君と僕とこの町と ③
一〇時過ぎ。
この公園では一番の安全地帯、防災倉庫の上で、キジトラはまどろんでいた。
ぼんやりとした思考に、いつも見る夢が重なる。
自分たち兄弟を連れた母が、大きななにかを見上げている場面だ――
『あれま、ずいぶん見ないと思ったら』
母を見下ろし、そのなにかが鳴いた。自分達とはぜんぜん違う鳴き声だが、不思議な温かさがあった。
『ちょっとおじいさん。タマが子供を連れてきたよ、おじいさん』
なにかは二本足で立ち上がって器用に歩き、大きなものの奥に消える。
少し後になって知るが、なにかは〈ばあさん〉と呼ばれていた。大きなものは、〈うち〉で、おじいさんと、ばあさんが住んでいた。
『おお、おお。なんだ子猫を見せに来てくれたのか』
『にゃーあ』
母が躊躇いなく、おじいさんにすり寄っていく。それを見て、自分たちは彼らが無害なのを悟った。
『おお、よしよし』
『にゃあん』
自分たちも母に続き、いっぱい撫でられ、そのあといっぱい食べさせてもらった。
母はここが好きだった。
自分たち兄弟もすぐに好きになった。
特にお気に入りだったのは、最初にばあさんが居た〈えんがわ〉、暖かい〈こたつ〉。そしてばあさんの折りたたんだ足の上だ。
食べ物も美味しかった。自分たち〈ねこ〉は〈さかな〉が好きだと、彼らは固く信じていた。そのうち、本当に好きになった。
なぜゴハンをくれるのかは分からないが、くれるので貰っていたし、なぜ撫でたがるのかは分からないが、気持ちいいので身を任せていた。
やがて。
おじいさんは居なくなり、ばあさんだけになった。
このころ、母も兄弟もふらりと顔を見せる程度だったが、自分はずっとここに居た。
おじいさんが居なくなると、ばあさんの家族がよくやってくるようになり、自分を撫でた。あれが家族だと分かったのは、自分にも家族がいたからだ。
――また少しして、その家族がばあさんをどこかに連れていった。
家にはばあさんの仲間がたくさんやってきて、よく難しい話をしていた。
このころよく耳にしたのは、〈かわいそう〉、〈うちはまんしょんだから〉、〈おばあちゃんがかってたわけじゃない〉だ。
それはとても大きな声で、そのとき初めて、彼らも自分たち同様、威嚇する鳴き声を上げることを知った。それに、うっすらと自分のことを話しているのも分かった。
それから〈うち〉の中の物がどんどん無くなって、とうとう大好きだった、〈こたつ〉も持っていかれた日、
『ごめんね、飼ってあげられないの』
ばあさんの子供の子供が、泣きながら自分を撫でた。
思えば、この子は自分が好きだったのだろう。追いかけまわされたし、いっぱい撫でられた。
自分もばあさんが好きだった。おじいさんも。
そして――なんとなく、ここにもう居られないこと、自分もそんなに居たくはないことを悟った。
だからそこを離れ、あてもなく歩き回った。
――外は危険だ。
ばあさんのところに居たとき、自分がいかに幸せだったかを、嫌というほど思い知った。
イヌ、ハクビシン、同じネコ、自分達を嫌っている人間――色々なものから逃げた。そこでようやく、自分がいかに俊敏なのかに気が付いた。自分は狩られる側ではなく、狩る側なのだ。
しかし、絶対に敵わない奴もいる。もっとも手強かったのは……小さくて、ぶんぶん飛びまわるアイツだ。
ついつい追い回したのが悪かった。逃げていたと思ったら急にいっぱい出てきて、囲まれてしまった。自慢の高速パンチも役に立たず、たちまち全身を刺され、ぷんぷくりんに腫れあがってしまった。
あの時のことは忘れない。あの身の毛もよだつ『ブブブブブブ』という音。
ブブブブブブブブ。
そう、ちょうどこんな――
「!!!」
防火倉庫の上で夢見心地だったキジトラは、目をぱちりと開けるなり、びょーん、と飛び跳ねた。
ほとんど同時に、すぐ近くまで迫っていたドローンからぱっと白煙が広がる。
飛んできた捕獲ネットを際どいところで躱し、キジトラはどうにか倉庫の横にある木に飛び移った。
「なあっ!?」
VRゴーグルを付け、ドローンのコントローラーを持っていた男子生徒の口があんぐりと開く。
「はっずれ~」
すぐ近くにいた京介が声を弾ませた。
「ちっきしょー、自信あったのに」
「ドローン同好会はこたびの失態でお取り潰しだな。おって沙汰を待つがよい」
「そ、それだけはご勘弁を!」
「ほらほら、なんて言ってるあいだに逃げちゃうよ」
京介の隣に立っていた斎藤千恵が、いかにも他人事といった口調で言った。ダークブラウンのショートヘアに、切れ長の奥二重。中性的でどこか理知的な雰囲気の彼女は、捕獲作戦に参加しているというより、ただの見物人というスタンスだった。
「おい島村っ、CO2ランチャーを再装填するから一旦こっちへ戻せ!」
「分かってるよっ」
「慌てさせるなっ、墜落したら大損害だぞ!」
意気揚々と作戦に参加したドローン同好会があたふたする中、たいして期待していなかった京介は、生徒会備品の携帯無線機に声を吹きこむ。
「こちらHQ。奴は倉庫よこの木に飛び移ったぞ。公園の外に出さないよう、包囲を狭めろ」
『こちらアポロ・ワン。近くだ。先行する』
「いや待て、バセバと連携を取れ。……おいっ」
アポロ・ワン――バドミントン部の男子生徒は京介の指示をきかず、仲間二人を伴い、キジトラの潜む桜の木の下に入ってしまった。
彼は虫取り網を大きくしたような捕獲器を構え、木を見上げて上唇をぺろりと舐める。
「へへっ、特別予算はバド部のもんだ」
『おい気を付けろ。その桜の木は――』
京介が言いかけたところで、黒い影が枝を揺らして、ぱっと地面に降りてきた。しかしアポロ隊はそれどころではない。
「ぎゃあああ! 毛虫がっ、毛虫が!? 助けてぇ!」
『ぎゃあああ! 毛虫がっ、毛虫が!? 助けてぇ!』
生の悲鳴とウォーキートーキーからの悲鳴が、わずかにずれて届く。
猫といっしょに降ってきた蛍光グリーンの毛虫の大群に、バド部は独創的なコンテンポラリーダンスを披露しながら、散り散りになって走り去っていった。
「……遅かったか。今年はイラガの幼虫が大量発生して、業者に駆除を頼んでいたんだがな。来るのは来週なんだ」
「うわー、かわいそ」
自業自得なバド部の散り様に、京介と千恵があっさり味のコメントを添えた。
『こちらバセバ。キジトラは茂みの中だ。包囲する。応援を』
打って変わって、バセバ隊――野球部が冷静な報告を寄越す。
「分かった。えー、近いのは――」
『こちらエガリテ。道路側から近づいて包囲を作れるよ』
「――頼む。慎重にな」
『了解』
「手柄を独り占めしようとするな。安全第一だ。ヒトもネコもな」
『はは、抜け駆けなんか考えてないって』
テニス部らしい爽やかな声で応え、エガリテ隊が公園外周の道路から距離を詰める。
京介が見守る中、公園内側のバセバと、外側のエガリテによって、ゆっくりと包囲が形成されていった。どちらも普段からバットやラケットを使っている連中だ。捕獲用の網さばきも期待できる。
「――よし、テイクオフ」
ドローン同好会も改造ドローンのCO2ランチャーに新たな捕獲ネットを装填し、再び空から現場にせまった。
『……』
遠巻きにその様子を眺めるほかのメンバーにも、静かな緊張がはしる。
包囲はいよいよ狭まり、キジトラはひと塊のツツジの中に追い詰められた。
……はずだった。
『……いない?』
『こちらエガリテ。後ろからは出てないよ』
『いない。くそっ、もうどっかに行ってたんだ。包囲はカラだ』
「誰か見てないのか? もう一度よく確認してくれ」
京介がウォーキートーキーで訊ねても、沈黙が返ってくるだけだった。
遠くでお手上げのジェスチャーをする者もいる。
「いやー、めんどくさいことになったねぇ。……やっぱ最初からSRBを投入すれば良かったんじゃない?」
「バカ言え。猫一匹に」
千恵の言葉を一蹴するも、京介は眉根を寄せて付け加えた。
「……しかし、こりゃ思ったより骨が折れるかもな」
――真島家二階。
公園を一望できる彩希の部屋で、カーチャは閉めたカーテンのすそを控えめにめくり、一部始終を見ていた。
「やってるわねぇ」
「捕まんないの?」
「ええ。猫ちゃんは茂みを通って行っちゃったんだけど、だれも気が付いてないみたい。みんなきょろきょろしてるわ」
「ふーん」
「……興味なさそうね」
「まあね~」
彩希はベッドの上でビーズクッションにもたれかけ、スマートフォンを弄っていた。
「――ま、あたしも別に関係ないけど。急に『あした公園の周りをうろつくな』なんて言うから、なにかと思えばこれだもの」
「まあ京介らしいよ」
「……私はいまいち分かんないのよねぇ、彼のこと」
「そぉ?」
「大人びてるかと思えば、子供っぽいところもあるし」
「んふふふ」
「なによ。私ヘンなこと言った?」」
「……カーチャ、それは京介っていうより、男を分かってないね」
「ど、どういう意味よ……」
彩希の見透かすような視線と、どこか挑発的な口調に、カーチャはたじろぐ。
「男、特に独身の男っていうのはね、大人なんだけど、子供なの」
「は、はぁ」
「大人なんだよ? 大人なんだけど、言わば心の中に男の子が居るわけさ。で、その子を遊ばせてあげなきゃいけないの。だからまじめな会社勤めのおじさんが、休日には奥さんや娘さんが呆れるような子供っぽい趣味に興じたりするわけ。ゲームだとかプラモデルだとか。ゴルフだってさ、高尚かって言ったら、べつに輪投げと変わんないよ」
「わ、輪投げ……」
「そ。広い場所をとって、道具にお金を掛けるから“らしく”見えるだけで、やってることの本質は似たようなもんじゃん」
「う、うーん……」
暴論のような、筋は通っているような。カーチャにはなんとも答えようがなかった。
「京介は背伸びして大人ぶってるわけじゃないからね。冷めてる時はホントに冷めてるんだよ。それで合理的に、卒なく処理しようとする。でも逆に、なにかが琴線に触れれば、へーきで童心にも帰る。大人だからこそ、そこで恥ずかしがらないわけ」
「あー、『オレ大人だから、そんなことしねぇし~』とはならないわけ」
「そそ。ほらそういうのって、裏を返せば子どもってことでしょ?」
「なるほど。……で、いまの彼は」
問われて、彩希はベッドから降り、カーチャの横に来た。カーテンの隙間から眼下の京介を観察する。
彼はどこかを指差し、ウォーキートーキーで指示を出していた。数人の仲間がその指示を受けて走っていく。
「遊んでるね」
彩希は即答した。
「そ、そう」
「昔っから、人を巻き込んで妙に事を大げさにするのが好きなんだよ。陰謀ゴッコっていうの?」
「迷惑な……」
「小学生のときも、秘密基地なんかえらく立派なもん作ってさ、あたしそこの経理だったんだよ。ソロバン習ってたから」
「……苦労してたのね、彩希」
「ま、楽しかったけど。――とにかく今は、そのときの京介だね。間違いなく」
幼稚園から一緒の幼馴染が言うのだから、きっと正しい見立てなのだろう。カーチャは半ばあきれた様子で、
「諜報組織とか特殊部隊って、案外ああいう人間が趣味を兼ねて創設するのかしらね」
「あはは、かもね」
CIAとFBIの違いもあいまいな彩希は、笑いながら同意した。
幼馴染からそんな冷静な分析をされているとも知らず。
京介はキジトラ狩りに精を出す。
「倉庫の下は?」
問われたバセバ隊がうつ伏せになって、防災倉庫の下を検めた。
『……いない。もう公園にはいないんじゃないか?』
「道路を張ってる連中からは連絡がない。民家の敷地内は猫の会のメンバーと、町内会の有志が見張ってるはずだ。そちらもいまのところ音沙汰無し。となると、もう少し公園で粘るしかない」
『……了解』
そのとき。
『こちらピリオド・ワン。ポイントC5にて対象とおぼしき猫を発見』
落ち着き払ったを通り越し、もはや生気の感じられない声が入る。文芸部所属の二年女子、林裕香だ。
「こちらHQ。でかした。だが道路での捕獲は危険だ。無理に捕まえようとしなくていい。応援を送るから見失わないようにしてくれ」
『いえ、近くにいた剣道部がすでに確保しているんですが――』
『だからその猫をどうするつもりだと聞いている』
「!?」
突如割って入った、高圧的な女性の声。京介は思わず手に持っていたウォーキートーキーを凝視した。
多少ガサついた音質だが、この声はもしや……。
『部外者には関係が無いので』
その女性と対峙しているらしい山之上が、これ以上ないくらいぶっきらぼうに答える。
『すると貴様は野良猫の関係者というわけか? 笑わせる』
『どうぞお好きなだけ笑っていてください』
『ミギャア! ンニァアア!』
『いててっ、ひっかくなっ』
つづけて、怒りもあらわな猫の鳴き声と、その猫を取り押さえていたと思われる、若い男の声。
そして――
『嫌がってるじゃないかっ、放してやれっ』
『おねーさんには関係ないでしょっ――いててっ! くそっ、この猫――』
『ニャアアア!』
『馬鹿っ、そんな持ち方をするなっ!』
《ドゴスッ》
『ひでぶっ!?』
『行くぞっ』
『にゃ』
『あっ、くそっ、追え!』
『い、一撃かよっ……』
『いいから追うんだっ』
などといったやり取りを最後に、複数人の足音が遠ざかっていった。
周囲の音を拾っていたウォーキートーキーに、ふたたび林が声を入れる。
『――と、いう次第です』
「剣道部はっ?」
『猫と逃走した白人女性を追いかけて行きました』
白人女性。ハイ確定。
「っ、聞こえるかゲッケンっ。追跡をやめろっ。……おいっ、ゲッケン・ワン、坂本!」
『坂本くんはノびてます』
「は?」
『猫を乱暴に掴んでいたので、その白人女性に拳を叩き込まれました』
「っ、さっきの『ひでぶっ』は坂本か……!」
『無線機は彼が持ったままなので、追いかけて行った剣道部との通信は出来ません。あの様子では、携帯に掛けても気づくかどうか』
「……分かった。いったん戻ってきてくれ」
林との交信を終えると、京介はウォーキートーキーを握りしめ、声を震わせた。
「あンのトラブルメーカー最大手め……」
それから壊れるほどの強さで送信ボタンを押し込み、全体にアナウンスする。
「こちらHQ! 展開中の全隊に告ぐ。 聞こえてたろうが、トラブルが起きた。相手は普通じゃない。全員速やかに公園に戻れ。もし猫と白人の女を見ても絶対に手をだすな。マジで瞬殺されるぞ……!」
それからウォーキートーキーをパーカーの前ポケットに突っ込み、スマートフォンを取り出す。
電話するのは剣道部ではなく、ヤツだ。こういう時のためにモバイルショップでの煩雑な手続きにつきあい、休日丸ごと使って辛抱強く操作説明もしてやった。そうまでして持たせた携帯電話が、いま繋がらなくてどうする。
確実に着信を気付かせるため、京介はあえて無料通話アプリではなく、普通の電話を掛ける。
「でろ、でろ、でろっ…………出ろよ!」
でない。
こうなってくると、電話を掛けたときに表示される〈アリシア〉と書かれた人型のマークまで憎ったらしかった。
「斎藤、悪いがちょっと行ってくる」
「あたしも行こうか?」
「来なくていい。いや、来るな。じゃ――」
「あっそう。…………なんだかねぇ」
走り去る京介を見送りながら、千恵は肩をすくめた。