最初のブリヌイは塊になる ⑤
「……さすがにゼロとは言わないが、現時点でそういう可能性は低いと思うぞ」
夕方。それが頼れる副官にして副隊長、筋肉モリモリマッチョマンのカイル・ガルブレイズ大尉の答えだった。
「そうか」
と口では言うものの、炬燵に肘を付いたアリシアの表情は、釈然としない。
「なんと言っても帝国のお目付け役がいるんだ。暗殺なんて馬鹿な真似はしないだろう」
帝国というのは、ベルジア、スラヴァ両国が属するアルギリア大陸帝国のことだ。
いがみ合っている二国だが、実はおなじ巨大統治機構に組み込まれているのである。このことがあるため、京介には今の状況を『ままごと』と言われてしまっている。
「常識的に考えればそうだ。……だが、ああいう国にはこちらの常識が通用しないこともある」
「そんな国かね。スラヴァってのは」
と、食卓で話を聞いていた京介が口を挟む。
「なにをのんきな。社会主義国家だぞ。この国だって暗殺や航空機の爆破をやらかす隣国に、ずいぶんと悩まされているではないか」
「……ま、そりゃそうだけど」
あっさり認めて肩をすくめた京介に変わり、カイルが続けた。
「だが隊長、スラヴァはあくまで別の国だ。この世界の社会主義国がそうだからと言って、一緒くたにするのは可哀想だろう。軍人だから最悪のケースを想定するのは当然だが、それを理由に友好的な関係を築く努力をやめたら元も子もないぞ」
「む……。それは、その通りだが」
このド正論には、アリシアも賛意を示すほかなかった。
その迷彩服と攻撃的なマッスルからは想像もできないほど、カイルは穏健で常識的な人物なのだ。
「俺の個人的な見立てだが、スラヴァはあの国ほど無茶はやらないはずだ。国内外でも、とくに追い詰められていないからな。食糧や経済事情だって逼迫していない。暗殺事件なんか起こしたら、それが全部台無しになるかもしれないんだぞ」
「むう……」
アリシアは腕を組む。
確かにスラヴァの経済規模はベルジアより大きく、国民が飢えているわけでもない。
それは国民の発育状況からも明らかだった。平均身長はベルジアがわずかに上だが、平均バストサイズは負けているくらいだ。知り合いのスラヴァ人がカーチャくらいのものなのでイマイチ信用できないが、リグリアの高級下着メーカー調べでは、そういうことになっている。
「それにだ。国同士の付き合いはさておいても、カーチャとは死線を潜り抜けた仲だろう。戦友じゃないか」
「大陸の外からの敵が攻めてきたから、仕方なくだ。スラヴァだろうがペレスだろうが、大陸外敵に対しては共闘するのが義務だからな」
「……そう突き放してやるな、隊長。“武力は行使するとき、もっともその価値を貶め、友情は行使するとき、もっともその価値を高める”――だろう?」
「ジャン・ドパルデューか。よく知っている」
「そのとおりだと俺は思う。誰とでも仲良くするのが一番だ」
聖暦世界の著名な思想家の言葉を引き合いに出したカイルは、しみじみ言った。
そんな彼に、アリシアが疑惑の目を向ける。
「……最近思うんだが、お前はあまりアメリカ人らしくないようだな」
なにを隠そう(隠していたのだが)、カイルはアメリカ人である。いろいろあって、ベルジア軍に軍事顧問として雇われているのだ。
「な、なんだ急に。別にそんなことは――」
「いいや“誰とでも仲良く”などという台詞が出るのはどうもおかしい。私の知るアメリカらしさの欠片もないではないか。言いたくはないが、お前はアルビオン人だと身分を偽っていた前科があるからな」
「それを言われると辛いんだが。というか俺の国にどんなイメージを持ってるんだ……」
「――どう思う京介?」
アリシアが食卓のほうを向き、第三者に意見を求める。
「コミュニストと仲良くか。それはもうアメリカ人らしくないというより、アメリカ人失格だな。どうしちまったんだカイル、自分の中のアメリカを、再び偉大にするんだ!」
お騒がせの現職大統領のキメ台詞とともに、京介は力強くガッツポーズを決めた。
「……そ、そういう政治的なフレーズを言われると、公務員はとっても困るんだぞ」
額に汗を浮かべて言うと、カイルは色々なものを誤魔化すように語気を強めた。
「と、とにかくだっ、京介が約束した以上、彼女が土曜日に来るのは決まってるんだ! それをいまさら『信用できない、暗殺が怖い』と言って拒否するわけにはいかないだろう? そんな外交的欠礼のほうがよっぽどリスクが高い!」
「……そ、そうだな。うん」
ぐうの音も出ない正論と、なにより厳めしい顔面の迫力に押され、アリシアはまたも同意した。
「茶ぐらい出して、世間話でもすればいいさ。隊長っ、大丈夫だ!」
「……分かった。長らく共産圏と対峙してきたアメリカ人の意見だ、尊重しよう。万が一への備えを解く気はないが、緊張状態だからこそ、現場では信頼関係の構築も大事だしな。いっそ菓子でも焼いて歓迎してやる」
「そう、それがいい。きっと喜んでくれる」
強引に話をまとめて窮地を脱したカイルは、安堵の表情でうんうん頷き、
「――あ、俺そろそろバイト行くわ。んじゃ土曜日、よろしくな」
京介はアルバイトへと旅立った。
――それから土曜日までの二日ばかり。アリシアはあれこれ考えを巡らせたが、いざ『もてなそう』と意気込むと、貴族としての広範な知識と、菓子やパンへの深い造詣が仇となり、たちまち迷走を始めてしまった。
いちばん頭がぐちゃぐちゃだったときは、スラヴァ(そしてロシア)の伝統的なもてなし方である、〈パンと塩〉で迎えようと本気で考えていたくらいだ。
そこまで煮詰まってから、『あいつは平民だった。というか公園挟んだお向かいの家から、テスト勉強しに来るだけだ』と極端に冷静になり、急転直下でメニューは決まった。
――土曜日。昼過ぎ。
約束の時間に鳴ったのは、インターホンではなく、京介の携帯だった。
「――おう。――――あっそう。いいよ。――うん。はーい」
ソファーでくつろぎながら、京介は電話の相手とやり取りを終える。
「いまから来るって」
「分かった」
午前中から台所であれこれ作業していたアリシアが答えた。それから三分もしないうちに、今度こそインターホンが鳴る。
アリシアは『私が行く』と言って、玄関に向かった。
そしてドアを開けると――
「お邪魔するわ」
「どうも少佐。お元気そうでなによりです」
――彼女は固まった。
そこにはカーチャと、彩希――ではなく、マリアが立っていた。
アリシアから見て、エキゾチックな黒髪と顔立ち。柔らかな声のしっとりとした美女である。だが外見はどうでもいい。彼女はスラヴァ人で、スペツナズで、カーチャの部下だった。
その穏やかさからは想像もできないほど過激で洗練された戦闘術の使い手で、なんと京介の通う高校にALTとして潜り込んでいる。
なにより、彼女はかつてこの世界の銃火器を装備し、その存在を秘匿する帝国によって解体させられたという、伝説のスラヴァ・スペツナズ、〈ゼニート〉の元隊員だった。
つまり非正規戦や暗殺作戦の“ロシア流”に精通した人物なのだ。
そんな人物がなぜ?
「? どうかされましたか、少佐」
マリアが小首をかしげる。
「い、いや。あなたが来るとは聞いていなくて」
「え? さっき電話で言ったわよ。マリアも行くからーって」
「そ、そうか。京介のやつめ、黙っていたな」
「ふふ。すみません。驚かせてしまいました」
「いや。こちらこそ申し訳ない。……彩希は?」
「彩希は委員会の用事で学校。ホントはもう終わってるはずだったんだけど。ちょっとしたら合流するわ」
「そ、そうか」
「んじゃ、おじゃましまーす」
カーチャはさっさと靴を脱ぎ、スリッパを突っ掛けて家の中に入っていく。
「中尉も、ようこそ」
アリシアが動揺を隠し切れない様子で言うと、マリアはにっこり微笑んだ。
「はい、お邪魔します」
――リビング。
「らっしゃーい」
ボレスワヴィエツのティーセットを準備しながら、京介が声だけで客人を迎える。
「おじゃましまーす。……あれ、おばさんは?」
カーチャが広いリビングをきょろきょろ見渡した。
「主婦仲間と遊びに行った。優子は友達んち」
「へぇー。じゃあなに、私たちが来るまでアリシアと二人っきりってわけ」
「二階にマーヤが居るよ」
「……ああ、エリニ人の彼」
なんだつまんない、とカーチャはトーンダウンする。
「くだらんゴシップは期待するな」
あとから入ってきたアリシアが、ぶっきらぼうに言った。
「ふーん。そんなこと言って、彼が急に本性むき出しにしてきたらどうするのよ」
カーチャが揶揄うように訊ねる。
「隊長、そんな失礼な」
「いいから、マリア」
「……ま、もし京介がこの家に二人きりのタイミングで、本性をむき出しに襲い掛かってくるようなことがあれば……あばらの一本や二本は覚悟してもらおう」
アリシアはそう答えて腕を組む。
「……勝手に俺の本性を決めてんじゃねーよ」
抽出中のティーポットを見つめながら、京介がぼやいた。
――それから、なんとなく炬燵で勉強が始まり、時間が過ぎていく。
曲がりなりにもALTの先生がいることは、京介にとってラッキーだった。数十の言語を苦も無く操る異世界人のマルチリンガルぶりは驚異的だが、いざ人に教えるとなると、やはりそれなりの技術はいるものだ。
ある程度の英語力は身に着けていた京介だが、分からないところはある。アリシアやカーチャに聞くのは癪だったが、マリアにならすんなりと聞けた。
アリシアはといえば、相変わらず台所でなにやら調理を続けていた。漂ってくるほんのり甘い香りが、期待を膨らませる。
「――そう。分かった。待ってるから」
なかなか合流しない彩希からの電話を、カーチャが切った。
「なんだって?」
「いま学校出たって。返ってきてない本がいっぱいで、大変だったみたい」
「テスト前にご苦労なこった。紙が大好き図書委員はこれで懲りてくれりゃいいんだがな。『さっさと電子データ管理に切り替えて、督促状はメールにしたらどうだ』と生徒会からも言ってるんだぜ。予算だって提示してやったのに」
「へぇー、そうなの」
カーチャはちらりと時計を見る。一五時。おやつの時間だ。
アリシアはすでに台所を片付け終え、テーブルの体裁を整えていた。
「カーチャ、彩希はもう少しで来れそうか?」
「ええ」
「では休憩しながら待つといい。ささやかだがアフタヌーンティーを用意した」
「ありがと」
「ありがとうございます、少佐。お手伝いもしませんで」
カーチャとマリアは、それぞれ礼を言って立ち上がる。
そこで、二人が意味ありげに視線を交わした。
「っ……」
その意味深げな目配せを、アリシアは見逃さなかった。そして雰囲気から、マリアのほうがなにかを促し、カーチャのほうが決断を迫られているらしいことも察する。
(なんだ? まさか……!?)
カーチャは意を決し、なにかを言おうとするが――
「……」
アリシアのほうを見て、やめた。
マリアが『隊長……』とささやき、カーチャが、『いいの』と返す。……残念ながらこのやり取りは、アリシアの警戒レベルをマックスにするのに充分な効果があった。
京介も立ち上がって、先に食卓へ向かっていく。アリシアが用意したものを覗き込み、
「ほー。これミルクレープか?」
「まぁ、そんなものだ。この世界で初めて食べたが、美味しかったので作ってみた」
「意外だな、ベルジアには無いんだ」
「ミル・フイユはあるがな」
アリシアが知らなかったのも無理はない。じつはミル・クレープは、日本発祥だったりする。
カーチャもスクールバッグを手に近寄ってきて、そのケーキを観察した。
「へ~。意外に器用なのねぇ。ガサツそうなのに」
デコレーションもなく、まだホールの状態なのでシンプルこの上ない見た目だが、それでも作り手の技術はよく分かった。
これだけの薄いクレープを上手に焼き、クリームと均等に重ねるのはかなりの腕が必要になる。それに根気もだ。
憎まれ口をたたいても、カーチャは内心嬉しかった。
「誰がガサツだ。それに、見ても気づかないか?」
「なに?」
「これはクレープではなく、ブリヌイ、もしくはブリンニキだ」
「えっ、そうなの」
カーチャが驚いてケーキに顔を近づける。
「うーん、言われてみれば。泡の跡がそれっぽいような。……生地は発酵させたの?」
「ちゃんとさせたぞ。さすがに見ただけでは分からないか」
「まあぶっちゃけ似たようなもんだし。イクラとスメタナ(サワークリーム)でものってればブリヌイだと思うけど。あと蕎麦粉が入ってれば色で分かるわね」
「蕎麦粉か。そう思って探したんだが売っていなくてな……」
その様子から、アリシアが商店街やスーパーを周ってくれただろうことを察し、
「い、いいわよ別にっ。それにきちんと発酵させてるなら味でわかるわ。ありがと」
カーチャは照れくさそうに礼を言うと、京介の対面の席に掛けた。
「む……」
「なに?」
「いや。なんでもない」
アリシアはそう言って、マリアへ声をかけた。
「中尉、貴女は京介のとなりの席で」
「はい」
マリアはにこやかに答え、京介のとなりに座る。
カーチャは少し驚いたように、
「なに? あなたが私のとなり?」
「そうだ。今日はもてなしに徹すると決めているからな。この席が台所にいちばん近い」
「そ、そう」
カーチャは納得したが、本当はスラヴァのふたりを並んで座らせたくないという理由もあった。これで万が一の場合に、連携が取りづらくなる。
「では切り分けるか」
アリシアは細身のケーキナイフを取ると、自作のミル“ブリニス”によどみなく刃を入れていく。
あっという間に、ケーキはきれいな一〇等分になった。この一〇等分というのは、十字に二回刃を入れればいい八等分と違って、地味に難易度が高い。それを知っているマリアが、小さく感嘆する。
アリシアは次に、ケーキを取り分ける三角形のアレ――ケーキサーバーを取り出し、きれいにケーキをすくい上げた。
ゲストから階級順に、カーチャ、マリア、一般人の京介、最後に自分の皿へケーキを置いていく。
その順番で、人知れずカーチャは“あー、自分て偉いんだなー”と思った。
大勢の部下を抱えているわけではないので、ふだん自分の階級を意識したり、まして振りかざしたりすることはない。――が、やはり大尉というのはけっこう高い階級である。こういう何でもないシーンでさりげなく自分を優先されると、そのことをひしひしと感じるのだった。……自分としては、小娘扱いのほうが気が楽なのだが。
京介のほうも人知れず、“あーなんかこの、ホールで出してから切り分けるって、外国っぽいなー”と思っていた。日本では誕生日ケーキでもない限り、ホールケーキがでーんと食卓に出ることはない気がする。……あくまでなんとなくだが。
マリアが皿を持ち上げて、ケーキを横から眺めた。
「綺麗な断面ですね。ブリヌイもそうですけど、クリームも均等に重ねられてて。何層あるんでしょう」
カーチャも同じようにして、すぐに数え始める。
目が寄り、口が無意識に『いちにぃさん』と小さく動いた。
「……にじゅうに。二二枚! へぇ~。これ一枚一枚焼いたわけ。すごいわね」
「ぜんぶ午前中に焼いて、冷やしておいた。熱いうちはクリームが挟めないからな。本場のブリヌイもたくさん焼いて重ねておくだろう? それもヒントにした」
「あー、食堂とか屋台のやつ。よく知ってるわね」
「ベルジアにもブリヌイやボルシチを出す店くらいある。……家庭ではやらないのか?」
「やらないことはないけど。こういう薄いブリヌイは、何回も焼くから面倒くさいのよ。最近流行りのレシピだと、時間がかかるからって生地も発酵もさせないわ。――んで、伝統的なブリヌイをつくるおばあちゃんと、若いお嫁さんが揉めるの。俗に言う嫁姑問題ってやつね」
「はぁ~、どこでもあるんだなあ、そういうの」
京介が感心したように言う。
「この手の話なんてどこも似たようなもんよ。この国だと、お味噌汁の出汁とかになるのかしら。でもあなたのお母さんは、お嫁さんにあれこれ言わなそうね」
「ん~……そうだな。嫁さんイビってるとこは想像できない」
「そうでしょ。あんな人が義理の母親だったらいいわ」
「それだと――」
「もちろん貴方が夫なのは御免よ」
「ああそうですかい」
口調こそ拗ねていたが、京介にはまったく傷ついた様子が無かった。
「……でもなんか、こんな綺麗な断面だと食べるの勿体ないわねー」
「防腐処理して広場に飾っとくか?」
「食べるわよ! 気持ち悪いこと言わないでくれるっ!? そーゆートコよ!」
茶々を入れた京介にぷりぷり怒ってから、カーチャはケーキ用のフォークを手に取った。
横に掛けたアリシアが食べ方を指南する。
「横ではなく、こう、縦にしてフォークを入れるんだ。そうすると崩れない」
「……こう」
言われた通り、カーチャはケーキの先端を切ってすくい上げ、小さく開けた口に運ぶ。
これは……
「美味しい……」
「そうか。まあ非常に単純な菓子だ。マズくなる要素がない」
「……素直によかったとか言いなさいよ」
「そうだな。口に合ったようでよかった」
「ええ。ありがと」
そこで、マリアが再びカーチャになにかを促した。
「隊長……」
「マリア、いいから」
「でも、こんな機会めったにないんですから。ね?」
「……ぅ、分かったわよ」
とうとう観念した様子で、カーチャは椅子の脇に置いてあったスクールバッグに手を伸ばす。
京介は“なんか持ってきたんだなー”くらいに思い、のほほんと構えていたが――
アリシアはもの凄く思いつめた顔で、それを見守っていた。