035 千里ヶ丘決戦(午前④)
摂津国(=現大阪府)
―吹田付近・主戦場北西側―
午前11時00分(午の刻)。
島津義久は遥か九州の地で起こっている事態に気が削がれていた。
大友領に上杉謙信が軍勢を伴って入り、北九州の反島津勢力を糾合しているというのだ。
彼は即断し、畿内制圧をいったん諦めた。近従に伝える。
「大坂城ぁ戻り、体勢を立て直すとが得策や。義弘に伝えてくれ」
「毛利はどうすっとですかいな」
「どうもこうもなか。そんた毛利が決むっ事や」
吉川元春は戦塵舞う中、島津義久からのカード通話を受けた。
「別に構わんが、兵と指揮者は置いて行け。――大坂城で再会しよう」
かくして島津当主、島津義久は1万4千の兵を置き捨て、200の馬廻衆のみを連れて戦地を離れた。
彼はそのまま大坂には寄らず、難波に停留中の島津歳久と合流し、海路によって本拠鹿児島に去り失せた。
――さて吹田戦場に視点を戻す。
主不在となった島津兵だったが、それでも浅井のゴリ押しを跳ね除け、押し返し、また圧迫に耐えた。
捨て奸となる覚悟を決めたリーダー、島津義弘は強かった。
浅井長政を軸に雨森清貞、遠藤直経、磯野員昌、阿閉貞征、小川祐忠らが怒涛の勢いで噛みつく一方、島津兵も底無しの抵抗を見せ、しばらくは一進一退の攻防が再来した。
――が、木下軍麾下として機能していた黒田官兵衛、別所長治、山内鹿之助、荒木村重の一団が島津の側面を衝き、動揺を誘ったのを機に、情勢が転じる。
好機とみた浅井長政は遠藤直経、磯野員昌に突撃を命じ、自らもそれに加わる事で士気を跳ね上げ、島津の猛将、新納忠元との一騎打ちの際に左腕を折る怪我を負いながら、遂に島津義弘を敗走に追い込んだ。
1万余の島津兵は組織的な攻撃力を失い、島津義弘自らが殿軍となって大坂城への退路に累々の戦死者を積みながら退いていった。
◆◆◆
―同・主戦場北西側―
午前11時30分(午の刻)。
吉川元春は全軍に徹底命令を出した。
島津義弘の敗走を潮目と判断したためだった。
彼は大坂城の占拠を起死回生の一手だと念じ、退却しつつある島津軍とは別ルート、淀川の南側、現在の京阪沿いを進む道を選び、猛進した。一度決心した彼の行動は早かった。
大坂付近に進出していた弟の小早川隆景の軍を撤兵の誘導に就け、毛利輝元少年と毛利本軍を短時間のうちに大坂城へ帰着させた。島津敗残兵の先頭よりも早かった。
次いで口羽通平、二宮俊実なる忠臣を賜死によって防塁とし、浅井の追撃を封じた。
彼らとその一党は下賜された装甲車で浅井の足軽衆らをさんざん蹴散らした後、多くの兵を巻き込み自爆死した。




