぺんぺんさいこー!


 男はどうでもいい。むしろ死ね。


 そらがけとはこういうものなのだ。


 とある高校の巨漢は第一走者になりたがった。女の子のお尻をぺんぺんしたがったのである。勿論それは許されなかった。男はアンカー。それがリレーの鉄則である。巨漢は泣いていた。幼女に慰められて元気になった。つまりはそういう話である。

 


 第一試合は波乱も起きずに普通にリレーが行われた。


 体育館の観客席は人で埋め尽くされていた。アイドル天海海月の噂を聞き付けたものと熱烈なパンチラファンである。体育館の外にはまだ死屍累々が放置されたままである。


 パンチラとアイドルの力は凄まじいのだ。


 そんな熱狂的な観客の見守るなか、レースは順調に執り行われた。


 ただタイムはどこの学校も酷いものであった。『マイエア靴』でのレースは当然こうなるのが目に見えていた。


 恨みの視線はいちゃもん学校へと向けられた。この学校も酷いタイムを叩き出していた。だがそれでも全ての学校が思っていた。


 大徳寺高校よりはマシだろうと。


 彼らは一人の選手のエア靴が壊れている事を知らない。知らなくても勝てると分かるのだ。旧い型のエア靴の性能はとてつもなく低い。半分とまではいかないが三割ほどは確実にスピードが落ちる。


 転倒さえしなければ絶対に勝てる。そもそも転倒なんて滅多に起きない事故なのだ。


 公立にして強豪。


 大徳寺高校は金しかない私立学校にとって憎むべき敵でしかなかったのだ。


 だがそんなことなど、この乙女達には関係ない。


 そんな次元に彼女達はそもそも居ないのだから。


「おー。なんか他の人がやってるのを見るのは新鮮だねー」


「お尻をタッチって……どれだけゲスなのかしら」


「天海さんはいいじゃないですか。第三走者なんですから。私は大空さんにタッチされるんですよ? 多分タッチじゃなくてグーな気がします」


「グーがいいの?」


「タッチですよ! 優しくタッチ!」

 

 第二試合を観戦する大徳寺高校のメンバー達。その足には古びたエア靴を履いている乙女達である。乙女なんだけど覆面でジャージ。


 他の女子選手はみんなスカートなのにこの三人だけはジャージである。しかも覆面。もう意味が分からない。


「ぐぬぬぬぬ! なんで私は除け者なのよ! エア靴も届いたのに!」


「……だって先生だし?」


「そうよねぇ」


「一応学生の大会ですから」


「むきぃぃぃ!」


 強豪校は嫌な胸騒ぎに襲われていた。


『なんでこいつらはこんなにも余裕を見せている?』


 エア靴の差がタイムの差になる。勝利は絶望的。それは百も承知なはずなのだ。なのに何故。


 何故こいつらはここまで楽しそうにしてられるのか。


 学校の看板を背負っているにしてはあまりにも気楽すぎる。最初から諦めているのか。


 いや、それはない。ならば代打でレースに出ることは無いだろう。


 金で勝ちを購う者には分からない。


 乙女達は信じているのだ。


 愛する男の言ったあの言葉を。


『本当のそらがけ……このレースで魅せてやんよ』


 そんな台詞を。そしてそのあとのやり取りも。


『くまさんらしくないのですー!』


『そうですね。なんか違います』


『……がおー』


『応援するのです! 頑張れくまさんなのですー!』


『わたくしも応援します。勝ったらご褒美をあげちゃいますね』


『くまぁぁぁぁぁ! くっくまぁぁぁぁぁぁ!』


『ひーちゃんの浮気者ぉぉぉぉ!』


 今ここに奴が居ないのは母親に折檻されているからである。


 乙女達はそれでも一応信じている。


 そろそろレースなので止めにいかないと。


 でもギリギリまで折檻でいいよね?


 乙女達は信じている。


 



 そしてレースの時がやって来た。


 第四試合。四校が同時にスタートして最終的にタイムを争うタイムアタック。


 空中に敷設されたフォトン回路粒子の道『フォトン回廊』を駆け抜けるパンチラレースの始まりである。


 大徳寺高校の一番槍は絶対にこいつ。誰よりも真っ直ぐで誰よりもアホな娘、大空ひかる。


 各校の選手がレーンに並んで準備する中、何故かクラウチングスタートの姿勢を取るひかるに他の選手達は困惑を隠せない。


 そらがけに脚力によるスタートダッシュは存在しない。


 だがこのクラウチング娘は自信満々で前を向いている。覆面の奥に見える瞳は尋常ではない輝きを放っている。


 他の選手達は動揺した。まさか……そんな思いが脳裏によぎる。彼女達はスタート直前という大切な所で動揺してしまったのだ。


 そしてスタートの号砲が鳴った。


「ぬが!」 


 クラウチング娘は転けた。頭から地面のクッションに堕ちたのだ。当然である。フォトン回廊はエア靴にのみ反応して反発する。クラウチング姿勢を取っても指は光の道をすり抜けるのだ。むしろその体勢をスタートまで維持出来ていたのが異常である。


「ひかるー! 早くレーンに復帰しなさーい!」


「あいさー!」


 頭から堕ちたはずのバカがレーンに飛び乗った。足場がフカフカのクッションなのに一足飛びでレーンに復帰したのだ。ルール上問題ないが、人間離れした跳躍である。そして一人レースを再開してレーンを滑り出す。その背中がどんどん遠くなっていく。しかし他の選手達は動けない。人はあまりにも衝撃的な映像を見ると固まるのだ。


「なにしてんだ! 早く進め!」


 顧問の怒号を受けてようやく彼女達は進み出した。そらがけはオートで進む。しかし最初の一歩は自らの意思で進まねば動かない。


 ひかるはその最初の一歩を見事に挫いたのだ。本人にそんなつもりは微塵もないというのに。

 

 エア靴の性能は明らかに格下。しかし最初に出来た差はあまりにも大きかった。


 ひかるが次の走者のお尻をペチンと叩いた時、まだ他の選手は最終カーブにも届いていなかった。


 大徳寺高校の第二走者は最初に大きく体勢を崩したが、なんとか持ち直した。


 しかし体勢を崩した影響とエア靴の性能差によって第三走者へのヒップタッチは他の学校との横並びとなった。


 ここで大徳寺高校は終わった。多くのものがそう確信した。


 大徳寺高校の第三走者は大柄な女子である。覆面をしているのでその顔は分からない。だがマスクから溢れる青く長い髪はその選手が何者かを如実に語っていた。


「海月ちゃーん!」


「頑張れー!」


「お尻にタッチー!」


 体育館は一気に空気が変わった。歓声が体育館を揺らしていく。


 アイドル天海海月、ここが勝負所と判断して賭けに出た。


「みんなー! 最後まできちんと見届けなさーい!」


 天海海月は手を大きく振って歓声に応えると、軽く跳ねて空中で体をねじり、体を前後反転させた。彼女は後ろ向きでフォトン回廊をまっすぐ前へと滑り出したのだ。


 反転滑り。エア靴のオート移動を利用した高等テクである。格段に酔いやすくなるぐらいで特に意味はない。彼女は簡単にやってのけたが普通は跳ねた段階でバランスを崩して転倒する。アイドルとして鍛えてきた彼女をして、成功率が三割という小技である。


 これには観客席が沸いた。


 そらがけのレースに技はまず出ない。


 ただ運ばれるだけのパンチラレースに見せ場はない。あるのはパンチラだけなのだ。


 だかアイドル天海海月は魅せてきたのだ。いまだかつてない世界を。


 ただでさえ性能で劣るエア靴。反転滑りで速度は更に落ちた。でも天海海月はビリになりながらもこれでよいと感じていた。


 あとはアンカーに任せればいい。


 他の学校がどんどんアンカーへとヒップタッチしていくなか、後ろ向きに進む天海海月は奇妙な高揚感を感じていた。


 おかしくて仕方ない。何故自分はこんなところで後ろ向きになって光の道を進んでいるのだろうか。


 そしてこれから自分がすること、したいこと。もう後戻りなんて出来ないし、考えない。


「魅せて。あの日のあなたをもう一度」


 天海海月は歌うように呟いていた。


 後ろ向きに進む彼女のお尻が熱いものにぶつかった。ヒップタッチである。お尻でお尻にごっつんこ。愛する男の熱い尻である。


「これからいくらでも魅せてやんよ。だから今度は一緒に跳ぶぞ」


 ああ、やっぱりこの人は昔のまんま。あの頃の自分はこの男に惚れたのだ。天海海月はエア靴のスイッチを切り、レーンから落ちていく。まっすぐ下に。クッションに着地した彼女は後ろに倒れ込み彼の背中を逆さまに目で追った。


「……ん?」


 天海海月は見た。光の道を縦回転して進む巨大な塊を。


 逆さに見てるからおかしく見えるのかしら。そう思い海月ちゃんは体を起こしてちゃんと見てみた。


 やはり光の道を巨大な塊が縦回転して進んでいる。他の選手を弾き飛ばしながらレーンの上を異常なスピードで駆け抜けている。


「……んん?」


 エア靴には決して出せない速度でレーンを爆走する回転物体はあっという間にレーンを一周して自分の上を通過した。早い。早すぎる。ごぼう抜き、いや他の選手は見事に全員がレーンの外に弾き出されている。


 あれ? 私の余韻はどこに行ったのかしら?


「よっと……」


 ゴールラインを越えた時点で回転物体はその動きを止めた。光の道にいつもは現れない光の轍が見えていた。


 動きを止めた回転物体。うん。人間だ。覆面しててすごくムキムキだけど人間だ。多分私の大好きな人。


 で、今のはなんだったの?


 天海海月はまだ意味が分からない。


「ま、こんなもんか。とりあえず……がおー!」


 覆面男による勝利の雄叫びは静まり返った体育館にいつまでも響き渡ることとなった。




 結論から行こう。


 試合は有効となった。


 大徳寺高校の男女混合リレーの順位は二位。


 一位は他の学校である。タイムアタックなのでこうなった。


 やはりエア靴の性能差は如何ともしがたい。


 回転する物体はこの結果をむしろ上出来と判断した。


 一人納得する回転物体。だが文句を言う者は沢山いた。それこそほとんどの学校が抗議したのだ。


 あんなレースは無効であると。


 あれはズルの産物だと。

 

 大会組織委員会も一応聞いた。


『なにあの動き。おかしくない?』と。


 回転する物体はその問いに、こう答えた。


『自分の靴は壊れててフォトン回路粒子の発生にムラがある。それを上手く使うとあんな風に動けるのさ』


 なるほど、分からん。分からんがルール上、壊れたエア靴を使ってはならないとは書いていない。


 そして他の走者をかっ飛ばしてはならないというルールもない。


 走行の妨害は公式試合でも認められたルールである。タイムを競う競技なのでそんなことをすれば必ず負ける。強豪同士が潰しあうようにこのルールは作られた。


 他の走者をかっ飛ばして進むことは想定されていない。でもルール上は違反でもなんでもない。


 回転して進むのもルール上、禁止されていない。


 しかも縦回転。


 うむ。意味が分からん。分からんがルール上、フォトン回廊にずっとエア靴を接地していなければならないというルールもまた無い。つまりはルールに則ったプレーである。


 大会組織委員会はそう結論付けた。


『ルール上、なんの問題もない』


 文句を言う学校の主張を全てこれで突っぱねた。いつぞやの仕返しである。


 何より大徳寺高校の順位は二位である。それに負けてるお前らは努力が足らんのだ。


 そう熱血おじいちゃんは締め括り大会は終わった。


 こうして大会の競技は全て有効となったのであった。




「くまさん……あれはどうかと思うのです」


「くまぁ!?」


「お客様、あれは……ちょっとやり過ぎです」


「……ご褒美は?」


「ひーちゃんの浮気者ぉぉぉぉぉ!」


 大会終了後。見事二位という結果を残した『新そら部』のメンバー達はファミレス『ポナパン』で祝勝会を開いていた。


 祝勝会であるのだが、まずはみんなこれが気になった。


「……ひーちゃん。なんで縦回転してたの?」


 縦回転する巨大なひーちゃん。そのインパクトは大きすぎたのだ。


「壊れたエア靴の都合だな。前に進むのに横回転するわけにもいかないだろ?」


 何処かの世界のナマコはそれで進むがそれはナマコの話である。ひーはー!


「……なんで壊れたエア靴であんなのが出来るの?」


「壊れてるから出来たんだ。エア靴は基本的に常に一定量のフォトン粒子を出し続けている。それは確かに安定はするが弱いんだ。フォトン粒子は刹那に存在させるとその強度が格段に増す特性がある。壊れたエア靴はフォトン粒子の出にムラがあった。だからあんな無茶な動きが可能だった、となる。その分当然危険になるがな」


「……ひーちゃんが知らない人になってる」


「覆面を剥ぎなさい!」


「くまさんがにせものなのですー! わたしのくまさんを返すのですー!」


「ぬがー! 何故だー!」


 此度のレースにおいて一番の功労者であるはずの回転する覆面野郎はメンバー達から酷い目に遭わされていた。


「やめろぉぉぉ。マスクマンの覆面はマスクマンの命なんだぁぁぁ」


「くまさんを返すのですー! とやー!」


「うわぁぁぁぁ」


 覆面の巨漢は口でこそ抵抗していたが幼女に顔を差し出していた。肥田野君もそろそろマスクは卒業かな、と思っていたのだ。


 そもそも覆面を被るようになったのはトンコツラーメンのスープを作る過程である。


 トンコツは終わった。ならば覆面は必要ない。


 マスクドヒダーノは現役を引退する時期に来ていたのだ。


「よいしょ、よいしょ。とれましたー! ……はぇ?」


「ふぅ……仕方無い。今日を限りにマスクドヒダーノは終わりだな。いやー残念だなー。うん、残念だ」


 肥田野君、満面の笑みである。


「ふ、ふにゃぁぁぁぁ……」


 まずは幼女が溶けた。ファミレス『ポナパン』の席で巨漢の膝に乗り、頭を抱くようにしてマスクを外していた幼女である。誰よりも距離が近かった分、幼女の受けるダメージは桁違いとなった。


「……うわぁ。ひーちゃん……また痩せたのね」


「かーちゃんに叩かれたし血も出したから……でもそんなに痩せた? 一キロも減ってない気はするんだけど」


 蕩けた幼女を優しくだっこする肥田野君。幼女は彼の甘いマスクを至近距離で見てしまい蕩けてしまったのだ。


「……翔ちゃん? 整形したの?」


 マスクを外したのに甘いマスクを付けてる息子に肥田野ママは呆然としていた。


「痩せたら顔のむくみが取れたみたいで……前の顔の方がオーラはあったよね。早く体重戻さないと」


 肥田野君、トンコツラーメンのスープ作りで五キロ減った。これは彼の肉体に大きな影響を及ぼしていた。血液製造の為に脂肪もきっちり付けていた肥田野君。その脂肪分がトンコツラーメン作りでごっそりと削られた。


 彼の肉体に無駄なものは、ほとんどない。体重も全て計算された上での、ぽっちゃりデブだったのだ。


 分厚い筋肉の上に脂肪がぽよんとあるのでデブにしか見えない。顔はいつもむくんでいてお世辞にもイケメンとは決して言えない。


 それが肥田野君だった。


 だが、今の肥田野君は脂肪が全てこそぎ落とされた純粋マッチョである。身長180センチの巨漢。パンプアップすると更に膨れ上がる筋肉の化け物である。


 しかしその顔は涼しげな目許のハンサムガイ。


 むくんでいたお顔もスッキリしちゃって母親似のイケメンフェイスがマスクの下に隠されていたのだ。


「……ひーちゃん。やっぱりマスクしようか。先生は正直我慢できないわ。お義母さんの前だけど、ひーちゃんとキスしたくて先生狂いそうなの」


「装着!」


 そんな気もしてたので肥田野君は替えのマスクを用意していた。片手で幼女を抱き抱えながら器用にマスクを装着する。


 見た目に拘らない男、肥田野翔。


 女の子というものは整った顔が好き、というのは当然彼も知っている。自分も可愛い女の子が好きなのだ。だからそれは当たり前の事だと思っている。


 この顔ならナンパし放題。そんな事も考えた。


「……くましゃん」


「がおー」


 腕の中、そこには熱く蕩けた幼女がいる。蕩ける幼女の潤んだ瞳。そこに彼は欲情の焔を見た。まだ幼女なのに女の顔である。


 かつて『天宮翔』としてモテモテだった彼は知っている。あまりにもモテモテになると、とんでもない事になるって事を。


「……お客様。デザートをお持ちしました。すぐに口移しでご提供致しますね」


 ファミレス店員、ポナパンがものすごく真っ赤な顔で現れた。手にしているのはメロンソーダである。ストローが雑にぶちこまれた即席の一品である。


 ポナパンはここで一気に勝負をかけたのだ。マッチョイケメン逃すまじ! その一念が彼女を走らせたのだ。

 

「待とうか、ポナパン。ぶっちゃけ君とは普通に付き合っていきたいと考えている」


「……ええ?」


 ポナパンは眉をしかめた。彼女は感じたのだ。友達でよろしくぅ! そんな風に言われたのだと。


 肥田野君はこのポナパンと、やたら波長が合うことに気付いていた。中々居ないのだ、ここまで肥田野君と『がお会話』が出来る人間は。


「……がお!」


「……まじですか?」


 ポナパンはこれで理解した。


 友達から始めましょう。でも友達よりもずっと深い関係になりたいな。でもでもエッチなのはダメだよ? 僕らはまだ学生なんだから。君も僕もちゃんと責任が負えるようになってからそういうことはしようね。でもでもでもそれ以外のえっちぃ事ならいつでも大歓迎だよ! ふははははは!


 この肥田野君の想いはポナパンのハートをぶち抜いた。


 ポナパンはテーブルにメロンソーダを置くと眦から溢れる涙を拭いた。


 その様子に乙女達はポナパンが完全に堕ちたことを知る。


「うわー。ひーちゃんが浮気したー」


「う、浮気ではない! う、浮気っぽいけど。ポナパンとは清い関係からスタートするんだ!」


 既に浮気前提のスタートである。肥田野君はゲスである。


「翔ちゃん? お仕置きは足りなかったみたいね?」


「くましゃん? うわきはダメなの。がぶぅ」


「ぐわー!」


 筋肉魔人肥田野君はお仕置きとして、乙女達から体のあちこちに歯形を付けられる事になった。


 マーキングである。


 乙女の本能は時として獣の本能と被るのだ。


 このオスは我らのもの。それを知らしめる為に歯形を残す。テリトリーを知らせる熊の爪研ぎと同じである。


 大空ひかるがガブリ。


 天海海月がガブリ。


 委員長、田中美鈴がガブリ。


 女教師美和子がガブリ。


 幼女はガブガブと。


 ポナパンは遠慮がちに、かぷかぷと。


 肥田野ママは拳骨の雨を降らせ。


 幼女ママも何故かガブリ。


 ファミレス『ポナパン』はマッチョ試食会になっていた。当然店長も出てきてイケメンマッチョをガブリである。


 店長も女性であったのだ。

 

 既婚者にして子持ちであるが、彼女も筋肉の誘惑に勝てなかった。そういうことである。




 そして六月の風は吹く。生ぬるく湿気った風は夏の前に梅雨を運んでくる。


 筋肉試食会は盛況に終わり、みんな己の生活へと戻っていった。


 歯形だらけの覆面野郎は学校に戻り、またコックとしてその腕を振るい。


 覆面の乙女達も学校に戻り覆面を外して普通の女学生に戻る。


 覆面の女教師は今回の大会結果で臨時ボーナスが支給されたのでバーに駆け込み。


 肥田野ママは拳骨を納め主婦としての生活へと戻った。


 ポナパンは変わらず大学に通いながらバイトしつつ、一人の男と文通交際を始める事になり。


 幼女は小学校に通えるようになったので普通の幼女としての生活を楽しんでいる。


 幼女ママは口に残る背徳の甘さに悶える日々。


 何が変わった訳でもない。


 さりとて前と同じというわけでもない。


 またいつもの一日が始まるのだ。





 大徳寺高校の朝は早い。


 特に調理場に勤める人達の朝は四時五時当たり前の世界である。


 ここで鍋洗いに精を出している一人のオカマがいた。


 名を『マダムキャサリン』と言う。


 ……この物語は『そらがけ』です。そらがけの物語だから。いきなりの展開だけどそろそろ物語が終わるからオカマでも我慢して欲しい。


 遅れてきたリーサルウェポンマダムキャサリンはこの大徳寺高校の鍋洗いとして新たに雇われた人物である。


 つまりは職員の扱いだ。


 事務員とは違うが公務員。オカマな鍋洗い公務員である。


 しかし彼の本当の正体は『天宮工業』の雇った私立探偵『柳葉公彦』である。娘が今度三才になる子煩悩パパでもある。


 勿論調理場のおばあちゃん達には正体がバレているし、学校側もそれを認識している。


 マダムキャサリンだけは上手く潜入出来ていると思っている。


 そんな喜劇である。


 喜劇探偵マダムキャサリン、柳葉公彦が天宮工業から依頼されたのは、ここ大徳寺高校の生徒の持つ『とあるエア靴』の奪取である。


 天宮工業はなんとしてもこの『とあるエア靴』を手に入れたい事情があったのだ。


 この『とあるエア靴』が知られるようになったのは高校生のそらがけ大会で生まれた眉唾な噂が発端であった。


 フォトン回廊を運ばれるだけの機能しか存在しないエア靴なのに縦回転した。しかも猛スピードで進んだという信じられないような噂である。


 大会には撮影班がいた。しかし彼らの任務はパンチラ撮影である。この改造エア靴を使用していたのは男子だった。つまりは撮影しなかった。そういうことである。噂は噂止まりとして決定的な映像は何一つ残っていなかったのだ。


 ネットやテレビでも、噂のみが一人歩きして、このそらがけ大会で使われたエア靴は『改造エア靴』となっていった。本当は『壊れたエア靴』なのだが、誰もそれを信じない。たとえそれが嘘でも信じたいものに飛び付くのが人間というものである。


 大会組織委員会はちゃんと公式として情報を公開したのだが、みんなそれを信じなかった。


『改造エア靴』


 ただそれだけが実態の無いまま噂となり人々の間で明確な形になっていった。


 エア靴を越えたエア靴。


 空を駆ける本当のエア靴。


 こんなのを使って卑怯だー、という声よりも『やっとマシなエア靴キター!』という声の方が大きかった。


 猛スピードが出せるエア靴。


 縦回転するエア靴。


 なんで縦回転?


 なんでー?


 その答えを求める人は多かった。


 噂は噂で収まらなくなったのだ。


 そういうわけで日本唯一のエア靴メーカー『天宮工業』に問い合わせが殺到した。


 どんな改造をしたらあんな靴になるのか、それを問い詰める人達でコールセンターはパンクした。


 むしろその靴を売り出せと全国で声も上がった。何せ『そらがけ』は文部科学省推薦のスポーツである。その声は全国で立ち上がったのだ。


 天宮工業は困った。


『改造エア靴』なんてものは実在しない。最初会社はそう説明した。実際にそうなのだが天宮工業は『改造エア靴』について何も分からなかったので、そう答えるしかなかったのだ。


 縦回転……何故?


 猛スピード……何故?


 この会社も意味が分からない。


 天宮工業は理解してエア靴を作っているわけではない。

 

 原本といえるエア靴をコピーして広く世の中に売り出しているに過ぎないのだ。これを知るのは会社でも一握りである。


 それゆえに降って湧いた『改造エア靴』は彼らにとって喉から手が出るほど欲しいものだった。


 天宮工業は日本唯一のエア靴メーカーなのだが、実態は劣化コピーを作るだけのメーカーである。


 改造も改良も出来ない。それを『そらがけ』公式試合で禁じているのはそれをされると困るからである。何せ自分達にも出来ないのだ。メーカーとして分析しろとか言われても無理なのだ。


 何せエア靴の事は何も分からない。それが実態なのだから。


 だからこその『改造エア靴』である。


 これさえ手に入れば何か分かるかも知れない。天宮工業はそう考えて盗む事にしたのである。


 考え方がアウトローであるのは仕方無い。


 天宮工業は大徳寺高校に通知したのだ。『改造エア靴を出せ。出さないと公式戦に出させなくするぞ』と。


 そしたら『んなもんねぇよ。ばーか』とお返事があったのだ。そしてこのやり取りはテレビとネットで公開された。


 天宮工業は大炎上した。


 炎上しているが『改造エア靴』は絶対に逃せない。こいつは、とんでもない金づると繋がっているのだ! 


 そんなわけでこうなった。


 キャサリーン! あなたの出番よー!


 と。


 マダムキャサリンは度々天宮工業から産業スパイとして依頼を受けているプロの探偵である。彼に潜入出来ない場所などない。そう言われるほどの凄腕探偵なのだ。


 でもキャサリンは鍋を洗いながら今回の仕事の結末を予感していた。プロ特有の感性である。何となく未来が読める。そういう次元に彼は居た。彼もまたプロであったのだ。


「キャサリンさーん。こっちの寸胴も頼みまーす!」


「……はぁーい! キャサリン頑張っちゃうわー」


 寸胴地獄。洗っても洗っても新たな寸胴が出てくる地獄である。


 人が入れるサイズの寸胴が既に五個。おいおい、人でも煮込んでんのか? そう愚痴りたくなるキャサリンである。


「キャサリンさーん。悪いことしたら煮込むので真面目に働いてくださーい」


「……はぁーい……キャサリン頑張っちゃうわぁ……」


 ここには鬼が居た。いや、鬼しか居ないのだ。老婆の姿をした鬼達の巣窟である。


 ここは罪人が秘密裏にぶちこまれる都会の闇牢獄。


 キャサリンはフランクな覆面レスラーがここで働いていることからそう理解した。


 自分に指示を出す陽気な覆面レスラーが老婆にぺこぺこしながら、さらに指示に受けているのだ。


 当然だろう。やつらは老婆の姿をした鬼なのだから。


 巨大な釜を片手で傾けて匙を突っ込み味見をする老婆。


 グツグツと煮えたぎる釜の縁を素手である。思わず二度見した。


 巨大なしゃもじで鍋をかき混ぜる老婆も居た。


 洗うときにしゃもじを持ったけど娘よりも重い気がした。手首から嫌な音もした。


 ここは地獄だ。鬼だらけの魔境なんだ。


 夜中に何度も逃げ出そうとしたけど門に触れた所でいつも朝になる。自分の部屋の自分のベットで目が覚めるのだ。


 意味が分からない。


 ここは現世とは切り離された魔界。


 俺はここで寸胴に突っ込まれてグツグツと煮込まれて終わる。マダムキャサリンは鬼に料理されて終わるのだ。


 プロフェッショナルの勘がそう告げていた。


「キャサリーン! 気を抜くと死ぬぞー!」

 

「……はぁーい。ぐはっ!?」


 マダムキャサリン。立て掛けていた巨大しゃもじに潰される。寝かせるのが基本のものを立て掛けて置いていたキャサリンのミスである。


「あちゃあ。これで何人目だよ」


「翔ちゃんの部下はまだまだ就きそうに無いわねぇ」


「今度の子は面白そうだったのにねぇ」


「でも……無能では務まらないのよ?」


 キャサリンは薄れ行く意識の中でそんなやり取りを聞きつつ彼岸へと旅立った。


 死因。しゃもじ。


 キャサリン、三才の娘を残しての無念な最期であった。



 おしまい。



 ……になるのはもう少し先である。


 キャサリンは警察病院へと搬送された。解雇通知も添えてある。これで八人目のスパイなので学校も慣れたものである。


 おばあちゃん達は映画のような日常に今日も笑顔である。


 でも覆面レスラーは少し困り顔。


「早く部下が欲しいなぁ」


 そんな風に六月の日々は過ぎていく。


 梅雨が来て、そのあとは夏が来る。


 女の子が薄着になる季節である。


 イケメンマスカラス。


 新たな名を頂戴した覆面レスラーの日々はまだまだこれからが本番なのだ。


 そう、彼らの青春はこれからなのだ!


 ということで物語はここでおしまいである。おつかれー。


 


 今回の感想。


 書くのも疲れましたが、読むのも疲れると思います。おつかれー。


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