時期外れの進路相談
桜のつぼみが花開く季節でした。窓を開いてみれば、陽気な日差しに香りたつ春の匂いにほのかな暖かみを覚えます。
反対に、教室には人肌というものが欠けていました。かねては三十数名の生徒がいた教室は整然としていて、いびつな列をなしていた机たちも、今では後ろでガラクタの集まりのように寄せられ、中央に二つの机を残すばかりです。
向き合うようにして座っていたのは、わたしと先生でした。わたしは机の下で両手を膝の上に揃えて、春風とは真逆の重々しい空気に耐えていました。
それなのに、先生は何も言いませんでした。先生が言うべきはずなのに。ただ黙って、持っていたプリント用紙の側面を、机に打つようにして整えているだけでした。
だから、わたしは自分から口にすることにしました。
「先生、わたし大学に行きたいんです!」
三年生であるわたしの必死な訴えにも関わらず、先生は無言でした。
確かにわたしの成績では大学に行けるとは言い難い代物でした。そのうえ、塾にも通っておらず入試にも不安があるのに――
「第一次志望は○○大学で、第二次希望は××大学です」
入学志望が、県内屈指の超難関大学でした。わたしの在籍している学校でも、志望して受かる人は、毎年せいぜい一人か二人がやっとです。
わたしは真摯な瞳でせんせいを見つめていました。
先生は重苦しいため息をついて、ついに口を開きました。
「あやせ、こう言うのもなんだがな。お前には無理だ」
「そ、そんな。何てことを言うんですか」
わたしは狼狽の声を隠せませんでした。担任から進路を断絶されるだなんて、生徒にしてみれば崖から突き落とされるようなものです。それなのに先生は悪びれもせず続けました。
「いや、お前に大学は無理だ」
「先生!! 確かにわたしは成績が良くないし、勉強も得意じゃありません。でも努力すれば夢は実現します。今から一生懸命勉強すればなんとかなります」
わたしは胸一杯の希望と根気と勇気を言葉に詰めました。
「あやせ、不可能だよ」
諭すようでもありながら、大人の欺瞞に満ちた怠惰を本質的に孕む響き。
「あやせ、俺はお前とこんな話をするために呼んだわけじゃないんだ。現実をみて、しっかりと今後のことを話し合おう」
先生はわたしから視線を逸らさず、真っ直ぐに見つめていました。
「納得できません!! どうしてわたしだけなんですか。どうして、わたしだけにそんなことを言うんですか。クラスで一番成績の悪い○○君にも大学をすすめたのに、どうしてわたしだけ――」
「あやせ……頼む。俺をあんまり困らせないでくれ」
先生は眉間にシワを寄せて、苦しげな顔をしていました。
「わかりました。先生」
わたしの意気消沈ぶりに、安堵の息をつく先生。
でも、わたしがうつむき加減でスカーフをシュルリと取り、カーディガン脱ぐのを見て、先生は目尻を下げて怪訝そうな顔をしました。
「そういうことですよね。先生はこの体が望みなんですよね」
先生の首が下に垂れ下がりました。
「あ〜や〜せ〜」
呪詛のような響きでした。
「でも、体を奪っても心だけは奪えませんから」
「ちょっと聞いてくれないか? あやせさん」
「……痛くしないでくださいね」
先生は呆れて頬杖をつきました。瞳の奥には淀んだ輝きがあって、無気力の渦がそこにありました。
「あのね、無理なもんは無理なの、いい加減あきらめろ。お前が大学に行けるわけないだろ」
無遠慮な浅ましい言が、酷くわたしを傷つけました。わたしの顔にもそれは表れたことでしょう。わたしは脱いだカーディガンを綺麗に折りたたみ、スカーフを乗せて、机に置きました。水を打ったかのような静寂が訪れました。
先生も真剣にわたしの言葉を待っているようでした。傷心の身ですが、これは好機でした。かねてより用意していたとっておきの逸話の出番です。
「先生今から話すのは、とある政治家の過去です。
わたしが生まれるよりずっと昔に彼は神の祝福を受けてこの世に生まれ落ちました。
しかし、そんな彼にとって最初の不幸はわずか九歳の頃に母親を亡くすことでした。その後、普通教育が受けられずに彼は少年期を過ごします。
しかし、人生の困難はそれだけではありません。彼は仕事についたものの失職や転職を味わい、さらにビジネスにも失敗しました。恋人を亡くし、神経衰弱なったこともあります。そして何度となく選挙に落選しました」
わたしは息を呑んで、目で訴えかけるように先生を見つめました。
「先生はこの経歴を持つ人物が誰だかわかりますか?」
「……知らないな」
先生は興味がなさそうに言いました。相変わらず、無気力で死んだような目をしていました。わたし先生が生き返ることを願ってその名を口にしました。
「かの有名なアブラハム・リンカーンです」
先生は黙ったままでした。先生の目が腐って死んだようでも、わたしは生きています。だから、わたしはありったけの情熱を込めて言ってやりました。
「成功とは、失敗を何度となく繰り返しても、反省もせず前に突き進む人間だけが手にすることができるんです、先生。過去がどうだろうと関係ありません。わたしは前に突き進みたいんです」
「――違う方向にその情熱を向けようか」
先生は生きた屍です。わたしはそんな腐敗した言葉は信じません。
「わたしは頑張って大学に行きます」
わたしは高らかに宣言しました。学問の神に身をささげました。
「勘弁してくれ」
それなのに先生は両手で顔を覆っています。それでもわたしの思考回路は止まりません。
「行きます行きます行きます行きます行きます行きます行きます行きます行きます行きます行きます行きます」
バン!! 先生が机を叩きました。
「お前は出席不足で、留年なんだよぉぉぉおお!!」
バン!! わたしは机を叩き返しました。
「ちょっと夢を見ただけでしょうがぁあああ!!」
今年から下級生が同級生になります。
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