いにしえの法 ⑧
――中央軍司令部。統合指揮通信室。
ベルジア屈指の頭脳集団が集まるこの部屋は、めずらしく慌ただしい雰囲気に包まれていた。盗賊たちの一部が、包囲網を抜けてしまったらしいとの一報が入ったのだ。
「……間に合わなかったか」
警視総監のリゴーが、目の前にひろがる大地図を睨んで悔しそうにこぼす。バッハからの連絡で慌てて駆け付けた彼はまだ息が荒く、外套を羽織ったままだった。
呼びつけたほうのバッハは、地図に手をついて視線を落としたまま、淡々と答えた。
「いや、痕跡が見つかっただけでも充分だ。目撃情報はないが、そう時間はたっていないだろう。それに盗賊団の中には元軍人もいる。鉢合わせになれば、いくら騎馬警官といえども危険だった」
「軍の部隊は今どうなっているんだ?」
「アルテパラストから騎兵が向かっとる。……悪かったな。ちょうどこちらが手薄な場所で、騎馬警官を先行させるしかなかった」
「それは仕方がないが……。しかしまさか、貯木場から渡河されるとは」
「一五号線を西へ進めば、自然と左手に見えるだろう。だがその存在に気付いたということは、陽が落ちる前に一度は通り過ぎていたわけだ。足の速いコソ泥だよ」
「そのあと、行く先で網が張られていることを知り、引き返してそこを渡ったわけか。だが本当にそんな場所からゼーゼ川を渡れるのか?」
「可能だ。――そうだな、中尉」
「はい」
バッハに問われ、高級将校に混じって地図を囲んでいたカトリンが答えた。
「貯木場があるのはここ。アーガウ=フィンツ運河に合流するヴィルドルフ支線運河の分岐点より、一キロほど下流のあたりです」
彼女ははきはきとした口調で喋りながら、大地図の一点をくるりと指で囲う。
そこはゼーゼ川の、運河が分岐した地点より少し下流の地点だった。運河によって水勢のいくらかを持っていかれ、流れが穏やかになっている場所だ。
「貯木場とは言っても、ここは上流から届いた木材を一時的に保管する、言わば中継地点です。そのため、川には筏に組んだ丸太が大量に係留されています」
その説明に、リゴーは訝しげに顎を撫でた。
「見たことはある。が、そこを馬が渡れると?」
「はい。上流は流れが速く荒れているので、ここに下ってくるまでの筏は頑丈に組み上げられています。それをこの場所で穏やかな下流用に組み変えているわけですが――いまはちょうど伐採作業が本格化してくる時期なので、上流からやってくる筏も大量です。それを両岸から繋ぎ合わせて係留すると――」
「浮橋のようになるわけか」
「その通りです。上流用の筏には最低二人の筏師が乗ってきますから、繋ぎ合わせれば馬が乗っても沈むことはありません。それに従軍経験者であれば、工兵の掛けた仮設橋を渡る機会もあるので、対岸まで係留された筏を見てピンと来たはずです」
「なるほど。しかしずいぶんと詳しいな。知り合いがここで働いているのかね?」
「あ、いえ……。そういうわけでは……」
「?」
急に歯切れが悪くなったカトリンの顔を、リゴーが不思議そうに窺う。彼女に代わり、バッハが口を開いた。
「陸軍の各駐屯地は、近隣を流れる川をどう渡河するか常に研究している。既存の橋を壊して敵軍を拘束し、虚を突いて攻撃できるようにな。彼女が属するベルトウ駐屯地の部隊は、ゼーゼ川担当なのだ。重大な機密というほどではないが、他言無用だぞ」
「……そういうことか。それで、連中の一部がこちら側へ戻ってきたらしいのは分かったが、どうするつもりだ? このままではふたたびグランツィヒに入られるか、南部軍管区に逃げられてしまうぞ」
「心配するな。すでに新たな包囲を形成するよう指示は出してある。それに――」
言葉を切ったバッハの顔に、不敵な笑みが浮かぶ。
「彼女にもすでに知らせを飛ばした」
――ヴィルドルフ支線運河沿い。ウィンダートン近郊。
「走れっ、走れっ、走れっ!」
白い息を吐く馬に、レスターは必死に頼み込んだ。
幾人かの仲間も後から追ってきているはずだが、速度自慢の愛馬で引き離してからは、しばらく姿を見ていない。申し訳ないが、悠長に速度を合わせている場合ではなかった。
(もう半数以上は捕まったはずだっ……。アランたちも逃げられたかどうかっ……)
悪玉役の自分たちを追っているという設定上、善玉役のバースワートは常に自分たちの後方におり、旅の行程にも無理が多い。そのため正体が露呈した際には、捕まるリスクが自分たちよりずっと高かった。
(できればあいつらの無事を確かめたいが……とにかく今は全速力で逃げて、境を越えるしかない)
そう。ただあてもなく逃げるのではない。大事なのは越境だ。
県境、国境、川、森、なんでもいい。とにかくそれを越えるたび、追手の追跡は鈍くなる。
ベルジアの異常なまでに素早い対応を見るに、今回は圧倒的な通信網を構築している帝国公館が一枚嚙んでいるのだろう。何千キロと離れたアルビオン本国から情報がもたらされ、恐らく自分の身元も割れているに違いない。
だとすれば、とにかく今いる実力組織の管轄の外へ、またその外へと逃げるのが最善だ。
さいわい、いちど通り過ぎた貯木場まで引き返し、係留された筏を渡って相手の裏をかくことはできた。軍や警察がこの事に気付くころには、自分たちはどうにかベルジア西部に達しているだろう。そのまま慎重に進めば、四、五日で隣国ぺレスへと逃げ延びられるはずだ。もちろんぺレスにも帝国公館はあるが、ペレスとベルジアは微妙な関係なので、捜査協力にはそれなりの時間がかかる。
そう思っていたのだが――
「!」
前方の闇に人影、それも騎乗した人影を見て、レスターは慌てて馬の速度を緩めた。
直後、相手の馬につけられた魔力式の前照灯が光を放つ。
「タリホー」
勝ち誇ったような女の声。
自身を照らす光に目を細めたレスターは、頭の片隅で『なるほど。この状況にぴったりだ』と思った。『タリホー』というのは、狩りの際に使われる、獲物を発見した時の掛け声だ。
こちらも前照灯の光量を上げ、相手の顔を確かめる。驚いたことに、女はかなりの美貌の持ち主だった。
だが見てくれだけの人物でないことは間違いない。でなければ、ここでこうしているはずがないのだ。
「驚いたな。まさか先回りされるとは」
レスターは慎重に、だが堂々と声を掛けた。悪役慣れしたぶん、こういう時には貫禄が出る。
女も落ち着き払った声で答えた。
「ここは我々の庭だ。よそ者がそう易々と出し抜けるはずがあるまい」
「の割には、一人のようだが」
「じき仲間も追いつく。私の愛馬は速いんだ。とびきりな」
「……ああ。同じく。では多勢に無勢になる前に――そこを通してもらおうか」
レスターが静かに剣を抜く。相手の前照灯の光が刃に照り返し、刃元から切っ先へと鋭く走った。
女――アリシアもゆっくりと剣を抜き、
「XS85はそれまでの試作品同様、二本作られたそうだな。そして両方ともが行方不明になった。バースワートが一本。そして拵えは違えど、貴様のそれが二本目だ」
その言葉で、レスターは思ったより多くの情報が相手に渡っていることを知った。それに――
「……どうやらバースワートは駄目だったようだ」
「案ずるな、生け捕りにした。悪あがきをしたので多少痛い目にはあってもらったがな。……そちらは大人しく投降してくれるとありがたいんだが」
「ことわる。俺はその剣を持っている奴が大嫌いなんだ」
「……らしいな。事情はかいつまんで聞いている。では特別に最後のチャンスをやろう」
「チャンス?」
「貴様にではなく、その剣にだ。ベルジア軍が特別にトライアルを実施してやる。今、ここで」
アリシアが挑発的な提案をすると、レスターは両手を広げ、演ずることなく悪役のように笑った。
「ハッ! これはこれは! 世に名高いベルジア軍でやっていただけるとは。俺の親父もアランの親父も、生きてりゃ大層喜んだろうよ」
「そうか? 私は泣くと思うがな。なにせ息子がこのザマだ」
「っ……」
刺すような皮肉に、レスターの顔色が変わった。
「お前に……お前になにが分かるっ!!」
悪徳騎士は激高して馬を出す。アリシアもブーケトスを走らせて迎え撃った。
お互い速度が充分でないまま、最初の交差。刃を保護する魔法――ドリュールを帯びた剣同士が交わり、こそげ取られた魔力の膜が青い火花となって散る。
「ぐっ……」
「っ……」
決着はつかず、両者はすれ違ったまま直進して距離を取る。それからまるで、鏡合わせのようにターンした。
特にルールを定めずとも、最低限の訓練と軍事的美徳を備えた騎兵の一騎打ちとあれば、こうして自然と息も合う。もちろんそこを突いて奇襲する手もあるが、今回はどちらもしなかった。
ふたたび向き合ったまま、まずはどちらも深く息を吐く。
たったいちど、ほんの一瞬の接触ではあったが、互いが強敵であることは充分に感じ取っていた。
レスターは緊張と恐怖を和らげるため、肩と首をほぐすように動かし、アリシアも剣を8の字に回して利き腕の緊張を和らげる。
「ハッ、まったく。この戦いこそ昼間の大観衆の中でやりたいよ。さぞ儲かったろうに、勿体ない」
レスターが虚勢と本音、半々で言う。
「このご時世、本物の殺し合いでは案外盛り上がらないと思うぞ」
「なんとまぁ。ベルジア人が文明人気取りか。……しかしまあ、そうかもな」
悪徳騎士は肩をすくめ、続けた。
「恐らくだが、下馬戦闘では俺はあんたに勝てないだろう。ベルジア人相手だ、悔しくもないね。だが、馬上一騎打ちとなると話は別だ。これくらいの実力差よりも、運のほうがよっぽど勝敗を左右する」
「“これくらい”と言うには絶望的な実力差だと思うが、運の要素が大きいのは認めよう」
「そうだろう? 自慢じゃないが、俺はこれまで散々な人生だった。だからここらで一発逆転といきたいんだが――」
レスターは緩慢な動作で剣を構えなおす。
「あんた、運は良い方かな?」
「……そうだな」
アリシアもゆっくりと剣を構え、突撃の予備動作をする。主から膨れ上がる自信と闘争心を読み取ったブーケトスが、鼻息荒く足で地面を掻いた。
「不幸続きの人間に言うのは気が引けるが……ここ最近のわたしは世界で一番ツイていると言っても過言ではない。いくつもの奇跡と幸運の連続だ」
普通はここまで言われると、ハッタリにしか聞こえないだろう。
だがレスターにはどうしてもそう聞こえなかった。くだらないブラフだと断じるには、この女はあまりに不敵で、自信に満ちている。
こんなことなら運の話などしなければ良かった……と彼は思った。
この話題を持ち出したのは単なる気まぐれではなく、心理的な優勢を得るためだ。
技能でこちらを圧倒する相手に、『もしかしたらこの男に、いままでの不運と釣り合うような勝利が舞い込むかもしれない』とか、『自棄になってこちらの剣を防がず、相打ち上等で斬りかかってくるかもしれない』と思わせられれば上等だったのだ。
たったそれだけで、一瞬の勝負では致命的となる迷いを生じさせ、剣筋を鈍らせることができる。
しかし、結果は見事に逆効果。心理戦でも圧倒され、まるで大蛇に飲まれる哀れなカエルの気分だった。
ならせめて、その大蛇の口が完全に閉じる前に――
「……っ、ああそうかい。その幸運、まだ続いてるか試してやるよ!」
レスターは最後の虚勢で吐き捨てる。彼の馬も共鳴するように嘶き、突進を始めた。
先に動いたものの、これでは戦術的な意味で先手を取ったとは言えなかった。ただ動かざるを得なかっただけのことだ。もたもたしていると相手に飲まれる。その焦燥だけが人馬を突き動かしていた。
「行くぞっ」
間髪入れず、アリシアも自信に満ちた声で愛馬に指示を出す。待ってましたと、ブーケトスがロケットスタートを切った。
長めにとっていた助走距離を互いがあっという間に食い尽くし、圧倒的な速力へと変える。
そして――
「……っ」
「……!」
先に繰り出されたレスターの剣は、どこかをきちんと狙ったものではなかった。そんな事ができる速度でも、心理状態でもなかったのだ。
だがアリシアは違う。粗末な弧を描くレスターの剣を見切って、構えていた剣を短く一閃。迫る刃をはじき飛ばす。
レスターはグリップを強く握っていたおかげで、なんとか剣を手放さずに済んだ。だがその引き換えとして、稲妻のような衝撃が剣を伝わり、手、腕、肩と駆け抜けていく。
「ぐうっ……!」
顔をしかめながら痛みと痺れを堪え、彼は素早く馬を旋回させる。先ほどのように仕切りなおさず、このまま戦い続けるつもりだった。
なにかの打算というわけではなく、本能的な選択だ。格上と二度も剣を交えれば、冷静でいるのは難しかった。あとは窮鼠となり、猫に喰らいつくのみ――
アリシアもそれを察知し、素早く方向転換した。
お互いが最小旋回半径を描きながら接近し、ふたたび剣が交わる。
二度、三度、四度と、刃が青い火花を散らして打ち合い、擦れあう。
「どうしたっ!? 俺となんか勝負にならないくらい強いんだろう!?」
技能で劣るのを勢いでごまかすうち、レスターはすっかりハイになっていた。だがいくら剣を大振りしても、相手は隙をついてこない。
何度かそれが続くと、とうとうレスターは確信した。
「ハッ、どうしても俺を生かして捕えたいとみえる! あの姿見、どうやら相当大事なモノらしいな」
「っ、そういうことだっ。私がその気なら、自分が何回死んでいるか想像してみろっ」
「知っているよ!!」
レスターが大きく剣を振りかぶり、打ちおろす。
いつもならわざわざ受け止める必要のない斬撃だが、アリシアはそれを剣で弾いた。馬上では自分の足でステップが踏めず、馬体を守るために防御範囲も広い。そのため、相手の剣筋はほとんど躱さず、防がなければならなかった。
「はははっ、嬉しいね。もう日の目を見ないと思っていたXS85で、こうも戦える!」
「気が済んだら降参しろっ。私が“半殺しくらいならいいか”と思う前にな!」
「まだまだ! トライアルの続きをしてもらおうか!」
レスターは言うが早いか、光に覆われた剣をアリシアに向ける。
なにかは分からないが、射撃魔法には違いない。アリシアはなんとか馬を操り、身体を傾け、射線上から退避した。
爆発音。
先ほどまで自分の身体があった空間を、衝撃波が突き抜けていく。間違いなく、軍用出力の衝撃波魔法だ。
「くっ……!」
たとえ射線上に居なくとも、この至近距離では衝撃波と完全に無縁ではいられない。もともと無理な姿勢をしていたこともあり、アリシアは馬ごと大きくバランスを崩した。
これで落馬しないだけでも見事だが、アリシアは振り落とされる寸前のロデオのような状態から、素早く姿勢を立て直す。
だがレスターはその隙をついて、今にも剣を振り下ろそうとしていた。
「死ねぇっ!」
「……!」
間一髪。アリシアはその一撃を、身体に到達するぎりぎりのところで受け止めた。
「しぶといっ……」
これで決まったと思っていたレスターは、自分の剣を相手の剣に押し付けたまま、不愉快そうに舌を打った。
いっぽうアリシアは、眼前で交差する刃にひるまず、妙に余裕たっぷりに口を開いた。
「思ったよりもやるな、レスター。だがなまじ腕に覚えがある者ほど、ベルジア兵相手に悲惨な末路を辿るものだ」
「なんだと……。ぬおっ!?」
それはレスターにとって全く予想外のことだった。
着ていた上着の脇腹あたりを、急にグイっと引っ張られたのだ。
一体なぜ? 二人きりなのに、誰が服を引っ張るのか?
訳も分からず目をやると、そこにはドアップになった馬の顔があった。
なんと相手の馬が首を回し、服に噛みついていたのである。
「なんっ……!!??」
あまりのことに、レスターは目を見開いて固まる。
その隙に、ブーケトスは強力な首の力で彼を馬上からもぎ取った。
「がっ……!」
柔道なら一本勝ちが取れるような馬の投げ技で、レスターは地面に叩きつけられる。激しい衝撃と苦痛。視界も平衡感覚もめちゃくちゃになった。
それでも地面の存在を頼りにどうにか身体を起こすと――
すぐ目の前には、青白く光る剣の切っ先があった。
「くははっ」
レスターは引きつった声で短く笑い、アリシアは一言もなく、馬上から衝撃波魔法を放った。
ぼんっ、というポン菓子機のような破裂音とともに、円錐状に広がる衝撃波がレスターを人形のように吹き飛ばす。
「っぐあ……!」
身体が地面を跳ね、転がり、ギンシュウシラカンバの白い幹に激突する。レスターはそのまま木にもたれかかるようにして、動かなくなった。
アリシアは慌てることなく剣を納め、無様な悪徳騎士に馬を寄せて下馬した。
相手の防御魔法こそ発動しなかったようだが、それでもいまの衝撃波魔法はせいぜい気絶する程度の威力に抑えていた。命に別条はないだろう。
「騎兵なら馬の蹴りと嚙みつきにも注意しておくべきだったな。だがなかなかいい勝負だった。バースワートはろくでなしだったが、それと比べると貴様は多少の騎士道精神は持ち合わせているようだ」
「…………。なにが騎士道だ。そんな美辞麗句で飯が食えるかよ。クソくらえだ」
満身創痍のレスターだが、意識はあった。
「その騎士道精神で、助命したんだがな」
「冗談はよせ。俺の口から聞きたいことがあるだけだろ」
「それはそうだが。『兄を殺さないでくれ』と助命嘆願もあったしな」
とりたてて抑揚も付けずに言ったアリシアの言葉に、レスターが顔を上げる。
「……なに?」
「彼女の正体はとっくにバレているぞ。健気な妹だ。あんな姿になりながら、兄の身を案ずるとは」
「! いっ、妹に、ソフィアになにをしたっ!?」
レスターが狂ったように叫ぶ。
そう。アリシアも最初聞いた時には驚いたのだが、この男とあの特派員は兄妹だった。レスターを捕まえるために先行する自分に、彼女のほうから打ち明けてきたのだ。
しかしアリシアは陰惨な笑みを浮かべ、さも苛烈な尋問の末に聞き出したかのように続ける。
「きれいさっぱり白状させたさ。親族の家に養子に出され、新聞記者となって仇討ち旅に同行。一行を宣伝し、空き巣の捜査情報も記者の身分でいち早く手に入れていた――とな。おなじ女の身だ。部下たちには手加減しろと言ったんだが……力及ばずで申し訳ない」
「ふ、ふざけるなっ!」
レスターが全身の痛みを無視して、立ち上がる。
「こちらの台詞だ!」
自分に掴みかかろうとしたレスターを、アリシアは容赦なく蹴りつけ、ふたたびシラカンバの幹に激突させた。
「っ……」
「さあお遊びは終わりだ! 妹の処遇は貴様次第、洗いざらい吐け!」
「ぐぅううう……!」
そこで、遠くから複数の馬が駆けてくる音がした。
ランタンや前照灯の光も見え、支線運河沿いの道をわらわらと近づいてくる。
「……やっとか」
アリシアがため息交じりに言った。すぐに音と光のぬしである騎兵隊が姿を現し、彼女の周りを囲む。
「遅いぞ」
「少佐が速すぎるんですよっ。ただでさえこっちは大所帯でスピードが出ないんですからっ」
「いくら少佐でも危ないですから、夜中にあんなスピード出さないでくださいっ」
「川に落ちたらどうするんですか!」
「――兄さん!」
口々に小言を言う騎兵たちに混じり、兄を呼ぶ若い女性の声がした。
レスターははっとして、妹の姿を探し求める。
「ソフィア! ソフィアなのか!」
「兄さん!」
リヒターの後ろに乗せられていたソフィアが、居ても立っても居られない様子で、転げるように馬を降りた。
「こら、勝手に――」
静止するリヒターを意に介さず、ソフィアは兄のもとに駆け寄ろうとする。しかし馬に繋がれた腰縄が伸びきって、あと少しのところで止まってしまった。
「ソフィアっ……ぐぅ」
レスターも応じようとするが、立ち上がりきれずに尻餅をつく。
「ああっ、兄さん!」
「ソフィアっ!」
「……まったく、まるでこちらが悪者だ」
見かねたリヒターが馬の縄を解いてやると、ソフィアがずっこけそうになりながらも兄に駆け寄り、今度こそ兄妹は抱き合った。
「兄さんっ」
「っ、すまなかったソフィア。だが生きていてくれるだけでいい……っ」
「兄さんこそ、無事でよかったっ!」
無事を確かめ合う二人を、アリシアはなんとも言えない表情で見ていた。
感動的といえばそうなのかもしれないが、泥棒一味の再会である。
粋な計らいをしたリヒターが、頃合いを見計らってその泥棒兄妹に声をかけた。
「……さて、満足したかな? そろそろこちらの話を――」
「黙れ! 妹を傷モノにしやがって! 俺たちはアルビオン人だ! 大使館に保護を求める! 裁判もこんな野蛮な国で受けるつもりはない! 分かったかクソ野郎!」
「兄さん?」
ソフィアがきょとんとする。
「……なぜ私がそんな罵倒をされなければいかんのだ」
唐突なレスターの罵詈雑言に、さすがのリヒターも傷ついた様子で、
「……少佐、あの男になにか言ったか?」
問われたアリシアは目線を逸らし、気まずそうに答えた。
「……まあ。なんと言いますか。コイツらがあんまりベルジアを後進国扱いするものですから。ちょっと彼女をダシにビビらせてやろうかと……」
「ほほう、なるほど。それで私がサディスティックな尋問が趣味の強姦魔かね」
「い、いえっ。そういうつもりでは……」
「……まあいい」
リヒターはため息を吐き、それ以上の追及を勘弁してやると、
「少佐が先行したあと、また情報が入ってな。新たに複数の不審者を捕まえたそうだ。この道の先でも、貯木場から渡河した二名を追跡、捕縛したらしい」
「そうですか。……それで、例の物は?」
リヒターは首を振る。
「まだだ。だが賊は全員か、少なくともほとんどを捕らえた。じっくり吐かせればいいさ」
「はい」
「……さて、とりあえず我々は急いで戻らなくてはな。向こう側をあまり長く留守にするわけにはいかん」
「ええ。――オリベッティ中尉!」
アリシアが呼ぶと、士官が駆け寄ってくる。
「リヒター卿と私は急いでグランツィヒに戻らなければならない。すまないが、あとのことは頼む」
「了解しました」
「ん。賊どもがダンマリを決め込んでいたら、いちど全員で会わせてやれ。これ以上かばう仲間がいないとなれば、諦めもつくだろう」
「はい」
それからアリシアは、例のランスを預けた下士官に近づき、
「ランスを」
「……はっ」
下士官が騎兵槍を手渡すと、アリシアはそれを空に向けて真っ直ぐ構えた。
青白い光がたちまちバンプレートから円錐の頂点までほとばしり、白い光弾が打ち上がる。
西暦世界の信号拳銃よりずっと高く、高度五〇〇メートルほどで光弾は爆ぜ、青い二つの光点を一〇秒ほど輝かせてから消えた。
農村で借りた荷車に揺られながら、バースワートはその彩光信号をぼんやり眺めていた。振り向き、自分たちを護送する騎兵にたずねる。
「……なあ、今の信号どういう意味なんだ?」
「秘密だ」
「けっ、ああそうかい。田舎モンは愛想っつーもんを知らねえから嫌ンなるぜ」
「よせよ。神妙にしてろ」
相変わらずのバースワートを、向かいに座ったロジャーが窘める。
「……みんな捕まっちゃったんじゃない?」
ナタリーが他人事のように言った。
「……の、ほうが良かったり」
呟いたモニカが、慌てて言葉の真意を補足する。
「だ、だってこのままバラバラに逃げたって、みんなもう会えるかどうかっ」
「そーねぇ」
ナタリーはけろっと同意して、星空を仰いだ。
「ま、これでも上等な結末じゃない? しでかしたことから考えれば。私はちょっとだけ、あのおっかない女に感謝してるわよ」
「おいおい、さっそく更生したフリかよ」
「なによ」
バースワートが厭味ったらしく言うと、ナタリーも口を尖らせる。
「しおらしくして、自分だけ早く娑婆に戻ろうってんだろ」
「はぁ!? アンタこそ塀の中でバカやって、ひとりだけ刑期が伸びるんじゃないの? 言っとくけど、先に出たアタシを頼って来ないでよ」
「誰が頼るかよ。ばーか」
「なんですってぇ! このっ」
「いだいっ! 分かったっ、足を蹴るな! 怪我してるんだぞ!」
「おいっ、うるさいぞ貴様らっ、ちょっとは反省しろ!!」
一行のしょうもない会話に耐えかねた騎兵の怒声が、夜の農道に響き渡った。
――中央軍司令部。統合指揮通信室。
「青二発。明滅なしです」
「ご苦労」
観測手の報告を受け、軍人のバッハとラフォンが顔を見合わせる。
「どういう意味だ?」
彩光信号の意味を知らない警視総監のリゴーが言うと、ラフォンが声を弾ませて答えた。
「作戦成功です」
「なに、作戦というほど大したものでは無い」
そう言うバッハも言葉に反し、誇らしげだった。
「お見事です。閣下が居なければ、中心メンバーの一部を取り逃がしていました」
「まあな」
「最初に急行した騎馬警官あってこそだ」
「もちろんです」
ラフォンが陸軍中将と警視総監、両方の顔を立てる。
幼馴染のバッハとリゴーはお互い視線を交わし、すぐに逸らした。
「……さて、私は失礼する。なにせ大捕り物だ。ここからが忙しいのが我々警察でね」
リゴーが厭味っぽく言うと、バッハもすぐに似たような口調で応じる。
「軍の探し物が優先だぞ。少佐が捕らえた連中は、我々が聞き取りを終えてからくれてやる」
「ああいいとも。陛下のご意向だ、好きにしろ。だが口を割らないからといって一発でも殴ってみろ。連中と同じ牢屋で頭を冷やすことになるぞ」
それからリゴーは、ほかの参謀やカトリンには目配せで『上手くいって良かった』と伝え、部屋を出ていった。
「……あの、私は」
いよいよ自分の場違いさに耐えられなくなったカトリンが、恐る恐る声を上げる。
ラフォンが目をやり、
「ご苦労だった中尉。宿を取るか、ベルトウまで戻るならここの馬を使っていい。どうせまた明日、記録を纏めるために来てもらうがな」
「はいっ」
カトリンがぴしりと姿勢を正して返事すると、バッハも続けて彼女に声を掛ける。
「長く引き留めたな、中尉。あのランベルト少佐が寄越したのだから、どこかで役に立つかと思っていたが、予想通りだった」
「恐縮です」
「雑踏警備の最中で少佐に捕まったと聞いたが、彼女とは個人的に付き合いがあるのかね?」
「……は。元々は大学の先輩後輩でして。予備役将校訓練課程でたまたま同じ訓練班に配属されたことがきっかけで、いまも親しくさせていただいております。大学時代はずいぶんと助けていただきました」
それを聞いたバッハは、意外そうな顔をした。
「ほほう。その若さで中尉だからてっきり士官学校出かと思ったが。少佐含め、最近は大卒者の活躍が目立つな。しかしランベルト少佐は、学生の時分から後輩の面倒見が良かったか。どうりで部下からも慕われるわけだ」
「はい。少佐が先に卒業して任官された後も、なにかと助けていただきました。おかげで少尉候補生試験で“優秀少尉候補生たる准尉”になってしまい、あれよあれよと今の立場に――」
と、口を滑らせて、カトリンは慌てて口を覆う。
「も、申し訳ありません。忘れてくださいっ」
「……ふむ。つまりあれかね。当初は軍の奨学金制度目当てで予備役将校課程が設置された大学へ進み、卒業後は返済免除になるまで予備役をやっておこうという腹積もりだった。それが上手くいきすぎて、いま職業軍人をやっておると」
「うっ……」
図星。それもダーツで言えば真ん中のど真ん中のような図星に、カトリンは思わずうめき声を漏らした。
さすがは参謀本部のトップ。素晴らしい洞察力だ。……というか、大学の予備役過程の奨学金を手厚くしてくれたのが、そもそもこの人だった気がする。
「……か、返す言葉もございませんっ。が、いまは一意専心、職務に精励しております!」
「わかっとる」
てっきり怒られるかと思ったが、バッハはにやりと笑っていた。
「たしかにランベルト少佐は優秀だ。しかし彼女の助けだけでは、優秀少尉候補生にはなれん。あれは士官学校生も合わせた狭き門だ。きみには間違いなく優れた軍人の素質がある。私はきみのような人間をリクルートするために、奨学金制度を今の形にしたのだよ。士官学校を優遇する古い伝統の改革には手間取ったが、やはりその価値はあった。ふふん、まんまと引っ掛かったな、中尉」
ふと見ると、ラフォンや他の参謀将校も顔を伏して笑っている。カトリンは頬を赤らめ、
「……み、見事に釣られてしまいました。ですが、後悔はしておりません!」
本心だった。
バッハもそれを分かってくれたのだろう。こくこくと頷き、
「そうかね。まあ頑張ってくれ、クルーガー中尉。今後の活動に期待して、名前は覚えておこう」
そう言ってまたにやりと笑った。
――数週間後。西暦世界。佐倉家。リビング。
「――――とまあ。そういうことがあったわけだ」
長い長~い事のあらましを話し終え、アリシアは湯飲みに口を付けた。この家に駐屯している時にはほとんど私服姿の彼女だが、いまは久しぶりの軍服姿である。
「……んで。肝心の姿見はどうしたんだよ。それを手に入れるって話だったろ。前に言ってた鋭意捜索とやらは終わったのか?」
頬杖ついた京介が、白けた様子で言った。
「……いや。けっきょく姿見は、連中がグランツィヒに入る前に、ほかの盗品と一緒に売りさばいていたことが分かってな。行方を追っているが、まだ発見には至っていない。――とはいえだ」
不甲斐ない結果に反して、声のトーンが上がる。
「大陸中を荒らしまわった国際窃盗団を一網打尽にしたわけだからな。その功績に対し、本日この平時特別功績章が贈られた」
そう言って、アリシアは食卓の上に置かれた小さな化粧箱をずいっと前に出した。
京介が頬杖をついたまま目を落とすと、箱の中ではブロンズの正章メダルと、ミニチュアメダルが光っていた。なかなか綺麗な章で、七宝焼らしき青と白の装飾がされている。
「交差する剣は陸軍、鳩は平時の賞であることを意味する。これが戦時だと、鷹などの猛禽類になるわけだ」
アリシアが得意げな顔で、メダルにあしらわれた意匠の意味を説明する。ベルジアでは同等の勲章が戦時と平時で別けられていることが多く、この章もその一つだった。
とはいえ、この勲章には別の功績も含まれていた。
あの大捕り物のあと、隣国スラヴァとの会談のために西暦世界を訪れたベルジア王を、大陸外敵の襲撃から守った功績だ。
勿論こちらの方が大きな働きだが、いまのベルジアには非正規戦での活躍を讃えるにふさわしい勲功制度が無かった。そのため、この平時章の最高グレードを授与することによって、その活躍に報いたのである。
「ほーん」
向かいに掛けた京介は、その努力と功績の結晶たる勲章をたいして興味もなさそうに見ながら、すっかり冷めたお茶をすすった。
「……『おめでとうございます』くらい言ってくれてもいいだろう」
「ウチとしては勲章なんかより姿見を持ってきてくれるとありがたかったんけど。まぁおめでと」
「……だからまだ捜索中だ。ちなみに今回の授与により、略綬は三段目に突入した。すごいだろう」
アリシアはそれを強調するため、もう張る必要のない胸をえっへんと張る。
「へー」
たしかに左胸の略綬は、最上段が三個、下二段が二個の計三段になっていた。いままでは一列三個の二段だったが、今回授与された勲章のために組み変えたのだ。
「今回のはどれだ?」
小さくてごちゃごちゃした略綬の塊を見ようと、京介が顔を近づける。戦争映画などを見ていると分かるが、この略綬というのは一個一個がカラフルで、並べられるとよく分からないのだ。
「ふっふっふ。よく見ろ。メダルについているリボンと同じ柄だぞ」
アリシアが素直に指差さなかったのは、この勲章がこれまで授与されたもののうち最も位が高く、新調したリボンラック(略綬を並べる台座)の一番右上にあるのを見つけて欲しいからだった。
京介としてはそう言われたので、略綬――の付いた胸へさらにずいっと顔を近づけ、目を凝らす。
「…………」
彼がなかなか見つけられずにいると、アリシアはだんだんと恥ずかしくなってきてしまった。
冷静になって考えると、自分はかなりはしたない事をしているのではないだろうか。自分から胸を突き出して、若い男に『よく見ろなどと』――
「――っ」
とうとう耐えられず、アリシアは誇らしげに突き出していた胸をばっと両腕で庇い、身をよじる。そのまま真っ赤な顔で、
「人の胸をジロジロ見るなっ! この変態!」
「!? はあ? そっちがよく見ろっつったんだろうが」
「私は略綬を見ろと言ったんだ!」
「同じだろ! 胸についてんだから!」
「貴様――」
こうして始まったいつもの口喧嘩は、見かねたアリシアの副官が止めるまで続いた。
――とにもかくにも。
ベルジアは意外にも近代的な社会秩序が機能する、存外しっかりとした立憲君主制国家である。
決して多くのファンタジー系創作物に出てくるような、夢のある中世風の封建国家ではないのだ。だからもし西暦世界から転生を果たしても、ありがちな冒険ファンタジーは期待しないほうが良い。
なんだつまらないと思うかもしれないが、旅行気分なら楽しみはいっぱいある。
オススメはクアオルトなどの温泉巡りだ。
ベルジアは日本に負けない温泉大国なのである。