003.月の脅し方
目を覚ました。
わっと声が出そうになって、すんでのところで抑えた。
「そんな気ぃ遣わなくてもいいよ。さくら一回寝たら起きねえから」
耳元で熱っぽくゆれる囁き声に鳥肌が立った。
目が慣れてきて、さくらの家に来たんだったと思い出す。部屋に二つ敷いた布団のもう一方でさくらが小さな体を思い切り広げるようにして熟睡している。
「なんですか」
お尻のあたりにむずむずと添えられた手の平に気付かないふりをして尋ねる。
「ええーっ、冷たいじゃんかさあ。牡丹ちゃん」
ムッと濁った囁き。
「さくらと付きあってるんですよね」
「んー……ま、そうだけどさあ」
抵抗する私の腕を力任せに掴んで『ノリ』は困ったように笑った。
「牡丹ちゃん、こんな美人さんなんだもん。ちょっとくらいいいじゃんか。泊めてやってんだぜ」
『ノリ』は脇の下から私の胸に手を回す。私の薄い胸が乱暴に押しつぶされた。
またか。
そう思った。
メイ・ラバーズだのなんだの、世間は恋とか愛とか、そういうものをもてはやす。中学も高校も大学も、どころか社会に出たあとも周りはそんな話ばかり。初恋がどう、ファーストキスがどう、誰々の好きな人がどう、初めての彼氏がどう。気持ちがどう、思いやりがどう、愛がどう、恋がどう。そんなフレーズで塗り固めて。
結局これのためでしょ。
体をまさぐる気持ちの悪い手を無視して、安らかな寝顔のさくらを見つめる。
助けて、さくら。
そう叫んだら、さくらは起きてくれるだろうか。助けてくれるだろうか。
きっと起きてくれる。きっと助けてくれる。
でも。
「……するなら別の部屋にしてくれませんか」
「別にいいよ」
気なく体に落ちた私の腕を引っ張って、『ノリ』は私を部屋の外へ連れ出す。
「ほんと良い子だね。牡丹ちゃん。……でもほんとに気にしなくていいんだぜ。この前シたときなんか一発終わるまで起きなかったもんよ」
喉から漏れたほんの少しの笑いが、他のどんなものよりもこの場にふさわしくない気がした。歯を食いしばる。最低だ。私。
まるで連行されるみたいにフローリングの床を行く。空いていると言っていた部屋までほんの十数歩。暗闇の中で私の足取りは一層重くなった。
「牡丹ちゃん、165ぐらいある? 俺背ぇ高い子好きなんだよね」
がらんとした部屋に入る。窓が西向きに一つと、小さなクローゼットが一つ。『ノリ』は扉を閉めてから、待ちきれないといったふうに私の唇に顔を寄せた。汗と唾液と、つけていた香水の臭いが混じりあう。私は咄嗟に顔を背けた。
「なんだよ。つれねえな」
表情は見えない。目を伏せる。月明かりに照らされた床だけを見つめる。
「ま、別にキスはなくてもいいよ」
『ノリ』は室内着のズボンを下ろして、「ほら、手でいいから」と私の腕をまた掴んだ。視界の端に映るそれが影の中でひどく醜悪に歪んだ。私の体がすくむのを見て、『ノリ』は溜息交じりに苦笑する。
「ねえ。ヤなら止めてもいいけどさ。今自分がどんな立場かわかってんの? 牡丹ちゃん。せっかく匿ってあげてんのに、ここ逃したら明日からどうすんの」
囁きよりも夜の静寂が耳に障った。
「ほら、脱がしてあげる」
今、私がどんな立場か? そんなの、誰より私が知りたい。心の内から湧きあがってきた声を抑える。
私は声を出さなかった。
溜息も吐かない。
うめき声の一つすら上げない。
ほんのちょっとの呟きでも、すぐに細切れにされて、この静寂が飲みこんでしまうから。
自分の中に入るそれを気に留めない。
乱暴に体勢を変えられて、たまらず窓ガラスに手をつく。夜の空気にちんと冷えたそれが、ほんの少しだけ私を救ってくれる。夜空には上弦の月が出ていた。
夜の帳を、留める。
§
「牡丹ちゃん。新しいバスタオル出しといたから。いいやつだぜ」
『ノリ』はシャワーも浴びずに自室に戻っていく。返事をせずに体を流す。
鏡に映った私の体。見れば左腕にうっすらと痣ができていた。目を伏せる。
念入りに体を洗う。バスタオルで拭く。
新品と言っていた。
無臭のタオル。
いいやつと言っていた。
薄っぺらなタオル。
服を着る。
あの臭いの移った服。
さくらのいる部屋まで戻る。
さくらが目を覚ましてくれたら。
さくらには眠っていてほしい。
布団に入る。
眠る。
私。
私が嫌いだ。