いにしえの法 ①
剣と魔法の世界……とは言ったものの。
彼女の世界には、通常そこに期待されるさまざまな要素がまるでなかった。
経験値を提供してくれるモンスターも居なければ、人間から差別されている亜人種もいない。たしかにホモサピエンス以外の知的種族も存在はするが、彼らはただの“人間”として生きているだけだ。
もちろん運命を操るとか世界をやり直すとかいった、やたらと大仰な設定の魔女もおらず、なぜか別の世界から一般人を転生させ、チート級の力を貸してくれる女神やドラゴンもいなかった。
各団体を見ても、実に残念だ。
洞窟をねぐらにする盗賊団や、秘密結社、魔法学園、騎士団、競い合う魔法の名家などはほとんど存在せず、あるのは西暦世界とさほど変わらない公的機関や企業、その他法人だけである。
地図を広げてみても、これといった冒険要素は見当たらない。
魔王の勢力圏や魔物が巣食うダンジョンはなく、クエストやギルドの管理所もない。パーティーメンバーを募る酒場すらない始末だ。
おまけにシステムやユーザーインターフェースも酷かった。
セーブポイントも残機制も無く、レベルやスキルといった概念も無い。
ステータスウインドウの表示機能すら未実装なので、カンストしたステータスを見せて周囲を驚かせることも叶わなかった。
魔法も一応あるにはあるが、その不可思議さはひどく損なわれており、魔獣や神獣の召喚など絶対ムリ。それどころかニワトリ一羽、いや唐揚げ一個すら出すことができない有様だった。
とにかく無い無い尽くしのつまらない世界である。
――だがしかし。そんな世界にも“仇討ち一行”だけは存在していた。
愛する人を殺された者たちがパーティーを組んで旅をし、逃げ回る悪者を成敗するという、アレである。
彼らこそ、この窮屈な剣と魔法の世界に許された、数少ない冒険活劇要素であった。
そしていま。とある仇討ちパーティーが悪者を追って、彼女の国、ベルジア王国に入国していた――
「……三六度二分。うん、大丈夫ね」
「ありがとうございます」
水銀式体温計を睨んだ女性に平熱を宣言され、彼女――アリシア・ランバートは礼を言った。金髪碧眼、ステレオタイプの白人美女で、容姿以外にも貴族、軍人、剣士、そして隣の世界に行けばもちろん異世界人と、豪華絢爛な背景の持ち主である。
しかし彼女からすれば、自分は騎兵畑の一将校だった。車やバイクがぶんぶん走る異世界に勤務していても、専門は騎兵の訓練と運用、騎兵術の研究である。それが証拠に、軍服の左胸にはかつて所属していた、騎兵連隊の記念章が付けられていた。
「体調不良は無し、持ち物も問題なし。すべて大丈夫ね。おかえりなさい、少佐」
「いつもありがとうございます、マーガレットさん」
「ふふ、仕事よ。気にしないで」
アリシアのねぎらいに、マーガレットと呼ばれた女性が微笑む。
ここはアルギリア大陸北部、ベルジア王国首都グランツィヒ。王都と海を見下ろすアルツァイツ宮殿の半地下にある、石造りの大部屋だ。
薄暗い室内には、大きな机と椅子が四つ。奥には頑丈そうな鉄格子で仕切られた、冷たい牢屋があった。その牢屋の中に囚人はおらず、かわりに見事な装飾の姿見が囚われている。
アリシアはつい先ほどその鏡面からぬっと現れ、牢から解き放たれ――たったいま持ち物と体調のチェックを終えたところである。
姿見の向こうには西暦という紀年法を使う世界があり、彼女はふだん、その西暦世界のごく普通の民家に駐屯していた。
王宮と異世界を繋ぐ不正な抜け道の警備。それが彼女の主たる任務である。
いっぽう、彼女の持ち物と体調をチェックしたマーガレットはベルジアの人間ではなく、帝国公館から派遣されてきた職員だった。
帝国公館というのは、ベルジア王国が属するアルギリア大陸帝国の、大使館のようなものである。ただし両国は対等ではなく、あくまで宗主国と一構成国という関係のため、帝国の出先機関は大使館ではなく公館と呼ばれていた。
そんな宗主国である大陸帝国は、異世界である西暦世界の存在を厳重に秘匿している。そのため特例で行き来が許されているアリシアも、西暦世界の物を持ち込まないよう、こうして毎回チェックを受けているのだった。
体温を測ったのもその一環で、目に見えないものを持ち込まないため――つまり防疫のためである。さいわい、向こうは比較的清潔な日本なので、防疫手順は一番簡単なもので済んでいた。
さらにありがたいことに、帝国公館はボディーチェックのために同性の職員を派遣してくれており、今ではこうして、すっかり仲良くなっている。
アリシアがそんな職員のひとりであるマーガレットと談笑しながら軍服の上着に袖を通していると、古びた木のドアがこんこんと叩かれる。
『終わったかね?』
落ち着き払った男の声。優雅だが、力強さと冷徹さも感じられた。
「お待たせしました。すべて問題ありません」
アリシアが答えるとドアが開き、声の主が入ってくる。金髪碧眼。彫の深すぎない、すっきりとした美形の男だ。前髪を上げたオシャレな七三分けで、首元には深い青のスカーフ。すらりとした長身で、丈の長い黒のアルスターコートを見事に着こなしている。
彼――アロイス・リヒターは帝国軍中佐の階級を持つ軍人であり、同時に帝国騎士と呼ばれる称号の持ち主だった。騎士号が名誉称号になった今でも、珍しく本当に戦える騎士様なのだ。
「すまないな。自分の国に帰るだけなのに、毎回面倒なことをさせて」
リヒターが小さく肩をすくめる。彼もアリシアと同じく西暦世界暮らしだが、帝国の人間なので、チェックは体温測定だけで済んでいた。
「いえ。これが必要なことだというのは理解しておりますので。むしろこうして行き来させていただけるだけ、感謝しております」
「そう言ってもらえると助かる。彼らはすでにグランツィヒに着いているようだ。我々も急ごう」
「はい。――では行ってきます、マーガレットさん」
「いってらっしゃい。気を付けて」
二人はマーガレットに見送られ、今では王宮の最重要区画になった旧物置部屋を出た。
今回、自分たちの世界に戻ってきたのは休暇ではない。これから一仕事あるのだ。
アルツァイツ宮殿はその名の通り、国のトップの官邸・公邸として使われる国家の最重要建造物である。広大な敷地には王族の生活空間に加え、執政や行事のための様々な設備もそなわっている。各所にはしっかりと衛兵も配され、常に厳戒態勢が取られていた。
「……もう少しまともな格好で来たかったものだ」
その衛兵の視線が気になったのか、アリシアの後ろを歩くリヒターがぼやいた。
スカーフはフォーマルな巻き方で、アルスターコートもきちんとしたものではあるが……やはりバロック様式の荘厳な建物内を歩くのは少々気が引ける。
しかもここは観光地と化した宮殿ではなく、いまも宮廷服を身にまとった貴族や、大礼服を着たベルジア王がいる場所なのだ。
「陛下は気にされませんよ」
アリシアがこともなげに言う。そんな彼女が纏う軍服――ベルジア陸軍常装は、市井から宮殿まで着ていける、ある意味最強の一着だった。
「それに品位も充分だと思います。考えられましたね。そのコートなら西暦世界でも、ベルジアの街でも、それほど目立つことはありません」
「まあ、両世界を行き来するちょっとしたコツだよ。西暦世界の男物の正装は、ここ二〇〇年くらいそれほど大きな変化はしていない。英国発祥のダンディズムというやつでね。派手な装飾のない、洗練されたものが好まれる」
「なるほど」
「ベルジアの男性服も、いまが過渡期のようだな」
「……の、ようですね。いままで想像もしていませんでしたが。アビ、ジレ、キュロットを着る者もずいぶんと減ってきました。西暦世界とまったく同じような変遷を辿るわけではないと思いますが、段々とシックなものが主流になっていくかと。あとは中央国家からどれくらい流行が伝わってくるかです」
アリシアの言うアビ、ジレ、キュロットとは、派手な装飾の男性服のことである。おフランスの貴族の服を想像すれば……たぶんそれであっている。
中央国家というのは、アルギリア大陸帝国の中核を成す主要国家群のことだ。この世界でいうとEUの主要国や、G7的なノリの先進国たちである。彼らはこれまで西暦世界との交流を独占し、ベルジアよりずっと進んだ文明を誇っていた。
「いや、中央国家とてまったく西暦世界に追いついているわけではないよ。まだ豪華な宮廷服を好む方もおられる」
「そうでしたか。……まあ女の身としては、とにかくコルセットがだいぶ緩くなったのが助かります。祖母のものを見たときはぞっとしました。あれでは砂時計です」
「ははは。ひと昔前のご婦人はあれで兜より重い装飾を頭に乗っけていたからな。さぞ大変だったろう」
「本当に」
そんな会話を交わしながら、ふたりは宮殿内を進んでいく。
クール・アニェスと名付けられた広大な中庭を囲む連絡通路を通ると、いよいよ王が住まう宮殿中央部が近づいてきた。その正面の偉容は圧巻の一言で、純白の円柱に支えられたバルコニーと、巨大な両開きの扉三枚がそびえていた。それらはすべてシンメトリカルに配置され、隙のない装飾で飾り付けられている。
そして連絡通路の突き当たりにも、宮殿中央部に通じる小さな扉があった。(と言っても、音楽ホールの両開きドアくらいの大きさはあるのだが)。正面の扉は普段使いしないため、王であっても、通常の出入りにはこちらが使われている。
その扉を守る衛兵がアリシアにぴしりと挙手敬礼すると、アリシアとリヒターも慣れた手つきで答礼を返す。
ベルジア軍の規則では、無帽のときでも、答礼は挙手で行うことができた。衛兵のほうが挙手敬礼したのは、屋内でも常時着帽が義務付けられている唯一の兵科だからだ。
アリシアが答礼をやめると、衛兵も敬礼を解き、扉を開ける。
奥に続くのは〈盾の間〉。いよいよ、王政ベルジアの中枢である。
「待っていた。少佐」
扉の向こう、謁見前の待機室では、ベルジア軍の実質的トップ――バッハ陸軍大将と、首都グランツィヒを管轄する警視庁のトップ――リゴー警視総監がくつろいでいた。それぞれ大きな二重顎をした太っちょと、神経質そうな顔に一〇時一〇分を差す立派な口髭を蓄えた中肉中背である。
「っ……お待たせいたしました」
異なる実力組織の最高幹部ふたりに、アリシアはたちまち直立不動を取った。いかに小国とはいえ、この組み合わせはかなり珍しい。
しかも今回は、自分がこの二人を呼びつけたカタチだ。というか、彼らが勝手に集まってしまったのだが……。
「これはこれは。陛下に加え、このような高官の方々まで。わざわざ有難うございます」
彼女の後ろからリヒターが入室すると、最高幹部たちも立ち上がる。
「おお、お久しぶりです。リヒター卿」
まずバッハが手を差し出すと、リヒターがすぐに握り返した。
「お久しぶりです。閣下」
「なんと! 憶えておいでですか」
「もちろんです。貴国がホストを務めた二年前の合同軍事演習のとき、帝国のオブザーバーとして参加した私に、大変よくしていただきました。あれが初めてのベルジアでしたが、いい思い出ですよ」
「それは良かった」
リヒターは続けて警視総監、リゴーとも握手を交わす。
「初めまして。帝国軍中佐、アロイス・リヒターです」
「警視総監のリゴーです。帝国の騎士様にお会いできて光栄だ」
「こちらこそ、ムッシュー。賊はかなりのやり手です。ベルジア警察の全面協力に感謝します」
「警視庁の威信にかけて、コソ泥を必ず捕まえて見せますよ」
「頼もしい限りです。――ではさっそく陛下にご拝謁賜り、今回の状況のご説明と、ご協力への感謝を申し上げたいのですが」
「もちろんです。陛下も喜ばれます」
「少佐、先導したまえ。侍従長から話は通してある。陛下は執政室で執務をしながらお待ちだ」
「はっ」
宮殿職員に剣を預けていたアリシアが、バッハの指示できびきびと動き出した。
――盾の間。
ますます贅を凝らした装飾の数々。天井には巨大なシャンデリアが連なり、戦場を描いた天井絵が続く。
廊下のように奥行きのある広間を進みながら、さすがのリヒターも物珍しそうに周囲を見渡した。
「これは壮観ですな」
感嘆する視線の先には、装飾や絵画ではなく、壁に掛けられた無数の円盾があった。
この空間の主役はその名の通り、紋章入りの盾たちなのだ。
「大陸中の名家の紋章があるでしょう」
バッハが誇らしげに言う。
「ベルジア傭兵が雇い主から武勲を讃えて贈られ、国に帰って、時の国王へ献上したものです。ベルジア傭兵としての誇りと、異国で戦う我が身を案じてくれた王への感謝と畏敬を込めて。この場所に先祖が持ち帰った盾があることは、ベルジア人にとってなによりの名誉です」
「なるほど。……あの空いている場所は?」
「あれですか」
リヒターが盾一枚分空いている場所を示すと――バッハが、全員が足を止めた。
「……まだ、帰還を待っているのです。ここに盾を飾るだけの活躍をしながら、いまだに戻ってこない者もいる。彼らのために、あそこは空けてあります」
その口ぶりと、ベルジア傭兵が活躍した時代を考え、その未帰還者がかなり昔の人物であることをリヒターは察する。そしてバッハをはじめ、ベルジア人にとって彼らが特別な存在であろうことも。
きっとあのぽっかりと空いた場所には、無名戦士の墓のような役割があるのだろう。
「……ふむ。大陸中で戦ったベルジアの傭兵団は、地元の騎士団と対比して悪しざまに言われることも多い。しかし実態は、ならず者も多かった騎士団よりずっと高潔だったと聞いています。あの空けられた場所には、それを裏付ける国民の精神性があるようですな」
リヒターの言葉に、バッハは哀愁のこもった顔をほころばせる。
「ご理解いただき嬉しく思います。贅を凝らしたこの盾の間ですが、もっとも大切な場所は未帰還者のために空けられた、あの壁なのです。あそこは特に指定なく、帰ってこなかったすべてのベルジア傭兵のために空けてあるスペースですが……特定の人物のために空けられた場所もあります。――少佐、きみの家系にも一人いたな」
話を振られ、先頭のアリシアが答える。
「はい。もう三〇〇年ほど前になります。ガリアに雇われた傭兵団に参加していた当家の女性で、任務の最中に行方不明になりました。契約の関係で詳細がいっさい分からないので、普通は盾を飾る場所が空けられることはないのですが、おなじ任務に参加していた傭兵たちが強く請願したようです。この先、左手にありますので、よろしければご覧ください」
一行はふたたび、盾の間を歩き出した。
――グランツィヒ市街。
「はい止まらずに歩き続けてくださーい! 囲まない! 触らない!」
ごった返す民衆に向かって、黒と赤の軍服を着た男が声を張り上げる。
彼は平時に警察業務を行う軍人、近衛胸甲騎兵隊の隊員である。その位置付けは、西暦世界はイタリアのカラビニエリや、フランスのジャンダルムリに近かった。
すぐ近くで、今度はPOLIZEIの刺繍がされた制服を着ている女性が叫んだ。
「はいそこのソーセージ屋さん! 屋台もっと下げて! 看板も! 往路妨害ですよ!」
「祭りの時は出していいんだろ!?」
「今日は祭りじゃないっつーの! ほら下がって! それとも屋台ごと牢屋にぶち込んで、売り物のソーセージと一緒に頭を冷やしてあげましょーか!?」
「わーったよっ、チキショー!」
不貞腐れたオヤジが、石畳の歩道に飛び出していたソーセージの屋台をずるずる引っ込める。
「……ったく。軍人だけじゃなく、警官にも敬意を払いなさいっての」
ぼやいていると、小さな男の子がハンカチをもって足元に寄ってきた。
「おねーさん落とし物ー」
「まあ、ありがと。偉いわね坊や」
女性警官はがらりと声色を変え、ハンカチを受け取って頭を撫でてやる。男の子は恥ずかしかったのか、ぱーっと走っていってしまった。
「あ、走ったら危ないわよー! ……ふぅ」
「ははははは。いや、大変な騒ぎですね」
一息ついた女性警官に、先ほどのコラッツィエリが声をかけてきた。組織は違うが、早い話がどちらもお巡りさんである。上はさておき、現場の仲は良かった。
「本当ね。私たちだけじゃとても無理よ」
「もうすぐ軍が応援に来るそうですよ」
「あら、本当に?」
「ええ。第一師団隷下の、第一、第二連隊から。ベルトウ駐屯地の当直部隊だそうです。“精鋭がおよそ二個中隊ほど来るから、期待していろ”と」
「……どうかしらね。戦争は得意でも、交通整理はずぶの素人でしょ」
「まあ期待しておきましょうよ。雑踏警備は向こうに任せて、我々はスリと空き巣に警戒しないと。この仇討ち騒ぎで、どこの家も出払ってますから」
「そうね。はぁ、まったく。いい迷惑だわ」
女性警官はそう言って、遠くに見える騒ぎの中心――仇討ちのためにベルジア入りした、バースワート一行に目をやった。
甘いマスクのバースワート卿と、笑顔が眩しい剣士の女性。ムキムキの大男に、控えめで物静かな長耳の女性の四人組だ。
「……不思議なもんです。私刑を加えようとしている連中を逮捕せず、見守るだなんて」
「ホント、このご時世に仇討ちだなんていい御身分だこと。あんなに騒がれて、まるでおとぎ話の勇者御一行様ね」
勇者一行とはよく言ったものである。
ぼやく警官ふたりは知る由もなかったが、彼らの見てくれは異世界の島国で乱発され続けている、中世風RPGのキャラクターにそっくりだった。
――アルツァイツ宮殿。執政室。
「――と、いうわけで。彼らが仇と剣を交える場所は、いつも大変なお祭り騒ぎになります。多くの新聞でその動向が伝えられていますから、民衆は物語に夢中です。それが自分たちの街に来るとなれば、一目でも見ようと家を空けても不思議ではありません」
「……で、あろうな」
リヒターの説明に、ゲオルク三世王は頷いて同意する。
「そしてどうやら、そこに目を付けた国際窃盗団が、彼らを追うように旅をしているらしいのです。国を跨いでいるため、被害の全容はいまもって不明ですが、どうやらかなり手際の良い集団のようでして。……例の物もその窃盗団に。我々がアンティグア・エストレマ・レオンの大地主から買い上げようとしていた矢先でした」
例の物とは先ほどアリシアが出てきたのと同じ、世界を繋ぐ空間開口部の安定装置たる、豪華な姿見のことだ。
誤解されがちだが、姿見はそれ自体に空間開口能力があるわけではなく、ただの安定装置に過ぎない。世界を繋ぐ〈門〉と呼ばれる不可視の古代魔法が掛けられた地点に設置し、管理しやすくするための道具なのである。
ふつうは二枚一組で、言わばトンネルの出入り口のように両世界に設置するのだが、ベルジアのものは西暦世界側の姿見が紛失しており、民家――アリシアが駐屯する佐倉家の裏庭に、漆黒の開口部がぽっかり浮き出る状態になってしまっていた。
そこでリヒターは、ベルジア隣国の資産家が、ただのアンティークだと思って所有していた姿見を手に入れようと交渉をしていたのだが――あと少しのところで件の泥棒に取られてしまったわけである。
「ふぅむ。貴公には苦労を掛けるな」
「勿体ないお言葉です」
「我が国もすでに警察と憲兵隊に特別警戒命令を発し、最寄りの駐屯地から歩兵隊も応援に来るよう命じてある」
「感謝いたします。なんとしてもこの地で賊を捕らえ、例の物を回収したく存じます」
「うむ。帝国騎士たる貴公がここまで骨折っているのだ。我が国も総力を上げねばな」
そう言って、王はバッハとリゴーに目をやった。ふたりは正していた姿勢をさらにぴしりと正す。
「バッハ、リゴー。重々承知していると思うが、この小国では利権や派閥で争う余裕などない。何事も柔軟に、垣根を越えて当たらねばならんのだ。そのことをまず、親任官たる二人が範を示すように」
「はっ」
「心得ております、陛下」
ふたりは揃って最敬礼――深いお辞儀をした。親任官というのは、国王自らが親任式をもって任命する、高位の文官や武官のことである。
「――少佐」
王は続けて、アリシアに声をかける。
「はっ」
「リヒター卿が我が国で不自由しないよう、貴官がしっかり補佐するように」
「はい。陛下のご期待に応えられますよう、全力を尽くします」
彼女も深く、頭を下げた。