043 吉之介と正助
この男。
なぜ、この世界に来たのかが思い出せなかった。
この世界になぜ自分が呼ばれたのか? その理由が思い出せなかった。
目覚めると何処か見知らぬ屋敷にいた。
だだっ広い畳敷きの、座敷のまん中に敷かれた布団で呑気に寝ていた。
半身を起こす。
徐々に冴えだした頭で、どうやら自分が若返っている事に気付いた。
彼は至極冷静だった。
発声してみて、身体中を撫でまわしてみて。
そして自分が自分ではあることを確信した。
ただ一点、大きな違和感。若かった。
昨日、いや、先刻と言えようか。彼はなにか何処かの博覧会の内覧会に誘われた。誘った相手も、横須賀だったか何処だったか、会場すらもとにかく思い出せない。もしかすると博覧会などでは無かったかも知れない。
そこである人物と再会した。
その人物とは、もう1年以上も口を利いていなかった。
その人物は彼にとって障害、目の上のたんこぶ。
彼自身がそう認識していたのではなく、彼を取り巻く周囲の人間がそう捉えていた。
ただ彼はそう思っていなかった。違うと思っていた。
だが、違うと思っていたのに、その気持ちを決して口外しなかった。態度にも示さなかった。
彼は自己表現が極端に苦手だった。いっそ自我をさらけ出すことを封殺していた。
なぜならそれが、それ自体が、彼にとっての自我の表現であったから。
心中を秘匿することが、まるでそれが美徳であるかのように、あるいは信条であるかのように、彼という人間を形成する上で根幹的な体質だった。
彼の周囲はそんな彼を勝手に解釈し、彼がそう思っている、考えているのだと先回りし、彼の行動の先に頼みもしない線路を敷いてくれようとした。
彼はそんな周囲の人間の(勝手な)思い遣りを全部許容した。それが彼にとって益になることでも、ただの押しつけでも。さらにはそれが彼には明らかに不利になることでも。
一切合切を大きな懐で受け止め、寛容した。
とにかく否定も拒否もしなかった。
その、博覧会会場で再会したある人物も、最初はそんな彼の、周囲の人間の一人だった。彼が受け止めた人間の一人だった。
だがある時、そのある人物は彼の内面にある矛盾と無駄さに気付いた。そしてある人物は自我に目覚め、自らの意志を持ち、彼の内面と対等でありたいと思うようになったのである。
対等とはつまり、自律である。そして自律の行き着く先は対立だった。
彼そのものではなく、彼の取り巻きとの対立だった。
台湾という東アジアの孤島が、両者の対立を鮮明にした。
対立は当然のように対決に発展した。
その結果。
彼はある人物に敗北、表の舞台から消えた。
消えてからしばらくして、博覧会かなにかの催しで、そのある人物と再会したのである。
お互いぎごちない会釈がやっとだった。
彼は敗れ落ちぶれた自分を晒すのが辛かったのではなく、ある人物が不快もしくは迷惑に思うことが堪らなく辛かった。やり過ごす、それしかない。自分に言い聞かせようと唾を飲み込んだ。
だが彼は。
内心、その人物ともう一度仲良くなりたいと思っていた。
このままそっぽを向きたくなかった。そんな事をしてしまえば一生後悔すると。
これは好機なのだと。
彼は目の前にあった展示物をしげしげと眺めた。
縦長の大きな、ロッカーに似た個室が、他の誰の目に留まることも無く、ポツリと置かれていた。
扉のノブに、【有料シャワー】と下手くそな日本語でプレートが掛かっていた。
「有料シャワー? シャワーってないや?」
「シャワー? 知らんな」
まるで、独り言同士の会話。
互いにまた無言。
一生の後悔、それはある人物も同じだった。
かつては背中を追い、ときには肩を並べ、あるいは真正面からぶつかりあった相手。
もっと端的な表現をすれば。
親友。
彼の内心を痛いほど識り尽くした自分だ。
ここで顔を背け合って良いはずがない。
ある人物は、彼が目に留めた展示物をしばらく自分も観察し。
「試すつもりなんか?」
とポツリ尋ねた。
彼は「そうだな」と返し、個室に入った。
とある人物も、そうする事が当たり前のように、続いて入っていった。
◆◆
「吉之介さ。起きたか」
「正助さ。……どうして」
彼、西郷隆盛は、ある人物、大久保利通とようやく目を合わし、名前を呼んだ。
大久保は泣きそうに笑った。
「ここは弘治年間ん島津ん城や。伊地知もおる! オイたちはやり直しをすっど! ついて来い、西郷よ!」
縁側に立っていた大久保が叫び、庭にジャンプする。
ポカンとした西郷、バシバシと自らの頬を叩いた。
身軽になった図体を助走させ、庭にいる大久保に目掛けて投げ出した。
西郷は子供に還り、重い重い殻を脱ぎ捨てた。