001.月の留め方
スナップボタンの月
夜の帳を留める
まるで私のために作られた詩だと思った。
小さいとき、何かの本で読んだのだと思う。小学校とか、幼稚園とか。小さいの頃の記憶はほとんど曖昧になっていたけれど、なぜかこの詩だけは覚えていた。
底がないみたいに真っ黒な夜空が、深い黒に染めあげられた一枚のシルクドレスになる。ただ夜を飾るだけだった月が、ひときわ輝く。太陽にも劣らないほど大切なものに感じられる。
それに──
§
耳を疑った。
すわ、今日はエイプリルフールだったかとカレンダーに目をやるけれど。そんなわけはないのだ。四月どころか、五月も半ばの日曜日。
だとしたら、これは何?
降り続きだった雨も止んだ五月晴れの朝。久々の気兼ねないお休みで、買い物にでも行こうかと思って天気予報を確認するために点けたテレビは。
テレビは。
『──牡丹さん。槻沢牡丹さん。今でも越谷に住んでいるでしょうか』
咳払い。軍人の被るような目出し帽。一人の男がカメラ越しに語りかける。
私に向かって、語りかける。
『こんなかたちで連絡することになって、困惑することでしょう。ごめんなさい。でも君が言ったことなんですよ』
男の右腕にはマシンガンが携えられていて、ただでさえ追いつかない私の思考をより一層置き去りにする。
──えっ? なんて。なんだって? 私が言った? この人に? 何を。いつ?
『きっと色々な人に迷惑をかけることになると思います。僕はそれでもこの気持ちを抑えられませんでした。だってこれは、僕の初恋なんですから』
男を映すカメラが段々と後ろに引いていく。すぐに男が何らかの特別な施設にいることがわかる。明らかにテレビ局じゃない。クリーム色の背景は病院か、何かの研究所を思わせた。
『……どのみち、もう来るところまで来てしまいました。あとには退けません』
寒いのかもしれない。男に視線を戻して、思う。
男の雰囲気はピリっとしていて──そりゃ、こんな映像をテレビに流すくらいだから、少なくとも緊張はしているんだろうけれど──それだけじゃなくて、芯から現実離れしているふうでもあった。本当にぶるぶる震えるような寒さじゃない。心臓の少し下が一瞬縮こまって、溶けた中身がじわりと染みだす。そんな寒さ。
──それは…………。
変だな。私もつられるようにその感覚に襲われる。それには覚えがあった。あったはずなのに、思い出せなかった。
『牡丹さん。僕と一緒になってください。
──さもないと』
彼の発した一言で、彼の続けた一言で、私は一気に現実に引き戻された。
突然の耳鳴りは、耳を塞げと言っていたのだろうか。
でもそれももう遅かった。
耳鳴りが頭の中を行ったり来たりするのにならって、その男の言葉もまた、私の頭の中をさんざ、さんざ、駆け巡った。かき回された私の頭はぐらぐらと揺れて、すぐに遠近感すら曖昧になる。目を伏せる。床に座りこむ。受けとめがたいその文句が再三再度頭の中を跳ねまわる度、じんじんと耳が熱を帯びた。
早く終わって。思う。こんなの、夢か嘘であってほしい。
強く耳を押さえるほど濁流のように私を包む静寂。押さえつけられた軟骨が気の抜けた炭酸のように痛む。そのかたちをありありと感じて、感じれば感じるほど、この静寂が酷く脆弱なものだと突きつけられるようだった。
手の平の向こうから声が染みこんでくる。耳を塞ぐ手が少しだけ緩む。男の声はしなかった。よく知った女性キャスターが、いつもよりも角張った声で原稿を読み上げる。
『えー、本日、日本時間九時頃、世界各地の天文台にこのような映像が送られてきました。
こちらの映像、昨年完成した世界初の月面基地、メーネからの映像であるということがIMDO、国際月面開発機関より先ほど発表されています。
非常に逼迫した、前代未聞の状況となる可能性があります。
月面基地を占拠したテロリストは、要求に従わなければ月を落とすと宣言しています。
くり返します。要求に従わなければ月を落とすと──』
聞き直してみれば、なんだ。必死で耳を塞いでいたのが馬鹿らしいほど、それは荒唐無稽で、リアリティの欠片もない夢物語だった。
月を落とす?
あの月を? 空に浮かぶ月。
何のために?
──だってこれは、僕の初恋なんですから。
何もかも嘘っぱちな言葉の中で、だとすれば唯一、真実味を帯びていたのは。
──牡丹さん。僕と一緒になってください。
それだけ切り取れば、ありがちな愛の告白。二昔前のドラマでよく聞いたような。
「槻沢さん! 槻沢牡丹さんいらっしゃいますか!」
惚けていた頭が急に現実へと立ち戻る。点きっぱなしのテレビ。そういえば湧かしていたお湯が電気ケトルのなかでぐつぐつ音を立てている。ぺたり座りこんだフローリングの床は、いつの間にか汗でうっすらと湿っていた。
何。なんで、私の名前。
ドンドンと叩かれる玄関扉の方へ顔を向ける。扉の向こうの声はちょっとの間収まって、すぐにまた別の人が私を呼ぶ。
「槻沢牡丹さん、こちらにいらっしゃらないですか! お話伺わせてください!」
私は弾かれたように立ちあがって玄関に走った。扉の鍵を確認する。良かった。チェーンもかかってる。
私が安心するのを許さないように、ドンドン、また扉が叩かれる。名前が呼ばれる。牡丹さん。牡丹さん。のぞき窓に近づく勇気すらなくて、私は壁伝いにゆっくりとベッドのある部屋まで引き返す。扉が叩かれる度に肩が震えた。
足元に転がっていたリモコンでテレビを消した。目に付いた窓のカーテンを片端から閉めていく。三階で良かった。もしここが一階だったら……ううん。
起きてからそのままにしていた羽毛布団にくるまる。そろそろ変えようかと思っていた布団は、五月の昼前にはやっぱり暑くって。それでも、今こうしているには一番良いような気がした。殻よりもずっと分厚い布団に包まれて、耳を塞ぐ。
目を伏せる。
真っ黒な瞼の裏で青と白の斑点が流れていく。上から下へ、今度は奥へ。ザラザラ。その斑点を追うことだけに集中して、むっとした布団の中に長く細い息を吐きだす。つれて、頬から鼻が湿っぽく熱くなる。かきはじめた汗の予感を布団で拭った。
声は聞こえなくても扉が叩かれるのはわかった。床から伝わってくる振動。くるまる布団が鈍く揺れる。
終わったかな。そう顔を上げようとする私に喝でもいれるみたいに、扉は何度でも叩かれた。
目を強くつぶりしめる。ただ、闇を追う。