君と僕とこの町と ②
――数日後。豐秋黌高等学校。第二視聴覚室。
プロジェクターが低い唸りをあげ、スクリーンに光を投射する。
目に悪そうな青色の待機映像の中では、プロジェクターを作った会社のロゴが、ビリヤード玉のように跳ねまわっていた。
大学の講義室、あるいは小さな映画館のような造りのこの教室には、三〇名ほどの生徒たちが集まっていた。
しばらくして教壇側の引き戸が開くと、彼らは雑談を打ち切って入室者に視線を注ぐ。
「お、けっこう集まったな」
そんな調子で入ってきたのは教師――ではなく、佐倉京介という二年生の生徒だった。
鼻筋の通った品のある細面に、少し長めの明るい茶髪。この学校は髪染め自由だが、彼の髪色は生来のものだ。
京介はスクリーンの前を自分のシルエットと共に横切ると、その脇の教壇にすっと立った。それからベテラン教師のような風格で、教卓の天板に手をつき、
「いやー、諸君。中間テストの返却も終わって、くつろいでるところ申し訳ない」
「テストのことは言うなー」
ひょうきんな同級生が言うと、教室が小さな笑いに包まれる。
「佐々木。問六の『めざまし』は気に食わねーって意味だからな。時計じゃねぇぞ」
京介が彼のおもしろ回答をバラすと、どっと笑いが大きくなった。
「言うなよ馬鹿っ、俺だって絶対違うって分かってたんだよ! 西村先生なら面白いって一点くらいくれるかなーって!」
「あははははは」
「ねーよ」
「信じらんなーい」
「マジで書いたのお前。やっばぁ」
「朝パーかよ」
生徒たちがひとしきり笑うと、京介は仕切り直しとばかりに語調を改めた。
「さて、本題だ。事前に言っておいた通り、猫を一匹捕まえたい。……山之上、地図を」
京介が音響卓に座った儚げな雰囲気の女子生徒に指示を出すと、彼女は無言のままプロジェクターに繋いだノートパソコンを操作する。
ものの数秒で、スクリーンに学校を中心とした航空写真がでかでかと映し出された。
「よく知っていると思うが、この青いラインで囲まれた範囲が、我が校のEESZだ。頭がパーの朝日ヶ丘や、バカの巣窟立花総合から生徒の安全を守るため、そして勉学に励む苦学生の雇用を守るため、昨年九月に設定した。当然、こんなふざけたモンは我々が一方的に主張しているに過ぎない。だからこそ、これまで実効支配という形で定着化を図ってきたわけだ」
EESZ。エクスクルーシブ・エコノミック・スクール・ゾーンの略である。日本語にするなら排他的経済学区だ。
滅茶苦茶な切り出しだが、聞いている生徒はみな真面目な顔だった。
「立花のクソうるさい改造バイクも毎晩いい迷惑だが、最近目に余るのは朝パーの馬鹿どもだ。聞いてるだろうが、小競り合いも起きていて、会長は事態を非常に憂いておられる。現在はそれに対抗するため、商店街や近隣の小中学校、さらには同君連合の聖楓とも連携強化を検討中だ。まあ、あそこのお嬢様方に俺たちの真似ごとが出来るとは思ってないが。……んでだ。その地域協力の一環として、今回の話が舞い込んだ。――山之上」
ふたたび彼女が無言でPCを操った。
先ほどの地図に四つの赤い円が重なり、その中に入っている公園や神社にピンが打たれる。
「これは周辺のボランティアが管理している地域猫の大まかな活動範囲と、管理の拠点になっている施設の位置だ。今回の捕獲作戦を実施するのは、この〈朝日奈さくら猫の会〉の管理する朝日奈公園と、その周辺になる。……知っている奴もいると思うが、俺の家の真ん前だ」
生徒たちが、『へえ~』だの『あはは、知らなかったの?』だのと反応する。
「……ま、当日茶ぐらい出すよ。――さて、肝心のお尋ね者だが」
画像がぱっと切り替わる。
駅前商店街の花壇の縁で、一匹のキジトラ白がじっと佇んでいる写真だ。
「コイツだ」
「やーん、かわいい~」
「かわえーやん」
「撫でたいなぁ」
「ちょっとかっこいい系じゃない?」
「うちのコに似てるー」
生徒たちはたちまちその愛らしい姿の虜になる。
「いちおう言っとくが、手配写真だぞ。これは先週の月曜日、駅周辺を拠点に活動する〈本宮台団地猫の会〉のメンバーが撮影したものだ。猫が駅前に出没するようになって、この時点で二週間ほど経過していたらしい。つまり、こいつはどこからかやってきた流れ者ってことだ。雄猫で、去勢はされていない」
「るろうにニャンコか」
「あははは」
京介は無視して、
「……そして、この写真を撮った翌日に、本宮台団地猫の会は去勢手術を施すための捕獲作戦を実施――結果見事に逃げられて、キジトラは駅周辺から姿を消した。それから二日後。つまり先週木曜日には、朝日奈さくら猫の会のメンバーが朝日奈公園の滑り台の陰でくつろぐ奴を発見している。問題は――」
京介はいちど、固まって座っている五名ほどの女子生徒を見た。
「この朝日奈公園には、最近仲間になった雌猫が一匹いることだ。その猫には現在、発情期特有の行動が確認されている。会と連携している獣医師の話によれば、発情中の猫の子宮は充血しており、避妊手術にはリスクが伴う。そこでその雌猫――〈みたらし〉ちゃんには、今回の発情期が終わってから、避妊手術を行う予定だった」
「ははあ。そこへあのキジトラちゃんが現れたと。大事なモノが付いたまま」
最前列の男子生徒の言に、京介は頷く。
「そうだ。よくわかっていると思うが、行動には結果が伴う。人間なら責任もだ。だがこのキジトラに子猫を認知して養育費を振り込めと言ったところで、返ってくる返事は『にゃー』だけだ」
「俺たちだって、養われてる身であんま偉そうなこと言えねーしな」
「ぷっ」
「そういう問題かよ」
「……ま、それも一理あるな。少なくともコイツは自立してる」
言って、京介は肩をすくめた。
「……んで?」
「あとは単純な話だ。この二匹が初夏のアバンチュールに溺れる前に、なんとしてもキジトラから大事な玉をいただかなきゃならなくなった」
「いきなり雑だなオイ」
「……ヤな言い方するなよぉ」
「俺、なんかムズムズしてきた」
男子生徒たちはそろって、広げていた足を閉じた。
「……気持ちは分かるが、内股になるな。気持ち悪い」
京介が眉間を摘まんで注意する。女子生徒たちは身を寄せ合ってドン引きしていた。
「えー、それでだ。俺たちにお鉢が回ってくる前に、さくら猫の会でもいちど捕獲を試みたんだが、これが見事に失敗に終わっている。キジトラはかなりすばしっこく、頭もいい。じつを言うと俺も参加していたんだが、メンバーの大半が中高年で、正直捕まえられる気がしなかった。ちなみに一名が腰をやって、現在加療中だ」
「罠は?」
「いちおう檻タイプのを行政から借りられるらしいが、公園の周辺にはみたらしちゃんを含め、八匹の地域猫がいる。そっちが引っ掛かる可能性のほうが高い」
「じゃあさ、そのみたらしちゃんを先に手術しちゃえばいいんじゃないの? ちょっとリスクはあるみたいだけどさ」
男子生徒のひとりが言うと、途端に女子生徒たちが声を荒げた。
「ちょっと飯田! アンタ女の身体なんだと思ってんのっ」
「さいってー」
「DV野郎っ」
「死ね!」
「えぇ……」
袋叩きにされ、男子生徒は言葉を失う。その隣の男子が振り返って女子に反論した。
「でもさぁ、結局みたらしちゃんだって避妊手術するんだし――」
「だからそれは発情期が終わってからっ。大体おなか開けて卵巣とか子宮取るのと比べたら、もともと身体から飛び出てるあんたらのキ○タマちょん切るほうが楽に決まってんじゃん! 馬鹿じゃないの!?」
「ちょ、ちょっとあやっ」
「あやちゃん落ち着いて……! もの凄いこと言ってるよっ」
周りの女子生徒が慌てて、興奮した女子生徒をなだめる。
「あ、“あんたらの”は余計だろ……!」
「とにかくみたらしちゃんは大変な時期なの! 男にはわかんないでしょ!」
「なに感情的になってんだよ」
「そっちが無責任なこと言うからじゃん!」
「男っていっつもそうっ」
「猫の話だろ!」
「こういう場合は種族より性別だから」
「お、まりちゃんいいこと言った!」
「その通りっ、この苦しみアンタらには分かんないでしょうが!」
「発情期があんのかよテメー」
「ぶふっ」
「んなわけないでしょ! こっちは月イチで苦しんでんの!」
「あはは、あや重いからねぇ」
「千恵っ、男子の前で……!」
「ったく。人も猫も、男ってバカしか居ないわけ?」
「そっちがバカみたいなイチャモン付けてんだろ」
「おいなに笑ってんだ鈴木コラ。前田もなんか言い返せよ。また格好つけて女子の味方か!?」
にわかに騒然とする視聴覚室。
京介は無理に静めようとはせず、落ち着くのを根気強く待つ。だが騒ぎは一向に収まる気配がない。すると彼は、ちらりと山之上に目配せした。
彼女は相変わらず落ち着き払った様子でこくりと頷き、なにやらPCを操作する。
次の瞬間。猫を映していたスクリーンがぱぱっと明滅し――
『キャアアアアアアアアアアアア』
という大音量の絶叫とともに、目を剥いた貞子チックな怪物がスクリーンいっぱいに現れた。
俗に精神的ブラクラと呼ばれる、恐怖動画の切り抜きである。
『きゃああああああっ!』
『うおわあああああ!?』
阿鼻叫喚。女子も男子も面白いくらいに悲鳴を上げ、ある者は仰け反り、ある者は足をばたつかせる。腰が抜け、椅子から転げ落ちる者まで出る始末だ。
唯一、京介と同じクラスの斎藤千恵だけは、平然と頬杖をついていた。
また、ぱっとスクリーンがキジトラの癒し画像に戻る。
あれだけ言い争っていた全員が放心状態で、もはや口論どころでない。
「……あー。いろいろ意見はあるだろうが、冷静で建設的な議論を心がけてくれ。例えば『みたらしちゃんを捕獲して、発情期が終わるまで面倒見ればいいんじゃないか』――とかな。先に言っとくとこの手は使えない。条例で一定期間飼育下に置いた猫はペット扱いになるらしく、地域猫だろうがリリースしたらアウトだそうだ。そのため、キジトラの捕獲は大前提となる」
『…………』
「じゃあ次。具体的な手段だが――」
涼しい顔で、京介はブリーフィングを続けた。
――ちょうどそのころ。
くだんの朝日奈公園で、アリシアはベンチの端に腰掛け、夕日を眺めていた。
ベンチの反対側の隅っこには、あのキジトラがちょこんと座っている。
付かず離れず。
色々あった男と女のドラマを感じさせる、そんな距離感である。
「元気そうだな」
「にゃあ」
「……ふっ」
まさか人の言葉など分からないだろう。律儀に返事を寄越すキジトラに、アリシアは鼻を鳴らした。
「あの日。私はお前を抱えて、家の人たちに頭を下げるつもりだった。優しい人たちだ、きっと受け入れてくれるだろう、とな」
「なーぉ……」
「ずっと付いてきたお前が、なぜ家の前まで来て急に逃げ出したのか、最初は不思議だった。……だがきっと、お前は私の立場を慮ってそうしたのだろう。家さえわかれば、こうして近くに住み着き、逢瀬を重ねられる。自分にはそれで充分だと」
「にゃーぉ」
「……ふっ。もし私が猫だったらな」
「にゃお」
「ふふ、もし僕が人間だったら――か?」
微笑んで、アリシアはいつかのように手を差し出した。
キジトラがそれに応えようと、畳んでいた足を伸ばした瞬間。
「!」
キジトラはびくりとなにかに反応し、持ち前の敏捷さで防災倉庫の陰へと消えた。
アリシアは厳しい目つきで、ゆっくり頭を巡らせ、
「……なにか?」
斜め後ろからじりじり接近していた山田さんに、たったそれだけ声を掛けた。
「ひぃっ……」
鋼鉄製の防弾板も射貫くような眼光に、山田さんは小さく悲鳴を上げて身をすくめる。
「あ、あのっ、猫ちゃんがそのっ」
「は? 彼がどうかしましたか」
「いえそのっ……。ごめんなさいっ」
すっきりとしたアリシアの美貌も、こういう時は鋭い刃物のような威圧感に一役買う。小心な山田さんは裏返った声で謝罪を口にし、あたふたしながら逃げてしまった。
「……なんだったのだ?」
アリシアは首をかしげてから、防災倉庫のほうへ歩み寄った。
「おーい、もういいぞ。出てここーい。えーっと……」
アリシアはそこで気がつき、頭を掻いた。
「……名前を決めていなかったな」
キジトラは倉庫の死角からさらに移動したらしく、影も形もない。
ため息をつくアリシアの横を、右耳の先が欠けたサバトラが通り過ぎていった。
――それからすこしあと。佐倉家お風呂。
「そのネコちゃんねー、あたしも知ってるよー」
浴室内に優子の声が反響する。彼女は湯船のふちに顎を乗せ、身体を洗うアリシアと会話していた。
「さりなちゃんが最初に見つけたんだよ。朝ね、学校行くときにいたの」
「そっかー。優ちゃんも知ってたんだ。仲良くしてあげてね」
「すぐ逃げちゃうんだよ。でも優子もねぇ、すずちゃんとかしゃんぷーちゃんとは仲いいんだ」
「ほかの猫ちゃん?」
「うん。公園にいるでしょ。あときみちゃんとかぁ、みたらしちゃんとかぁ。山田のおねーさんがねぇ、よく面倒見てあげてるの」
「ふぅん。そっかー」
目の前の公園を拠点とする猫が意外に多いことに、アリシアは静かに驚いた。
(私が連れてきてしまったわけだからな……。仲良くしてくれるといいんだが……)
思案顔のアリシアを、優子が横から不思議そうに見つめる。
「どしたの?」
「……いや。あの子の名前、まだ決めてなかったなーって」
「? なんであーちゃんが決めるの?」
「えっ、えーと……私たちで最初に決めちゃおう!」
「えっ、いいの!?」
優子は色めき立って、目をきらきら輝かせる。生き物、それも動物に名前を付けるというのは、七歳の女の子にとって超スペシャルなことだ。
「あの猫ちゃんはね、私には懐いてるの。だから優ちゃんも私と一緒に行けばきっと仲良くなれるよ。で、考えてきた名前で何度も呼べば、『あ、自分の名前だにゃ』って気付いてくれるの」
「ほんとぉ! すっごーい」
「ふふふ。じゃあ次の休みに猫のご飯を買って、二人で会いに行こう。それまでに名前を考えなきゃね」
「うん!」
「ふたりだけの秘密だよ?」
「分かったっ。じゃああたし名前じゅっこ考えるから、あーちゃんもじゅっこ考えてね」
「じゅ、一〇コも……?」
「うん、そんで一番いいのにするの」
「そ、そっか。うん、頑張る……」
優子にえらく気合が入っていることを、アリシアはようやく気が付いた。
さあ大変だ。
猫の名前を一〇パターン。そして最終的には、この女の子の案を採用せねばなるまい。
つまり九分九厘不採用と分かっているものを、一〇コも捻り出さなければならないのである。
(……うーむ。カイルに助けてもらうか)
副官を務める筋肉モリモリマッチョマンが意外にも可愛らしいネーミングセンスの持ち主であることを期待しつつ、アリシアはシャワーヘッドを手に取った。
――就寝前。
それぞれの部屋がある二階の廊下で、
「なあ、今度の土曜だけど、ちょっと家に友達が来るんだわ」
寝巻にしている甚兵衛姿の京介が、ネグリジェ姿のアリシアに切り出した。
「そうか。……私がいたらマズいか?」
「ま、はっきり言うと」
「ふむ」
「だから悪いんだけど、ちょっと自分の世界にでもお帰り頂けたらなと」
「一日中か?」
「一〇時前から、そうだな……一五時くらい? 日本時間でだぞ」
「分かった。だがベルジアには帰らん。優ちゃんと約束がある」
「優子と?」
「ああ。先ほど千代美さんも誘った。女三人、買い物に食事にと、羽を伸ばすつもりだ」
「ふぅん。マーヤとカイルは?」
京介が彼女の部下について訊ねると、
「マーヤは学校だから……早めに門をくぐるよう言っておく。カイルは私がこの家を離れている間、向こう側で門の警備に当たる予定だ」
「ほーん。……じゃ、大丈夫か。ありがとな、優子の面倒見てくれて」
「ああ。おやすみ」
「おう。おやすみ」
京介と別れて自室に入ると、アリシアはすぐベッドに潜り込んだ。
それから手に入れたばかりのスマートフォンを起動し、つたない操作でプリセットされたメモアプリを開く。
寝る前に、少しでも猫の名前を考えておこう。
……が。しばらくしても、まったくなにも出てこない。
考えてみれば、自分が名付け親になった動物は、そのほとんどが馬だった。
ワイルデローゼ、ブーケトス、エスペシアダ、アルスヴィズ、イカズチ――
使いまわそうかとも思ったが、猫の名前としてはまったくもって可愛くない。
散々迷った挙句……アリシアはまず『たま』と入力した。
――土曜日。
インプレッサの運転席に納まった千代美がキーを捻ると、朝の澄んだ空気にEJ20K水平対向エンジンの力強い唸りが伝播した。
「では行ってくる」
千代美と同じセミバケットシートに身体を収めたアリシアが、助手席の窓を開けて告げた。控えめなフリルのブラウスに、カーディガン、ロングのフレアスカート姿だ。後部座席の優子も、ガラス越しに手を振る。
ラフなパーカー姿の京介は身をかがめ、最後に念を押した。
「じゃあ頼むぞ。友達が帰ったら連絡するから」
「うむ」
「京介も、くれぐれも火の元だけは気を付けてね」
「はいよ」
息子の返事に微笑んで、千代美はフロントガラスに向きなおった。
すうっと、顔つきが運転モードに切り替わる。
シフトノブに被さった彼女の左手がなめらかに左へ滑り、かこっ、と前へ。
一速。
右足がブレーキペダルからアクセルペダルに横滑りし、クラッチペダルを踏みこんでいた左足が自然と浮き上がる。
このインプレッサは彼女にとって、我が子より付き合いの長い愛車だった。すり減ったクラッチがどこで繋がるかも熟知している。
地面の傾斜も手伝って、車はするりと動き出す。
千代美は左右を確認しながら、ハンドルを左に切り、もう二速へ。道路へ出ると、インプレッサはスムーズに加速し、走り去っていった。
「――いいなぁ」
京介の斜め後ろで見送りに立っていたマーヤが、八の字眉で呟いた。アリシアの部下で、褐色の肌に長い三つ編みが特徴の青年だ。
「お前は今日学校だろ」
「……そーだよ。あーあ、なんで軍に入ってまで学校行かなきゃなんねぇのかな。週末くらいゆっくりしたいってのに」
「お前平日もゆっくりしてんだろ。それにいいことだと思うぞ、就職しても一八歳までは義務教育だなんて。この国じゃ一五歳でおしまいだからな」
「……そーだけど。ちぇ」
どうも納得いかないといった様子で、マーヤは家の中に引っ込んでいった。
京介の言うとおり、彼の故国であるベルジアでは、一八歳まで義務教育があった。たとえ中学卒業後に就職しても、週末にはベルフスシューレという学校に通わなくてはならないのだ。
登校日数が少ないぶん課題はたっぷり出されるらしく、彼がおこたで優子と一緒に宿題に励む姿は、ここ最近ですっかり見慣れた光景となっている。
……それはさておき。
ようやく一人になった京介は、目を細めて公園の一点を注視した。
「…………」
いつからか、奴はそこに居た。
ちょうど真島家を背に、物心ついたときから公園にある、ボロい木製ベンチの上。
キジトラは真っ直ぐこちらを睨み、まるでこれから起こることを予期しているかのようだった。
「……同じ男として同情するが、こっちも仕事でね。今のうちに大事な玉にサヨナラ言っとけ」
京介がつぶやくと、まるで言い返すようにキジトラの口が開いた。おそらく威嚇するような鳴き声を上げたのだろうが、距離があるので聞こえてはこない。
それから軽やかにベンチを降り、キジトラは公園を縁どる生垣の中へと消えた。
京介はポケットからスマートフォンを取り出し、コミュニケーションアプリ内で作った作戦用のトークルームを開く。
ファリネッリ作戦は予定通り一〇時から。さっさと終わらせて昼飯にしよう。