最初のブリヌイは塊になる ③
教室最後列に居ると、クラスメイトのことをどうも観察してしまう。
もちろん後ろ姿しか見えないのだが、それがむしろ彼らの本質を浮き彫りにしてしまうのである。
挙手や筆記など、真面目に授業に取り組む者から、退屈そうなあくび、背伸びをする者。果てはこっそり椅子から尻を浮かせ、筋トレに励む者まで。
無防備で無自覚な背中の、なんと雄弁なことか。
四時限目。頬杖ついてノートを取りながら、京介はそんな背中のひとつに目をやった。
自分の左どなりの列、ちょうど教室の真ん中あたりの席に座る生徒。大きく肩を落とし、どうやら深いため息をついたようだ。
(……またか。どうしたんだ、カーチャのやつ)
華奢で小柄な身体つきが、今日は特に小さく見える。
思い返せば、彼女は朝から元気がなかった。こうして授業中に俯いたりため息をついたりするのも、もう何度目になるか。
彩希もやはり心配らしく、となりに座るカーチャに声を掛けている。
カーチャは親友の問いに首を振って、つぎに頷き、どうやら『大丈夫』とでも言ったらしい。彩希は小さく頷き返して、黒板に向きなおった。
だが少しすると、また小さく肩が落ちる。
いったいなにがあったのか知らないが、とにかく深刻そうなのは間違いない。
普通の女子高生の悩みであれば、京介にもいくつか心当たりはある。……が、カーチャはその範疇を大きく逸脱した存在だ。
彼女の超特殊な背景を考えると、さすがに不安になった。
――昼休み。
食堂へ行くまえに、京介は自席にとどまっているカーチャに声を掛けた。
「元気ないけど、なんかあったのか?」
「……まぁ、ちょっとね」
彼女は視線を寄越さず、小さく口を開けて控えめにしゃべる。
せっかくの昼休みだというのに、その顔は陰鬱で、表情がいつになく乏しかった。
「言いづらいことっぽいな」
「ええまあ。でも大丈夫だから」
「……ま、無理には聞かないけど。メシは?」
「彩希と教室で食べるわ」
「あっそう。……もしかして、飯ってそれだけ?」
京介は机の上にのった栄養ゼリーを指さす。
「食欲ないのよ」
「おい、さすがに心配になるって」
「大丈夫だから。――ね? 彩希」
「う、うん。まあほら、そのぉ……デリケートなあれだから、ね?」
露骨に『触れないで』という目線を送ってきた彩希に、京介はたちまち納得した。
「……ああ、そゆこと。おーけー、もう聞かない」
「……。ち、違うんだけど」
顔を赤らめて、カーチャがぼそりと否定する。
そういうことにしておこうかとも思ったが、やっぱり恥ずかしかった。
「え? 生理じゃねーの?」
「……サイッテー。っていうか彩希もヘンな言い方しないでよ」
「はいはい。ごめんごめん」
「まったく。……とにかく大丈夫だから。心配してくれてありがと」
「おう。……あ、分かった」
京介はなにか閃いたように、手をポンっと叩いた。
「……なに?」
「中間テストだろ」
「へ?」
突然の言葉に、カーチャはすこし驚いた様子で京介を見る。
「初めてだもんな。そりゃ憂鬱になるわ」
「え……、ええ。実はそうなのよ。内容も全然違うし。英語はほら、完璧なんだけど、他はなんていうかもう」
「だよなぁ。……彩希じゃ頼りないし」
「失礼な! ちゃんと毎回切り抜けてるよ!」
「理数系は地上スレスレの超低空飛行だろ」
「……うるさいな」
最初の勢いもどこへやら。彩希はトーンダウンし、目を泳がせる。
「――よし、今日ウチで勉強会やろうぜ」
「えっ……」
唐突な京介の提案に、カーチャはまた驚いた。だがそれ以上に、困惑しているようにも見える。
「あ、わるい。なんか用事でもあったか?」
「い、いえ。そっちこそバイトは?」
「今日はなし。じゃなきゃ誘わないって」
「あ、そうね。……じゃ、じゃあお邪魔しようかし……ら」
どうも歯切れの悪いカーチャに、京介が怪訝な顔をする。
「……もしかして、中間テストじゃないのか?」
「い、いいえ。中間テストよ。もう不安で不安で。赤点なんか取ったら、アリシアに馬鹿にされるわ」
「だな。あいつあれでも大卒らしいし」
言いながら京介はふと、(そっか、大卒者が剣を振りまわしてんのか……)と思った。
そこで、教室入り口に溜まっていた男子たちが声をかけてくる。
「おーい、行くぞ京介ぇ」
「売り切れちゃうぞー」
「あいよー。……じゃあ今日な」
「え、ええ」
「そんな心配すんなって」
京介は励ますように言うと、男子数人と食堂へ向かった。
きょうの日替わり麺は一番の人気メニュー、カレー南蛮そばだ。
――夕方。佐倉家。
「ただいまぁ」
京介が玄関を開け、リビングにぎりぎり届くくらいの声で帰宅を告げる。
まず返ってきたのは、水洗トイレの流れる音だった。続けてトイレのドアが開き、すっきりした表情のアリシアが出てくる。
「おお、おかえ……り」
彼女は玄関のほうを見るなり、京介の後ろにいる客人に眉をひそめた。
「お邪魔するわよ」
「どうもです」
カーチャと彩希が短く挨拶すると、アリシアは警戒心むき出しの顔で、
「……なんの用だ」
なんとも礼節にかけた態度だが、カーチャも慣れたものでさらりと一言。
「貴女に用はないわ」
「なに?」
「友達とお勉強会よ」
「勉強会?」
「そ。三人で。学生だもの。なんかおかしい?」
「……いや。好きにしろ」
ここでわがままを言っても、どうせ拒否権もない。ただ印象が悪くなるだけだと思い、アリシアは渋々そう答えた。
それからしばらくの間。
集まった三人はリビングのおこたを囲んで、黙々と勉強をしていた。
アリシアは食卓に掛け、その様子をまんじりともせず見守る。
なにせベルジア側の門がある裏庭はすぐそこ、掃き出し窓を開けた先で、さらにその門をくぐればベルジアの王宮内部である。
世界が違うことはさておいても、単純にこのリビングから王宮の最重要部――王の居住区画や執政室までは、ほんの数百メートルしかない。
そんな場所にスラヴァの軍人がいるこの状況は、国家の危機と言っても大げさではなかった。
そんなわけで、彼女が最高度の緊張を保つなか、いきなり玄関が乱暴に開く音がする。アリシアは反射的にテーブルに立てかけた剣を取った。
「ただいまぁあああ!!」
小さい子供にしか出せない甲高い絶叫。廊下を爆走して、スラヴァのコマンド部隊――ではなく、優子がリビングになだれ込んでくる。
「おにーちゃーんっ、あのねぇえー! 今日学校でねー! ……!?」
炬燵に兄、そして二人の来客の姿を認めると、優子は目が点になり、たちまちトーンダウンした。その後ろで、アリシアはほっとした顔で剣を置く。
「あ、優ちゃんお邪魔してるよー」
「こんにちは」
広げた教科書とノートから顔を上げ、彩希とカーチャが挨拶した。
「……こんにちはー」
しっかり挨拶を返してから、優子は兄に寄っていき、全員に聞こえる小声で訊ねる。
「なんでいるの?」
「見て分かんだろ。おべんきょ」
「ふーん」
「学校でなんだって?」
「えーっとね……。……あれ、なんだっけ?」
カーチャがくすくすと笑った。
「うーんと。……あれ?」
「はい、時間切れ。あとで遊んでやるから、それまでに思い出しておくように。まず手洗いうがいをしてきなさい」
「はーい」
遅れて、優子と買い物に行っていた母――佐倉千代美が、買い物袋を手にリビングに入ってくる。
「あら、靴が多いと思ったら。いらっしゃい」
『お邪魔してまーす』
と、彩希とカーチャは口をそろえた。
「お疲れ様です」
「アリシアさんも。お洗濯物ありがと」
千代美は微笑むと、買い物袋を食卓に置き、炬燵を囲む三人を眺めた。
「……ふふ。なんか懐かしいわね。小学生のころは京介と彩希ちゃんと、よくそこで遊んでたでしょ。あとほら、そこのところにベビーベッドがあって、赤ちゃんだった優子をあやしてくれたり、おむつ換えてくれたり」
「あ、憶えてますっ。友希とどっちがおむつ交換するかで喧嘩したりとか。いや~懐かしいなぁ」
リアル赤ちゃん人形を妹と取り合ったことを思い出し、彩希は照れ顔で頭をかく。優子はおむつの話に赤面し、『お母さん恥ずかし~いっ』と言って母親に抱き着いた。
千代美は娘の頭を撫でながら、
「とっても助かったわよ。最近またよくウチに来てくれるようになったから嬉しいわ。カーチャちゃんのおかげかしら」
「えへへ、まあそんな感じです。ね?」
「え、ええ」
名前を出されたカーチャもほんのり頬を赤らめて、可愛らしく居住まいをただす。
千代美には、『この人の前では良い子でいよう』と思わせる不思議な力があった。
「――さ、優子、お勉強の邪魔したら悪いから、あっちいってましょ」
千代美が気を使って、娘とリビングを後にする。そこからまた、勉強会らしい静かな時間が流れた。
――どれだけ経っただろうか、ずっと見張っていたアリシアが口を開いた。
「彩希はいいとして、カーチャはそろそろ帰ったらどうなんだ。こっちの気が休まらん」
「あら、失礼ね。どれだけ居ようとあなたには関係ないでしょ。私たち京介くんのお友達で、京介くんのお客様よ。ねえ?」
「そうだぞ。俺が招いた客人に無礼な物言いはやめてもらおうか」
「い、いや私はだな、ただ安全保障上の問題で……」
「そんな……こんないたいけな女の子が安全保障上の脅威だなんてっ、あんまりよ!」
カーチャが大げさに叫んで、わざとらしく顔を覆う。
「あーあ、可哀そうに」
京介がそれに乗っかり、責めるように言った。
「どう見ても嘘泣きだろうっ」
「うえ~ん」
わざと質を落とした演技で、カーチャが泣きじゃくる。
さすがに見かねた彩希が、シャープペンシルで彼女のつむじをちくりと突いた。
「った!? 彩希っ?」
「いい加減にしなよカーチャ。もとはと言えば、カーチャがアリシアさんに酷いことしたんでしょ。それで信用されてないんだから」
「えっ……いや、その……。ごめんなさい」
「私じゃなくてアリシアさんに謝る」
「……はい。すみませんでした」
「京介も、アリシアさんを虐めない」
「別に虐めてるわけじゃ……」
言いかけて、京介は幼馴染の冷たい視線に気が付き、反論を取り下げた。
「……はいはい、すんません」
「まったくもー」
たちまち天敵ふたりを成敗した彼女に、アリシアが羨望と感謝の入り混じったまなざしを向ける。
「彩希、きみは本当に――」
「アリシアさんも、もーちょっとカーチャと仲良くしてもらえると嬉しいです」
「……はい」
それからまた少しすると、千代美がリビングに戻ってきた。
彼女は台所に入ると、冷蔵庫からあれこれと食材を出しはじめる。するとアリシアもシンクの前に立ち、まな板やフライパンを準備しだした。
それを見た彩希とカーチャは、(さすがに帰ろっか)(ええ)と囁き合う。
遊びに行った友達の家で夕食の支度が始まるのは、子供にとっていつでも解散の合図だ。
「ん~、アリシアさん」
取り出した材料を眺め、千代美がとなりの助手に声を掛ける。
「はい」
「今日はマーヤくん、晩御飯も向こうなの?」
「そう聞いています。そもそもベルジアはまだ昼前なので、彼はこれから昼食ですね」
「あっそう。うーん、じゃあなんとか……」
「?」
そこで母親の思惑を察知した京介が炬燵から出てきて、彼女に耳打ちした。
「母さん、別にいいって。もう帰るから」
「いいでしょ、聞くだけ。京介もそっけなくしないで優しくしときなさい。私の予想ではあなたのお嫁さんは明神ちゃんか、この中のだれかよ」
その言葉を漏れ聞いたアリシアは、目を丸くした。
ほんわかしているこの母親も、高校生の息子にもうそんなことを考えているのか――
心中にはそんな驚きと『この中の誰か』というのに、果たして自分は入っているのだろうか、というモヤモヤが立ち込めた。
「……へいへいそーですか」
当の息子のほうは、こんな話題で言い合いになるのも恥ずかしいので、母親の言葉をとりあえず受け入れておく。
「――ねぇ二人とも。晩御飯食べていかない?」
振り向いた千代美に突然言われ、彩希とカーチャが顔を見合わせた。ちょうどいま、『そろそろ失礼します』と言おうとしていたところだったのだが……。
「どう? いま連絡すれば間に合わないかしら」
「間ぁ…に合うと思いますけど。どうするカーチャ?」
「え、えっと……じゃあ――」
言いかけたところで、『あっ……』とカーチャの顔が曇る。
彩希が小声でなにかをささやいた。
(――だって)
(……でも……)
(――でしょ?)
(いやぁ……そうなんだけどぉ……)
なにやら苦悩するカーチャ。彩希は『気にするな』的なことを言っているようだが、内容は分からなかった。
そして、
「すみません、今日は大丈夫です」
カーチャが申し訳なさそうに誘いを断る。
「あら、いいのよ気にしなくて。ごめんなさい、迷わせちゃったわね」
「いえ。でもまた近いうちに」
「もちろん。いつでもいらっしゃい」
「……はいっ」
千代美の優しい声が効いたのか、カーチャはいくらか明るさを取り戻して答えた。