最初のブリヌイは塊になる ⑥
「え、ええっと……」
カーチャは右手でそれを取り出そうとして――邪魔だった鈍色の物体を先に取り出し、左手に渡す。
「!」
左手に握られたその物体、カーチャ愛用のリボルバー式拳銃を見て、アリシアは戦士たる己が運命を呪った。内心では憎からずおもっていたこの少女と、自分は決して解り合えないのだ。
――が、ここで大人しくやられるわけにもいかない。
「おい、いっつもそれ持ち歩いてんのかよ」
「ええ。ちょっとした合間に――」
誰より迅く、アリシアは動いた。
シングルアクションアーミーを超高速、かつ寸分の狂いもない手刀ではじき飛ばし、すっかり気を抜いていたカーチャを一瞬で拘束すると、その喉元にケーキナイフをぴたりとあてがう。
「……あ」
あまりのことに、カーチャは声も出なかった。
「おとなしくしろ。お前は命の恩人でもある。できれば殺したくない」
アリシアは耳元でささやくと、そのままカーチャの後ろに回り、引きずるようにして彼女を立ち上がらせる。そのままテーブルから離れると、椅子が倒れて大きな音を立てた。
「隊長っ……!」
「動くな中尉っ!」
「っ……」
立ち上がったマリアを張り詰めた声で制し、アリシアは皮肉な笑みを浮かべて続けた。
「あなたの技量はいちど見ている。あの時は助けられたな」
「少佐、誤解です!」
マリアは必死の形相で訴えるが、アリシアは構えを解かず、
「噂で聞いたことがある。スラヴァ軍の重要な部隊では、政治的な役目を負った士官が配されるそうだな。中尉、貴女がそうじゃないのか」
下手な嘘はつかないほうがいい。マリアはそう判断し、
「……確かに、私にはそういう役目もあります。しかしそれは――」
「カーチャはここ最近ひどく苦悩していた。恐らく上層部の人事刷新の結果、我が国に対する方針に大きな変化が生じたのだろう。過激な方向にな。そして貴女は、カーチャがそれに従うよう迫っていた。違うか?」
「違います!」
「ではいったい――」
ぴんぽーん。
と、インターホンの音がアリシアの言葉を遮る。
「……ったく」
京介がだるそうに立ち上がり、悠々歩いてドア横の受話器を取った。
「……おう。ちょっと待ってくれ」
それだけ言って、受話器を戻す。
「彩希が来たの!?」
囚われのカーチャが悲鳴に近い声で訊ねた。
「ああ」
「だめっ! 追い返して!」
「なんで? 最初っから来る予定だったろ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょっ……」
「あー、大丈夫だって」
まるで緊張感のない京介に、アリシアも苛立ちをあらわにする。
「京介、勝手なことをするなっ……」
「こっちの台詞だっつーの。ったく、ちょっと見直したところでコレだよ」
冷たく言い捨て、彼は玄関のほうに行ってしまった。
ほんの少しして、廊下から足音が近づいてくる。
『――いやー、まいっちゃったよぉ。ぜんぜん終わんなくてさ~』
緊張感のない彩希の声が聞こえ、カーチャは叫んだ。
「彩希、来ちゃダメ!」
『ん? なにカーチャ~、なんか言ったぁ?』
『まあまあまあ、気にすんなって。早く早く――』
京介は彩希を後ろから押すようにして急かす。彼女は促されるままリビングのドアを開け――とたんに素っ頓狂な声を上げた。
「えええええっ!? えちょ!? えなにっ、えっ? 京介!?」
「わりぃ。彩希ならなんとかしてくれるかなって」
「無理だよっっ!!! っていうかカーチャ! なんかしたの!?」
「してないわよっ。このバカが勘違いしてるだけで――うっ」
「しゃべるな」
アリシアが絶対零度の声で言い、ケーキナイフをぴたぴたと首にあてる。
「あ、アリシアさん、なにかの誤解ですっ、カーチャを放してください!」
「彩希、悪いことは言わないから帰ったほうがいい、見たら一生のトラウマになるぞ」
「そっ……やめてくださいっ、どうしてみんな仲良くできないんですか!」
「ふっ。しょせんその程度の人間たちということだ。我々のような人種が死に絶えたら、きみは好きなだけ博愛を説くがいい。それが通用する世界になることは、わたし自身願ってやまない」
「いやそういう難しい話じゃなくてっ!?」
「んもー、いったいなんの騒ぎ――」
二階から降りてきたマーヤが、電光石火でマリアに捕らわれる。
カーチャ同様首にナイフを当てがわれ、彼は一瞬で抵抗をあきらめた。
「……俺ってこんな役回りばっか」
力なくつぶやくマーヤの肩越しに、マリアはアリシアを睨みつける。
「やはり隠し持っていたか」
「……常に携帯しているだけです。こんなこと、したくはありませんでした」
「さて、どうだかな」
「少佐、お願いですから聞いてください。隊長は――」
「もういいわよマリアっ!」
部下の説得を遮って、カーチャが叫ぶように言った。
「観念したか」
「……ホントにそう思ってるなら好きにしたら」
「なに?」
そこで、ケーキナイフを握ったアリシアの手に、温かい雫が落ちてきた。
「っ……?」
「……ばっかみたい。わたしたちって、結局こうしてるのが一番お似合いなのにね」
「カーチャ?」
「ふずっ、そうやって呼ぶから、勘違いするのよ。前みたいに、ヌルガリエヴァって呼べばいいのに……ぐすっ」
「…………」
「カーチャ……ぐすっ」
彩希がもらい泣きし、
「あーあ、泣―かせた。いっけないんだー」
京介が小学生のように言う。
マリアはマーヤを人質に取ったまま、
「京介くん。すみませんが、隊長の鞄を見てください」
「はいはい」
「マリアっ、もういいのよっ」
「だめです隊長。意地を張っている場合じゃないでしょう」
「ぐすっ、うう……」
自由に動ける京介は、すぐにカーチャのスクールバッグを漁り始める。
「えーっと……ああこれ」
それを見つけるのは簡単だった。ピンク色をしたチェック柄の紙袋。可愛らしいリボン付きのシールで封をされている。
「開けるぞ」
答えは聞かずにリボンシールを剝がし、袋の口を開ける。
「……ん? 人形焼き?」
クッキーか何かかと思ったが、中には人形焼きに似た、一口サイズの茶色い物体がごろごろ入っていた。甘い匂いだから菓子には違いないだろう。
「プリャーニクです」
「ほほぉ。これが」
たしか、ロシアでも伝統的な焼き菓子だ。ひとつ取り出してみる。
ちょっと歪だが、マトリョーシカを模した型で成形したようだ。表面には粉砂糖がまぶされている。
「食べてもいい?」
「危険だっ」
「お前はマジで黙ってろ」
アリシアにぴしゃりと言ってから、京介はカーチャを見る。
「……好きにすれば。毒入りかもしれないけど」
すねたような返事を受け取って、京介はプリャーニクをぱくりと頬張った。
もぐもぐと咀嚼し――
「……うっ!!」
急に喉を押さえ、目を見開く。
「京介っ!」
「うそ……」
「っ……」
「あわわわわ」
場の緊張がピークに達したところで、
「――うまい! なんつって」
「ばっ……この状況で笑えるかっ!」
「あんたマジでイカレてんじゃないのっ!?」
アリシアとカーチャが仲良くキレた。
「ちょっとした冗談だろ。でもホントにうまいぞ。甘酸っぱいジャムが入ってて」
「コケモモのヴァレニエです。あんこが入ったやつもあります。……さあ、これでお分かりいただけましたか。隊長はきのう、わたしのアパートでそれを頑張って作ったのです。確かにそこまでいい出来ではありませんが、心を込めて」
「……しかし、銃が」
「これか?」
京介がもう一挺のSAAをカバンから取り出す。グリップとバレルを持つと、いきなり銃身をぐにゃりと曲げた。
「なっ……」
「樹脂製だ。モデルガンっていうより、ガンスピンの練習用だな」
その言葉どおり、京介はトリガーガードに人差し指を入れ、器用に銃を回転させた。
前回し――後ろ回し――水平回し――後ろ回し――ストップ。
銃口があっちゃこっちゃ向くので、スポーツシューターの京介はあまりやることはない。しかしこれも尊重すべき銃文化のひとつである。
「本物を持ち歩くわけないでしょ……。不用意に出したのは悪かったけど。ぐすっ」
「おら、もう放してやれよアリシア」
「少佐」
「アリシアさんっ」
「……う」
一同から口々に言われ、さすがのアリシアもどうやら自分が悪いと察する。
しかしここまでやってしまったのだ。大人しくカーチャを解放する前に、確かめておかなければ。
「……まだだ。さっきも言ったとおり、スラヴァ軍上層部に大きな変化があったことは知っている。わたしはそれによって、この世界での方針が変わったのではないかと心配しているのだ」
これにはマリアが答えた。
「軍の内情について詳しく話すことは出来ませんが、この世界に関しては実質的に国王陛下と一部の側近の直轄です。なので議会も軍の人事も、現時点では私たちになんの影響も及ぼしていません。そちらもゲオルク陛下が深く関わっておいでですから、似たようなものではありませんか?」
「……なるほど。確かにな」
アリシアは視線を手元の人質に移した。
「ではカーチャ、おまえは最近なにを悩んでいたのだ。ただ事ではないだろう」
「そ、それは……その、なんていうか……」
もごもごと口ごもるカーチャ。
「中尉、あなたは知っているんだろう」
「いえ、知りません。本当です。わたしも隊長に訊ねてはいるんですが、頑なに教えてくれなくて。気丈に振る舞っていますが、なんだか表情も乏しいので、もう心配で心配で」
「やはり我々の暗殺命令を受けたか」
「……違うわよ」
「ではなんだ」
「言わないっ」
「貴様――」
「もうやめてっ! わたしが言いますっ!!」
とうとう我慢できずに、彩希が叫んだ。カーチャが血相を変えてジタバタしはじめる。
「彩希っ!? だめっ、やめて!」
「ううん。言うよ! もとはと言えばわたしが悪いんだから」
「彩希!!」
カーチャはほとんど悲鳴のような声で、親友の告白を止めようとする。
だが彩希は、すでに覚悟を決めていた。大きく息を吸い――
「カーチャはっ……カーチャは乳歯が残ってることを気にしてるんです!!」
『!!! ……?』
その迫力に押され、いったんエクスクラメーションマークを灯してみたものの、すぐに全員の頭上がクエスチョンマークへと切り替わる。
「ああ……」
墓場まで持っていくと決めた秘密を暴露され、カーチャは脱力してアリシアにもたれかかった。
サスペンスドラマの終盤、悲しい事件の真相を語るように、彩希は続ける。
「真島家では半年に一回、歯石取りと虫歯チェックのため、歯医者さんに行きます。数日前、カーチャは初めてその行事に参加しました」
「行事て」
つっこむ京介を無視し、彩希はさらに語る。
「はじめての歯医者ということで、わたしは診察室までカーチャに付き添っていました。先生はひとしきりカーチャの口のなかを検めると、歯科衛生士のお姉さんとあれこれ小声で会話し――唐突に宣告したんです。『乳歯、残ってるよ』――と。それも二本もです」
「うぅ……彩希。黙っててくれるって言ったのに……」
「はぁ。それで」
親友の裏切りに打ちひしがれるカーチャと、すっかり間抜け顔のアリシアが、実に対照的だった。
「先生の話では、奥に永久歯が準備されてなかったので、生え変わらなかったそうです。もう一生この乳歯を大事にするしかないと」
「彩希、お願いよ。もうやめて……」
「それを聞いて、わたしは不謹慎にも大爆笑してしまいました。よく憶えていませんが、『赤ちゃんの歯が生えてるんだね』とか『いろんなところがお子ちゃまだね』とか言ったと思います。カーチャはいたく恥じ入り、以来、大きく口を開けないよう気を付けて生活しているんです」
「…………。本当なのか?」
「嘘よ……大嘘よ」
アリシアに問いただされ、カーチャはうわごとのように否定する。
「カーチャ、もう楽になろう。『胸はこれからだけど、歯はもう遅いのね』なんて無理して笑ってたけど、本当はすっごく傷ついてたんでしょ! わたし謝るから、ゴメン!」
彩希が頭を下げる。
「……なにやら傷口を広げたような」
「胸ももうどうかなー」
マリアと京介が口々にコメントした。
「うう……いっそ殺してちょうだい。これ以上生き恥をさらしたくないわ」
「カーチャ……」
アリシアは不憫な少女の拘束を解くのかと思いきや、
「どの歯だ?」
「……へ?」
「どの歯だと聞いている。イマイチ信用できん。乳歯が残っているだと? 聞いたこともない。幼児体形だと思っていたが、それでは本当に乳幼児ではないか」
「」(絶句)
「……ひでぇ」
あまりのドSぶりに、さすがの京介もドン引きする。
「……上の歯です」
彩希が本人に代わって告げた。
「どれ」
アリシアはようやくケーキナイフを手放し、カーチャを後ろに引き倒すようにして寝かせた。
「ちょ……やめっ……」
カーチャは必死に抵抗するが、あっという間に手を両足で抑え込まれ、顔も太ももで挟んで固定されてしまう。
その顔をアリシアは逆さまに覗き込み、
「口を開けろ」
「ん~~!」
カーチャは口を閉じたまま、太ももの間で必死に首を振る。
「では仕方ない」
アリシアはぴったり閉じた唇に指をやり、強引にこじ開け始めた。
「やめっ……ふんむぅ~! むーっ」
「大人しくしろっ! 我が国のっ、安全保障のためっ、乳歯を確認させてもらうっ」
「どんな安全保障だよ」
「暴れないでカーチャっ。アリシアさんに信用してもらわなきゃっ」
「ふぃやよっ! んむうぅうっ!」
カーチャは必死になって手足をばたつかせるものの、体格の違うアリシアに本気で抑え込まれると、まるで抜け出せない。
「……俺はなにを見させられてるんだろう?」
目の前のシュールな光景に、マーヤがぼそりとつぶやく。
その喉元から、ナイフが離れた。
「手伝ってきます」
そう言ってマリアはあっさりマーヤを手放し、奇妙な戦いの現場へと歩み寄っていく。
「……どっちを?」
答えはすぐにわかった。
「隊長、口を開けてください」
「!? わひあっ? ふらぎっふぁほ!? (マリア!? 裏切ったの!?)」
「歯を見せれば済むことです。さあ」
「ふぃやよ! うぇっふぁいふぃや! (いやよ! 絶対いや!)」
「隊長っ、子供じゃないんですから」
「……まあ子供だったんだけど」
そんな京介のつぶやきは誰も聞いていなかった。
「ぶっちゃけ、個人的に見たいというのもあります。少佐」
「……うむ。なんかこう、心をくすぐられるものがあるな。正直」
「っ!? 人でなし! 幼児性愛者!」
「自分から幼児と認めているではないか。ほれ、観念しろ」
アリシアが抑える腕に続き、じたばたを続ける脚もマリアが乗って抑えてしまった。
ふたりの手がカーチャの頭に容赦なく殺到し、とうとう口がこじ開けられる。
「……ふぁめへよぉ…… (やめてよぉ……)」
「彩希、来てくれ。どの歯だ」
「えっと――」
呼ばれて、彩希も現場に駆け寄る。
「上の犬歯の、いっこ外側です。左右とも同じやつが」
「ふむこれか。……ぷっ。くくくっ。言われてみると、たしかに小さい。なるほどな」
「隊長は顔自体が小さいので気が付きませんでしたが、改めて見るとたしかに。犬歯が鋭いと思っていましたが、となりの歯が小っちゃかったんですね」
「そうなんです。意識して見ると、けっこう違うんですよね」
「うううぅ……」
すすり泣くカーチャをよそに、一同が『うーむ』と納得する。
「どれどれ」
とうとう京介もやってきて、カーチャの歯を観察した。
「あー、はいはい、これ。この可愛い歯ね。間違いないわ。食欲がないつったり、妙に食べ方が上品になったと思ったら、これのせいかよ。いまさら気にしてもしょうがねぇって。むしろ体型とセットで武器にしていけ、カーチャ」
「冗談じゃないわよ! この体型と乳歯が好きなんて男、ロクなのじゃないでしょうが!」
「……っ」
アリシアが吹き出すのを我慢して、顔をそむける。
「っていうか勘違いだってわかったでしょう!? なにが暗殺よバカバカしい! アンタなんか言うことないわけっ?」
カーチャが涙目でアリシアを睨みつける。その一言で、『じっ』と彼女に視線が集まった。
「……いやその」
「もちろん隊長にも非はありますが……。これはさすがに少佐の謝罪を受け取らないことには。こちらも一応、体面というものがありますので」
と、マリア。
「アリシアさん……」
と、彩希。
「アリシア、謝ろう。これはもう土下座しかないって」
と、京介。
「ハードルを上げるなっ」
……とは言うものの。
結局、アリシアはカーチャの腕を押さえていた脚を折りたたみ、手をついて深々頭を下げた。
「たいへん、申し訳ない」
――夕方。玄関。
カーチャとマリアに続き、彩希が靴を履き終える。
振り向き、
「なんかいろいろあったけど、これで範囲は完璧だね。京介」
「おう」
「またいらっしゃい」
京介と、帰宅していた千代美がそれぞれ声をかけた。二人のうしろで気まずそうに立っていたアリシアも、
「……その。カーチャ、今日は本当に――」
また謝罪を口にしようとした彼女を、カーチャが首を振ってとめた。
「“ピエルヴィ ブリン コーマム”これまで色々あったもの。いきなり打ち解けるほうが変な話よ。もう気にしてないわ。それに私を殺そうとしたわけじゃなくて、暗殺任務を暴いて解放しようとしてくれたんでしょ? そんなもの無かったけど」
「……まあ、な」
「じゃあいいわよ。すっごく恥ずかしかったけど、おかげで吹っ切れたわ。これでまた口を開けて笑えるし、ご飯をいっぱい頬張れるわ」
「……そうか。もう嫌かもしれないが……できれば懲りずに、また来てくれ」
「ええ。――じゃ」
「失礼します」
「ばいばーい」
道路を渡り、公園の中を通っていく三人を見送ってから、京介は振り返る。
「……最初、なんて言ってたんだ?」
「ピエルヴィ ブリン コーマム。『最初のブリヌイは塊になる』という意味だ。“何事も最初から上手くはいかない”ということわざだな」
「へー。いいとこあるな。あいつも」
「……そうだな。しかしまあ、油断はしないことだ」
まったく説得力のない、温かくほころんだろんだ顔で、アリシアは言った。