006.月の射止め方
小学生の頃、私は自分の名前が嫌いだった。『ぼたん』。ひらがなで書くとなんか野暮ったく感じるし、漢字にしたって、
『つき沢 牡丹』
書いてみたらわかる。牛で、土で。丹っていう字もどーんと太ってるみたい。なんだよ、そんなことって思う? それでも、小学生の頃の私は真剣に悩んでいた。
だから私は、夜をパチリと留めたかった。
あの詩だ。
私に向けられた、あの詩みたいに。
§
「私、行くよ」
さくらにはそれだけで通じたみたいだった。
「そ。行ってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
いつでも帰ってきてね、とすら、さくらは言わなかった。代わりに、その小さな体と固い抱擁を交わす。
別れ際、『ノリ』は控えめに右手を差しだした。私は思いっきりその頬を張ってやった。
いくら世界中で注目されているとはいっても、交番までの道のりを見とがめる人はいなかった。マスクと、今は帽子も被っていたからだろう。
もう日も沈みかけて少し眠そうな顔をしていた警官は、私が名前を告げると弾かれたように立ちあがってどこかへ電話をかける。ものの数分もしないうちに数台のパトカーがやってきて交番の前に停まった。それに乗って、本人確認のためにと求められた運転免許証を手渡す。
「槻沢さん。ひとまず何も伺いません。すぐに調布の航空宇宙センターまで向かいます。よろしいですね」
「はい。お願いします」
平日の夕方というのが嘘みたいに、パトカーは一度も停まることなく目的地まで到着する。
Ⅱ-αと書かれた建物の前には人だかりができていて、パトカーから降りた私にフラッシュの雨が焚かれた。
白く焼ける視界。
けれど目は伏せない。
建物に入る直前、上りはじめた満月を一目見た。
ああ、またあの寒さだ。初めてテレビであの男を見たときの感覚。心臓の少し下が一瞬縮こまって、ぞくりと震える。自分の体をかき抱いて、促されるままに『通信室』と書かれた部屋までやってくる。通信室は何台ものコンピュータが並んでいて、これまた何人もの人が私の到着を待っていたようだった。
「槻沢さんですか。今度こそ本物でしょうな」
見覚えのある政治家の視線がジッと私の顔に注がれる。
「身元確認は終えています」
私のすぐ後ろについていた警官がそう告げる。
「いいですか。槻沢さん」
今度は白衣に局員証をかけた男がやってきて私の名前を呼ぶ。
「くれぐれも、犯人を刺激するようなことはしないでくださいよ」
世界のために。
張り詰めた言葉尻にはそんな文言がついて回る。それはその場の誰もが同じ思いだったようで、騒然としていたあたりが一瞬だけ静まりかえった。
「はい」
私は震えを抑えて頷いた。
少しして月との通信のための準備が整うと、私は通信室の中央、映画館のスクリーンくらい大きなモニタの前に立った。目線の高さに一台のカメラマイク、すぐ手元にはいくつかのスイッチが用意された。局員証の男の人が噛んで含めるようにゆっくりと私に語りかける。
「通信の際はこのマイクに向かって話してください。ミュートの際は、こちらの赤いスイッチを」
「はい」
「会話内容はこちらで判断、決定させていただきます。手元スイッチのすぐ横に文章が表示されますから、そうと気取られないように読み上げてください」
「……はい」
「通信、入ります」
その声と共に部屋の視線は一気に私に集中する。衣擦れの音すら聞こえない静寂の中、私の見上げる巨大モニタに映像が入った。
男は、きっと私と同じく今世界で一番の有名人だろう、一週間前と同じ目出し帽姿で私の前に映し出された。
寒い。
疼くみぞおちを撫でた。
『ああ、槻沢さん。やっと会えましたね』
男は手を持ち上げて、脇に携えたマシンガンを背中に隠すようにする。その姿は、やっぱり、初めて見たときと同じ。どこか寒そうで。
『槻沢さん。僕のこと、覚えていますか』
「ちょっと、待ってもらえますか」
世界を人質に笑う男の声を遮って、私は息を吸い込んだ。
大丈夫。
大丈夫、じゃなくても。
「今この部屋にいる人は全員出て行ってください。彼と私、二人きりで話します。読めと言われた台本も、私、読みませんから」
一瞬、時が止まった。
ふざけるなよ。そんな声すら上がらない。ミュートスイッチは私の手元にある。私をバッチリ映して離さないカメラもね。通信切断なんてもってのほか。数人の警官と研究員がじりじりと私への距離を詰めて、すぐに諦める。喉の奥から声にならない声を上げようとして、口を押さえる。
私を取り押さえて、それでどうなるだろう?
要求通りやってきた私をまた引き離すことが、彼をどれほど刺激するだろう?
私のためなんかじゃない──他ならぬ世界のために、その場の誰もが黙って私に従うほかなかった。一分ほどして、一人、二人と外へ出て行く。最後の一人が恨めしげな視線で扉の向こうに消えたのを見て、やっと私はモニタに向き直った。
「すみません。もう誰もいなくなりました」
『……驚いたな。突然皆出て行けだなんて。ドラマや映画だったら、これも何かの作戦かと疑うところです。でも、今は信じます。傍聴者はともかく、台本の件は全く言う必要がないのですから。ありがとうございます。槻沢さん』
「いえ」
首を振る。モニタを見上げる。
『槻沢さん。変わりませんね。あの頃のままだ』
「さっきの質問ですけど」
『はい』
「ごめんなさい。声だけじゃ誰かわからなくて。顔も見せてもらえますか」
沈黙。
『それもそうですね。それで人払いをしたんですか』
男は片手で目出し帽を外す。
押さえつけられて平らになった黒髪に、ほっそりとした一重の目が私を見つめる。顔は全体的にこけていた。一文字に結んだ唇がほんの少し、震えた。
『これでどうですか。槻沢さん』
寒い。心のどこかに引っかかるその顔は、しかしまだ像を結ぶことはない。答え倦ねる私に助け船を出すように男は静かに苦笑した。
『……いいですよ。言っていただかなくてもわかります。あれから随分時間が経っているから……。なんてね。それだけではないのでしょう』
「ごめんなさい」
覚えているわ。私もあなたと会いたかったの。表示されたままになっていた台本の通り、そう言うこともできた。でも。
私は向き合うと決めた。
私が決めたんだ。
「あなたの思いに応えられるかはわからない。それでも良ければ、お話ししましょう」
『はは。……それもいいかもしれませんね。最期にあなたと話せるだけで、僕は幸せ者だ』
私は彼の出身地を尋ねた。越谷だと彼は答えた。
北越谷小学校。私と同じだった。
私は名前を尋ねた。彼は答えなかった。
それすら忘れられていたら、僕はもう何にも縋ることができなくなる。彼は言った。
『槻沢さん、最後に一つ、良いですか』
「はい」
彼は尋ねた。相変わらず、寒そうに震えていた。
『あなたにとって、月とはなんですか』
寒い。
ぶるぶる震えるような寒さじゃない。体の芯は火照るのに、空気に触れる部分はちりちりと冷えていく。芯の熱は一瞬縮こまって、全身に向けて溶けていく。五感の全てが、鋭く、早鐘の鼓動に向けられる。
この感覚には覚えがあった。
緊張とも、人は言うだろう。
でもそれだけじゃない。
これは。
これは、この選択が間違ってやしないかという不安だ。
これは、今に対する高揚だ。
これは、自分の気持ちを伝えようとする喜びだ。
これは、その全てだ。
その気持ちの全てを抱きしめてやる。
「ボタン」
『……は?』
「月はボタンです。夜を留める、ボタン」
何を言っているんだ。そう言われてもいい。
私がこう答えたいと思ったんだ。
男は一瞬眉をひそめて、そして何かに気付いたように呆然とした表情を作った。
『そんな。なんで、覚えて』
空っぽだった表情が涙で埋まっていく。
その涙は私の記憶にも滴る。そして、思いもかけない焦点となる。鼓動の熱で氷解した記憶がかたちをなしていく。まさかこんなこと──忘れるわけがないのに。
「私も、もう一つ質問してもいいですか」
口にすれば口にするほど、言葉を紡ぐ私はあの日の私に同調していく。私に向けられた一編の詩と、頬を真っ赤に染めた少年を前にした、あの日の私。
男は涙を拭いもせずに先を促した。
「昔の私は、あなたに、何て言ったんです?」
初恋だと、男は言っていた。
それは誰もが通る道。
相手の迷惑も周りの迷惑も考えられない。その世界は当人だけを中心に回っていて、向こう見ずで、自分勝手。
誰もが忘れたい。寒くて、その上サムい。緊張と不安と、高揚と喜びとをない交ぜにして。
愛とは違う。恋とすら、それは違う。
そしてだからこそ、それは無謬のような顔をして私たちの心に結晶する。たとえ交われなくても、たとえ結ばれなくても。相手が忘れようと、自分が忘れようと。
その思いは、いつまでもここにある。
『月が落ちてきたら、考えてあげる』
寒くてサムい照れ隠し。
それは確かに、私の初恋だった。